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「一切は他に依存している」

【本文】

 胆汁等は大苦の原因であるが、それに対して私は怒りを発しない。それならばなぜ心識を有する者に対し、怒りを発すべきであるか。彼らといえども、等しく条件によって、怒りを起こさせる者ではないか。

 あたかも(胆汁などによって身体の)苦患が心ならずもおきるように、そのように、怒りもまた心ならずもいやおうなく発生する。

 「私は怒る」と思考した後に、人は願って怒らない。また怒り自体も「これから起ころう」と志向して起こるのではない。

 あらゆる犯罪、さまざまの罪悪、これら全ては、条件の力による。自主独立のものは一つもない。

 また条件の集合に「私が生ぜしめる」という思惟はなく、生じたものにも「私は生ぜしめられた」という思惟を欠く。

 (サーンキャ学派が想定する)と伝えられるプラクリティと、彼らの仮定するアートマン--この両者も、「私は生じよう」と思考して生起するのではない。
 それらは生起する前には存在しない。そうすれば何が「発生しよう」と願いうるか。また対象に関与することから停止されるのを願わない。
 さらにアートマンは永遠で、非精神的で、虚空のように偏在しており、明らかに動作のないものである。たとえ外的条件と接触しても、不変のアートマンにどういう動作がありうるか。
 動作のときに、動作以前と同じ状態にあるもの--かかるものによってどんな動作がなされるというのか。もし「外的条件との結合はアートマンの動作である」というならば、その結合において、いずれが他の原因でありうるか。

 かように、一切は他に依存している。そしてこの、他を依存せしめているものもまた、独立ではない。もろもろの存在は化現のように主動性(独立性)がないものであるのに、何に対して怒りが発せられるか。

 反対者が、「そうだとすれば、怒りの抑制はまったく不可能であろう。何が何を抑制するのか」と言うならば--「それは可能である」と答える。なぜなら依存関係による生起(の法則)があるので、苦しみが静止してなくなるということも認められるからである。

 ゆえに、敵もしくは味方が不埒な行ないをするのを見ても、彼にそのような条件が働いているのだと思って、心を安らかに保つべきである。

【解説】

 さあ、ちょっと難しい部分に入ってきましたね。いや、実はこの部分は難しくはありません。私はできるだけ実質的に、皆さんに利益のある形で解説していきたいと思うので、難しい学術的な解説は学者の方にお任せして、ここではわかりやすく活用しやすい形で解説してみたいと思います。

 簡単にいうと、すべては縁起だということです。しかしそういっても難しいので、もっと簡単にいうと、すべてはもろもろの条件がお互いに依存しあい、生起しているだけだということです。それもむずかしいのでもっと簡単においうと、「すべてはカルマの流れに過ぎない」ということです(笑)。

 たとえば身体の何かの成分の異常により、病にかかり、苦しみが生じたとします。しかし我々は、たとえばその身体の分泌物に対して、怒りを発するでしょうか?--擬似的に発する人もいるかもしれませんが(笑)、本質的には発しませんね。なぜなら、それはその分泌物のせいというよりも、その分泌物が異常を起こすさまざまな条件が重なってそのようになり、苦しみが生じているに過ぎないからです。
 我々は分泌物などの「意識なき者」に対してはそのような理解が出来るのですが、意識を持った人間が何か自分に害をなしてきたとき、そのように思うことができません。しかし真実は、そこで彼が何か悪い思いに動かされたのも、実際に自分に害をなしたのも、すべて、彼が独立して彼の力で行なったわけではなく、さまざまな条件の集合された力によって、彼が私に害をなしたという結果が生じたのにすぎないのです。だから身体の分泌物に対して怒るのが適当でないように、加害者といわれる者に対して怒るのも適当ではないのです。
 またもちろん、これら条件の集合されたものも、「私はこのようにしよう」と思考して動いているわけでもないのです。

