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「不生なる明智」

◎不生なる明智

 で、「不生なる明智の有様を分析せよ」。

 これはもう、とても難しい話だね。

 「不生なる明智の有様」――つまり、これはもう悟りの世界です。明智っていうのは、さっきから言ってる、普通われわれは経験によって心に蓄積された情報によってそれを当てはめて見てるんだけど、全く当てはめない状態が明智です。つまり、経験関係ない。ありのままにこの世を見た状態が明智です。

 でもわれわれはそれをまだ経験していない。だから明智とかいわれてもよく分からない。だからこの辺もまだ、間違ってはいるだろうけど、イメージでかまいません。もしこれをやる場合はね。

 つまり不生なる明智っていうのは、不生っていうのは生まれないって書いて不生だけど、つまり二元を超えている。全ては生まれては消えているんです。始まっては終わる。これがわれわれの世界だね。で、この明智っていう状態っていうのは、その二元を超えた状態。過去も現在も未来もない。生まれることも、死ぬこともない。

 あの、何回か言ってるけど、わたし前にインド一人旅したときに、ヴァラナシのね、ガンジス河で瞑想してて、あることを悟ったことがある。で、これは仏典とかにも載ってるんだけど。ちょっとなんか言葉に出すと、なんじゃそりゃっていうような感じなんだけど(笑)、どういうことか一応言ってみるとね――過去というのは、過ぎ去ったものであると。よって実体はないと。過去って過ぎ去ってるんだから何の意味もないと。未来っていうのは、まだ来ていない。だから何の意味もない。実体がない。現在というのは、過ぎ去る。よって意味がない――っていう悟りなんだね(笑)。

 過去は終わってる。未来はまだ来ていない。現在は過ぎ去る。ああ、過去も現在も未来も意味がない――という境地に達したときに、それを超えた何かがある(笑)。ね。

 これは一つの例だけど、そういった二元性を超えた世界の入り口みたいのがある。それを、まだみなさんはイメージだけでもいい。もしくは、みなさんが瞑想したときに、もしそういうちょっとでもその入り口みたいなところに触れた経験があるとしたら、それを当てはめる感じでもいい。とにかくこの二元の世界を超えた明智、ありのままにこの世を見たときの、この世の本質みたいなものがある。それを分析せよと。

 で、それを哲学的に分析するやり方もあるんだけど、わたしはあんまり哲学的にはやらない方がいいんじゃないかと思うね。仏教の伝統では、空の哲学っていうのは、徹底的にチベット仏教とかでも勉強させるんだけど、まあ、あんまり――わたしの個人的見解では、あんまりそれやってもしょうがないっていうか。逆に邪魔になることすらあります。それは「空とはこうこうでこうで……」っていうのがあんまり入っていると、本当の悟りの障害となる場合すらある。だから、大まかにはもちろん知っておく必要はあるんだけど、あまり哲学的な追求はやりすぎない方がいいと思うね。

◎道も空

 はい、次に、「対抗手段である『空の智慧』自体も、あるがままに解き放て」。この辺もちょっと難しいね。 ちょっとさらっと説明するけど、「空の智慧」「一切は空である」――この考え自体も、邪魔になる場合があるんだね。つまり、この一切は空であるという考えも空なんだっていうふうに見なきゃいけない。まあ、この辺はちょっとさらっと過ぎましょうね。

 「道そのものも空性のままに置け」。これも同じです。空を悟る道に励むわけだけど、それも空なんだと、ね。

 でもこの辺はあまり考え過ぎない方がいい。「え?どういうことだろう。道も空? うーん……」とやってるよりは、日々修行した方がいいです(笑)。日々の形ある修行をした方が、実際に空に近づきます。ただまあ、頭の片隅にこれを置いておいたらいい。

 つまり、そこで引っかかっちゃう人がいるんだね。いいところまで来てるんだけど、その空っていう概念に捉われちゃって、そこから進まなくなっちゃうとかいう場合があるから、この詞章は頭の片隅に置いといたらいい。

◎幻術師のように

 はい、で、「瞑想と瞑想の合間にあるときには、幻術師のようであれ」。これはどういうことかっていうと、瞑想と瞑想の合間っていうのはつまり、本質的にはわれわれが――一番理想的なのはさ、日常生活で普段の普通の生活を送りながら「一切は空だ」と悟ると。これは最高なんだけど、最初はそんなとこまでは行かない。最初は瞑想して、ぐーっとこう非常にいい状態になったときに、その空の智慧みたいなのを悟るんだね。でも瞑想から覚めると、やっぱり普通の意識に戻っちゃう。ね。だって二元の世界に戻るわけだから。

