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「救済の心」

 
【本文】

 一切の衆生が、願いだけで目的を成就することが出来るなら、誰にも苦しみは生じないであろう。誰も苦しみを願うものはない。

 人々は怠惰さから、茨や棘や食の欠乏などによってその身を悩まし、及ばぬ女などを望むことから、怒りを発して(自らその身を悩ます)。

 あるいは、首をつり、あるいは高所より飛び降り、また毒や不健康なものなどを食うことにより、また不道徳な所行によって、人々は自身を殺す。

 かように、煩悩に支配されて、愛しい自身すらも殺すのに、どうして彼ら(衆生)が、他人に対して害を加えるのをやめることがありえようか。

 これら煩悩に狂い、自己の破滅に努めている衆生に対し、ただ救済の心を起こさないばかりか、かえって怒りが発せられるとは、どういうわけか。

 
【解説】

 修行をしていない普通の人というのは、いや、修行をしていてもまだ完成していない人も含めて、衆生はみな、執着や怒りや無智といった煩悩に支配されています。それら執着や怒りや無智によって、人々は、上記にあげたようなさまざまなパターンで、自分のことをわざわざ苦しめているのです。それは自分を苦しめたくて苦しめているのでしょうか? そうではありません。もちろん本当は幸福を求めているのに、執着や怒りや無智といった煩悩に支配され、何が真実かわからなくなり、自分で自分を苦しめるようになっているのです。

 そのような無智によって、衆生は愛しい自分自身のことも苦悩に追い込むわけだから、彼らが自分自身よりは愛しくない他人のことを苦悩に追い込むのは、もうそれは当たり前のことではないか、というわけですね。

 そしてそういう観点で見るなら、たとえば私に危害を加えてくる衆生というのは、大変哀れむべき存在なのです。執着や怒りや無智に支配され、愛しい自分自身を苦しめ、さらに他者をも苦しめなければならない--そのような悪しきカルマに支配された、哀れむべき衆生なのです。菩薩はそのような衆生を救わなければなりません。しかしお前は菩薩のくせに、そのような哀れな衆生を救おうという慈悲を起こすこともなく、そればかりか怒りを起こすとはいったいどういうことなんだと、シャーンティデーヴァは自分を戒めるように言っているわけですね。

 たとえば何らかの被害にあって苦しんでいる人。この人に対しては当然、哀れむべきです。これはわかりやすいですね。しかし真に哀れむべきは、そういう表面的な現象ではなく、無智に侵され、煩悩に侵され、自ら苦悩の道に入り込んでいる衆生の存在です。彼らには無量の慈悲が発されなくてはなりません。
 しかし客観的にそのような無智に苦しむ衆生を見て慈悲を発することはできるのに、ひとたび彼らの無智が私に向けられ、私が攻撃の対象になったとたん、彼らに慈悲ではなく怒りが生じてしまうというのはいったいどういうことだと、そういうことですね。

 よって自分にそれらの攻撃が向けられたときこそ、慈悲を発しましょう。ああ、この人はこんなにも苦しんでいるんだと。
 そして喜びましょう。ああ、この人の無智による攻撃の対象が、私でよかったと。それが他者には向けられませんようにと。そして私がしっかり修行し、三宝や師への帰依を強めることで、その私に攻撃を向けたその縁によって、この人も真理に導かれ、真理に目覚めますように、と。

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