yoga school kailas

「常にどこにいようとも」

◎常にどこにいようとも

【本文】
『私と一体となり、万有に偏在する私を礼拝するヨーギーは、
 どこにいようと何をしようと、常に私の中にいるし、私とともにある。』

 はい。これもだから結果を言っていると同時に、常にこういう意識をしなきゃいけないね。つまり日々生きながら、すべてを至高者であると見てすべてに礼拝をすると同時に、常にどこにいようと何をしようと自分自身も至高者と一体化していて、あるいは至高者といつも一緒にいるんだという感覚を持ちながら生きるっていうことだね。
 で、これは何度も言うけどね、実際やってみて下さい。やってみるとね、わかってきます。
 分かってくるっていうのはそういう――理屈ではなくてこの世の仕組みみたいなのが分かってきます。「ああ、本当に至高者はいるな」と(笑)。で、本当に自分は守られているなっていうのが、いろんな現象とかいろんな自分の心の働きとかで分かってきます。
 だからバクティ・ヨーガの話をするとね、現代のけがれたわれわれの意識では宗教っぽく感じちゃうんだけど、そうじゃないんだね。もうちょっと純粋な信仰の世界っていうのは素晴らしいものがあって――で、その第一にはやっぱりね、信が必要なんです。信っていうのは、まあ縁がないと信も持てないんだけど、縁があって「あれ? こういう世界って正しいのかもしれないな」って思ったら、強い信を持つことだね、まずはね。で、強い信を持って実践をすると――つまり自分の今までの考えとか観念とかっていうの全部捨てて――ちょっとさっきも出した例をもう一回挙げると、ミラレパとかナーローパとかの世界ね。というのは彼らっていうのは、あるいはマルパとかもそうだけど、自分の考えを全部捨ててるんですね。ナーローパが一番いい例だから挙げると、ナーローパっていうのはインド一番の学者って言われた程の仏教学者だった。で、学者だけじゃなくてちゃんと修行もしてて、いろんな達成をしてて、もう瞑想においても神通力においても学問においてもナーローパにはインドでかなうものはいないって言われる程までなった人だった。でも彼のもとにダーキニーが現れて、お前はまだ完全な悟りを得ていないと。お前のグルであるティローパのもとに行けって言われて、ティローパのもとに行ったと。
 で、その時点でナーローパはそれまで培ってきた自分のすべての経験を捨てるんです。で、心を虚しくしてティローパに帰依するんだね。で、ティローパのやることっていうのは自分が今まで学んできたことは全然違うことばっかりなんだけど(笑)――教えを与えてもらおうと思ったら、はい、こっから飛び降りなさいとか(笑)、何かわけわからないことばっかやらされるんだけど、まったくそれに、
「いや、そんなこと仏教の本に書いてありません」
とかそんなこと差し挟むことなく完全に自分を委ねるんだね。それによってどんどん達成していって、ティローパがナーローパにやらせようとしてたこととだんだん心がリンクしていって、で、完全に最後は一体化すると。
 ナーローパが最終的に悟ったときの表現として面白い表現があって――それはティローパがね、頭蓋骨に腐ったものをいっぱい入れていて、で、それは誰が見ても誰が食べても腐った不味いやつなんだけど、ティローパがそれをナーローパに食えって言ったと。で、ナーローパはちょっと嫌だったんだけど(笑)、食えっていうから食ったと。そしたらおいしかったっていうんだね。
 それは何かっていうと、ティローパが自分のイメージによって、その瞑想の力によってその汚いものをおいしいものに変えてたんです。でもそれはティローパだけにとっておいしかった。他の、われわれがそれを食ってもそれは不味いんです。でもナーローパはいろんなティローパの仕掛けに耐えて、完全にティローパと一体化してたので、ティローパがおいしいと感じるものはすべておいしく感じるようになってた(笑)。それが彼の一つの達成の印だったんだね。
 でもこれはもちろん一番最初にティローパとナーローパの縁っていうのがあって、で、縁を信じてそれまで自分が培ってきたもの全部捨てて教えに身を委ねられるぐらいの信があったんだね。まあそこまで強い信を持てとは言わないけど、それぞれの中でそういった――今日学んだ教えもそうだけどね、教えに対して信をもって、信を持ってやってみるんです。やってみて結果が出たらその結果によってまた自分のいい経験になる。「ああ、本当にここはこうだったんだな」と。で、結果が出ない部分に関してはまだちょっと足りないのかもしれない。もしかすると間違っている可能性もある。こういう感じで、自分をまず委ねてやってみることが必要だね。

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