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「仏陀になるためのよりどころ」

【本文】

 人間が企てるすべてのことは、満足を目的としている。しかしそれは財産によっても得がたい。ゆえに私は、他人の努力で作られた徳によって生じる満足の楽しみを味わおう。

 かくして、この世で私になんらの損失も生ぜず、またかの世で大楽が得られる。しかし他人を憎むならば、この世で不満の苦を生じ、かの世で大苦を受ける。

【解説】

 ここは前節の称賛の話から続いているわけですが、これはまず簡単にいえば、他者の徳を称賛することで、大いに喜び、心から喜び、満足しましょう、と言っているわけです。
 それによって、自分自身になんらのデメリットも生じることはないし、また来世は高い世界に生まれて大楽を受けるでしょう、と。
 逆に他者を非難したり憎んでばかりいるならば、そもそもその非難や憎しみを発する自分自身が不満な人生を送るし、来世も地獄で大きな苦しみを受けるでしょう、ということですね。

【本文】

 言葉を語るときは、信ずるに値し、正しく整えられ、意味は明快に、心に楽しく、聞いて楽しく、慈悲心に基づき、柔軟で、音声に節度がなければならない。

【解説】

 言葉を語るときの具体的な指示がありますね。
 ここで根本となるのは「慈悲心に基づき」というところでしょう。すべての言葉は、慈悲の心に基づいて語られなければなりません。「音声に節度」というのは、大声過ぎず、また聞こえないほど小さな声でもいけないということですね。あとは読んだままの意味なので、説明は不要ですね。

【本文】

 「まさにこれをよりどころとして、私は将来ブッダとなることができる」と考え、あたかも(喉の渇いた人が冷たく清らかな水を楽しく)飲むように、常に目をもって衆生をまっすぐに見るべきである。

【解説】

 これは非常に大乗仏教的な見解ですね。
 つまり私たちがブッダになるためには、「衆生」が必要なのです。衆生との関係が必要なのです。
 徳のある私が、衆生を救済してあげよう、という傲慢な心だけでは駄目だということですね。
 つまり、自分よりもまだ智慧のない衆生のために、慈悲の修行を行なう。それによって自分はブッダに近づきます。ということは、その衆生の存在のおかげで、自分はブッダに近づいているということなんですね。 
 あるいはまた別の考えもありますね。それは自分と違う良い部分を持った衆生の良い点を称賛し、受け入れることで、自分の成長を促すことができます。衆生の欠点を見ることで、我が身を正すことができます。あるいは衆生が自分を苦しめてくれることで、自分の悪業が浄化されます。
 このように、他の衆生こそ、自分をブッダに導いてくれる偉大な存在なのです。我々はそれをよりどころとして、ブッダとなるのです。だから、衆生を嫌悪したり避けたりするのではなく、自分にとって必要な存在として衆生を見なさいということですね。
 ここは修行者が陥りやすい罠について釘をさしているような気がしますね。つまり修行していると、自分が清らかになっていくにしたがって、自分よりまだ目覚めていない多くの衆生に対する嫌悪感が出てくることがあります。しかしそれでは駄目なのです。それではブッダにはなれません。大乗仏教が提唱するブッダへの道は、衆生を愛し、衆生を受け入れ、あくまでも衆生との関係の中で、自己を磨いていくプロセスが必要だということですね。

【本文】

 大いなるすばらしいことは、不断の信仰心から生じ、また煩悩の対治から生ずる。またそれは、功徳の田地(ブッダ・菩薩方)と、恩徳の田地(父母)と、苦しめてくれる者より生ずる。

【解説】

 すばらしい幸福、すばらしい転生、そしてすばらしい解脱・悟り、ブッダの境地--これらは何から、何を原因と条件として生じるのでしょうかという話ですね。
 それはまず信仰心であり、そして煩悩を対治することによって生ずるんだと。
 次にブッダや菩薩を功徳の田地と表現していますね。つまり我々がブッダや菩薩と出会い、帰依することで我々に功徳が生じるので、ブッダや菩薩は功徳の田地だというわけです。
 次に父母。父母のおかげでこの肉体を得ることができ、また父母が無事に育ててくれたおかげで今、自分は修行することができます。だから父母は恩徳の田畑だというわけです。
 そして最後に「苦しめてくれる者」。これは前述の「衆生」の話にも通じますが、自分を苦しめてくれる人がいるおかげで、自分は悪業を浄化し、忍耐力を強め、真理への心を確固たるものにし、また慈悲の心を強め、慢心を弱めることができます。だから「自分を苦しめてくれる者」も、自分をブッダへと導いてくれる大事な重要な因であり条件なのです。

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