 このように、この世の全ての存在、現象は、それぞれが他に依存しあって成立しているに過ぎず、自主独立で存在しているものは何もない--これがナーガールジュナから連なるいわゆる中観派の空の哲学の中心的な考えですね。
 AはBとCによって初めて成り立つ。BとCを離れて独立したAはない。しかしBもAとDによって成り立ち、CもBとDによって・・・という感じですね。このようにして複雑な条件の生起によってあらゆる存在や現象が生じ、消え、を繰り返しているわけです。この法則を離れ、独立自存しているものは何もないということですね。
 ということは結局、私が怒る対象というのもそもそも存在しないんだということですね。これはつまり空の哲学の上から、怒りを発することの無意味さを説いているわけですね。
 たとえば雪で滑って転んだとき、何に対して怒りますか? 雪ですか? 雪が降ったことですか? 誰も雪かきをしてなかったことに対してですか? 滑った靴に対してですか? 弱い自分の足腰に対してですか? この現象は、自分のカルマにより、さまざまな条件が寄り集まり、カルマの果報を現象化したにすぎないのです。どこにも、怒るような対象、実体はないのです。そして繰り返しますが、それは相手が意識を持った人間であっても同じなのです。自分のカルマにより、さまざまな条件が寄り集まり、彼が私に苦しみを与えたに過ぎないのです。そこにおいて実は苦しみを与えた「彼」という実体は存在しないということです。

 ならば、「怒り」自体も実体がないのだから、それを抑制することも不可能ではないか、という反論者の反論を想定し、シャーンティデーヴァはここで「縁起による生起」という言葉を持ち出していますが、私はこれは12縁起の法のことではないかと思いますね。
 つまり無明があることによって行があり、行があることによって識があり・・・という感じで、何かが何かに依存しながら生起していって、煩悩が生じ、最後に苦をもたらすんだという法則があります。しかしこれはその依存のもととなっているものを次々と滅していくことによって、煩悩も苦も滅するのです。よりどころがなくなるわけですから。だから自分の怒りのよりどころとなっている無智とか、自我観念とか、過去の経験に引きずられる心とか、楽苦の錯覚とか、無意味な憂いや悩みとか、そういうものをことごとく滅したなら、怒りは成立困難になります。よって教えにより、修行により、怒りの抑制や滅尽は可能なのです。

 よって--まず「怒りを起こさせるような不埒な行ないをなしている主体は存在しない。ただもろもろの条件が依存しあって生起しているだけである」という見方によって、対象への怒りを起こさないようにする。
 そして生じてしまった怒りに対しても、「怒り自体も自主独立ではなく、もろもろの条件が依存しあって成り立っているだけである」という見方によって、それら怒りの条件となっている自己の心のもろもろの悪法を取り除き、怒りを滅する。
 このような努力によって、常に心を安らかに保つべきなのです。

 さて、途中のサーンキャ哲学についての考察の部分はあえて話の流れからはずしました。そのほうが話の流れがわかりやすくなると思ったからです。しかし最後に少しだけふれておきましょう。
 サーンキャ哲学は、インドの代表的な哲学の一つで、ヨーガとも深い関係があります。それは簡単にいうと、この世の本質は、永遠不滅で一切変化することない真我と、全ての動的なエネルギーや存在の源であるプラクリティの二つであるという二元論です。真我は永遠不変な純粋観照者なのですが、プラクリティが織り成すさまざまな幻影の働き(マーヤー)を、真我が自分が変化していると錯覚しているのが現代の我々の輪廻の状態だという見解です。
 大体において大乗仏教の論書はこのサーンキャ哲学を否定しますが、シャーンティデーヴァはあえて仮に受け入れて、もしそうだとしても、自主独立のものは一つもない、と言っているわけですね。
 真我は透明な水晶のようなものです。そこにプラクリティが作り出すマーヤーが写ります。まるでその水晶は、たとえば赤い色がついたように見えますが、実際は色はついていません。しかしそのように見えるのは、水晶の透明さが原因なのでしょうか? マーヤーの赤い色のせいなのでしょうか? 実際は、マーヤーが赤く見えるのは水晶の透明さに依存しており、水晶が赤く見えるのはマーヤーの赤さに依存しているのです。

 この文脈では、シャーンティデーヴァはサーンキャ哲学を否定しているけど、あらゆるパターンを論証するために仮にそれを取り入れた、というのが一般的な見解かもしれませんが、私は、シャーンティデーヴァは、実際はすべての教えの普遍性をわかっていたのではないかという気もします。すべては方便であって、言葉に表せない真理を、さまざまな別の言葉・概念で表しているに過ぎない、と。

 ところで、実は私は以前、まだこの入菩提行論を読む前ですが、こんなインスピレーションを得、心が安らかになったことがありました。わけがわからないかもしれませんが(笑)、今回の内容と少し関係があるので、参考までに最後に少し記しておきます。

「私の正体は真我である。よって、他者の私への評価は、すべて間違っている。
 私の正体は真我である。よって、私の私自身への評価は、すべて間違っている。」

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