 で、それはまずしょうがないんだけど、でも「幻術師のようであれ」と。「幻術師のようであれ」ってどういうことかと言うと、幻術師っていうのは――よくね、ヨーガとか仏教とかのインドの例えで、この幻術師って出てくるんだね。幻術師って魔術師みたいな人で、幻を作り出す人です。で、こういう例えがよく出てくるから、本当にインドってそういう人いっぱいいたのかもしれない(笑)、昔。つまり、その魔術師みたいな人がいて、バーッと幻を作るような、いわゆる種や仕掛けがあるマジシャンじゃなくて本当のマジシャンみたいな人がいたのかもしれない(笑)。

 で、なぜこの幻術師っていう例えが作り出されてるかっていうと、その幻術師、魔術師みたいな人がいるとしてね、例えばですよ、じゃあ象の幻を出したとするね。象の幻をバーって出しました。そうするとそこにいるみんなは、大変驚く。「うわー!」「キャー!」と。「象が現われたー! 助けてー!」と。あるいは虎を出す。そうするとみんな「うわー!」と驚く。でも魔術師はどうですか? 絶対驚かないでしょ。だって自分が作ったんだから、幻だって分かってる。でもみんなは本物だと信じて、すごいパニックになる。つまり幻術師っていうのは、その虎や象をちゃんと自分の目で見ていながら、「まあ、幻なんだよね」と。全く安心しきっている。そういう感覚で、生きなさいと。

 つまり瞑想から覚めたら、空の状態にはいられないんです。だって人々とこう会話したりとかさ、普通にいろんなこと考えたりしなきゃいけない。だから空の状態にいられないんだけど、すべて幻であるっていう意識を忘れないようにしなさいと。そうでないと、われわれは取り込まれます。この二元の世界に。

 取り込まれるのは、だんだん取り込まれていくんだね。例えば「一切は空である」――と、こう悟りがあったとして、瞑想から覚めましたと。で、例えばそうだな、例えばわたしがこう瞑想してたとして、Tさんが、「先生、ケーキできました。味見してください」とか言ってきたとして、「うん、すべては幻である」と。「ケーキも幻だ」と。「Tさんも幻だ」と――「先生、早く来てください!」「うん、幻だ」と。「先生!」――「うるせーな」と(笑)。ちょっとカチーンときたりして、「うるさいなあ」と思い出すとかね(笑)。そうすると過去の記憶とか甦ってきて、「昨日もTさんなんか、人が修行してるのにこんなこと言ってきて」とか。「いつもそうなんだよな」とか(笑)。だんだんそのTさんの幻の中に、それを実体視する方向にグーッと行くんです。で、いつの間にかそれ以外のことも実体として自分に迫ってきて、気づいたら、一切は幻だっていう見方がすっ飛んでる。完全にこの現実の中に取り込まれちゃうんだね。

 だからそれを一生懸命グーッと追いやって、一切は幻だっていう感覚を持続させなきゃいけない。

 で、それに成功したら、いろんな感情にあまり左右されなくなります。何があろうとも幻だから。だからさっき言った、魔術師が虎を出しても虎を恐れないように、何が起きたって幻だから。何が成功しようが失敗しようが、何が自分にいいことがあろうが悪いことがあろうが、全部その、神が作り出した幻のようなものだと。その意識を持ち続けられたらオッケー。

 これはだから戦いになるね。その意識を持ち続けられるか。あるいはその普段の感情に負けてしまうか。でもまあ一生懸命努力して、一切幻だって見方を持続させるようにしなさいと。

 これはだから、みなさんも今の段階でももちろんやってみてもいいと思う。さっきいろんなこと言ったけど、いくつかは、もちろん複合的に同時に実践できるから。例えば、「一切は神の愛だ」と見ながら「一切は幻だ」って同時に見ることもできる。あるいは、「一切はクリシュナだ」って見ながら「幻だ」って見ることもできる。あるいは「夢のようだ」って見ながら、まあもちろん夢と幻って同じようなもんだから、「幻だ」って見ることもできる。その思いを持続させなさいっていうことですね。

 はい、この一節は非常に難しいところだね、最後のことを言ってる部分ですからね。

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