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「マハームドラー」

◎マハームドラー

【本文】
 ところで、このような方法によらずに、無分別のサマーディに入り、念と正智によって長い間サマーディを持続させると、至福・光輝・無分別という三つの特長を持つサマーディを経験する。この至福・光輝・無分別のサマーディは、小乗・大乗・真言乗のすべてにおいて、共通して経験することができる。

 しかしここでいう「マハームドラー」とは、その至福・光輝・無分別のサマーディとは、全く別のものなのである。これを理解することは非常に重要である。

 ミラレーパの一番弟子であるガンポパは、ミラレーパに会う前に、カダム派に出家し、基本的な仏教の教えをマスターし、高い瞑想のステージに達していた。しかしミラレーパはガンポパに初めて会ったとき、ガンポパが今まで行なってきた修行内容を聞いたうえで、

 砂を絞ってもバターをとることはできない
 そのようなサマーディでは十分ではないから
 私のチャンダーリーの火の修行を修習すべきである

というアドヴァイスを与えている。

 ここの部分は、まずですね、「至福・光輝・無分別のサマーディ」っていう言葉が出てくるね。ここで書いてることをちょっと簡単に言うと――ナーローの六ヨーガとかを使わなくても、普通に正しくしっかり修行していると、至福・光輝・無分別のサマーディに入りますよと。それは素晴らしい状態ではあるが、しかしそれはここで言ってるマハームドラーの最高の悟りとは違うんですよと。つまりマハームドラーの最高の悟りっていうのは、それらも超えた状態なんだよと。
 で、これはね、正しいんです。正しいんだけども――つまりちょっともう一回言うと、われわれが瞑想修行をどんなやり方にしろ――それはバクティ・ヨーガにしろ、ラージャ・ヨーガーにしろ、ジュニャーナ・ヨーガしろ、仏教のやり方にしろ、進めていくと、当然――大雑把に言うとですよ――いい状態になっていくよね。つまりいい瞑想に入るようになっていきます。じゃあいい瞑想って何なのかっていう問題がある。それはいろんな要素がある。で、いい瞑想に入れるようになっていって、で、素晴らしい瞑想の境地が出てきます。「ああ、素晴らしいですね」――で、そのさらに先に本当の悟りがあるわけだけど、その本当の悟りにまではまだ到達していないが、瞑想としては非常に素晴らしい状態っていうのがある。「じゃあ何をもって素晴らしいというのですか?」――それがここにある三つの要素、つまり、至福と光輝と無分別。これは一つのバロメーターになります。
 つまりどういうことかっていうと、まずエクスタシー。非常に気持ちがいい。そして光輝。つまり光り輝きます。つまり瞑想していてバーッと光が出てきます。で、もう一つは無分別。無分別っていうのは心が止まるんです。つまり、瞑想してて心がピタッと心が止まった。光に満ちた。非常に気持ちいい。これはいい瞑想だよと。で、しかし、それは最終段階ではないよと。
 ただここで考えなきゃいけないのは、でもほとんどの人はこの三つの瞑想にさえ行けてないんです。だから最初は、この三つの特長を持つ瞑想をわれわれは得なきゃいけないんだね。だから「それも違うよ」っていうのは、そこまで到達した人の話であって、まずはそれくらいは得なきゃいけない。多くの人――多くの人っていうのはつまり、世界中で今いろんな形で瞑想している人の多くの人はこれを経験してない。だからみなさんはそれを経験するようにしなきゃいけない。
 で、この三つは同時にくるというよりは、その人の特長によって、例えばどれかが良かったり、どれかが駄目だったりっていうのは当然あるよね。例えば気持ちいいんだけど光がないとか。あるいは、光輝いているけど全然気持ち良くないとか。あるいは、気持ち良いんだけど全く心は動いてるとかね。あるいは、心は止まってるんだけど、全く暗闇で気持ち良くもないとかね。これはいろんな要素が絡んでるんだね。
 例えばあまり徳がなくて、あるいは神や仏陀への帰依とかもあまりないと。しかしあまり執着もないっていう場合ね。この人はこの無分別は得やすいと思います。つまり何も考えない状態、心が止まった状態にはなるけども、徳もないし帰依もないから真っ暗だと。あるいは別にエクスタシーもないと。こういう状態になるかもしれない。
 あるいは非常に徳に満ちてると。徳に満ちてるけど雑念が多いと。この場合は心が止まらない。で、雑念があるから雑念に邪魔されてあんまり光が見えない。でも気持ちいいと。徳によって。
 だからいろんなパターンがあるんだね。
 だから最高なのは、もう一回言うけど、心が止まり、光が輝き、そして非常に気持ち良いと。だから自分の瞑想の良い状態っていうのを、この三つの状態で測ればいい。どの部分が今足りないかな。どの部分が進んでるかな。足りない部分があるとしたらその部分をちゃんと進めていけばいい。
 もちろんここでいう瞑想っていうのは――例えばみなさんが、「はい、じゃあ瞑想しましょう」「ああ、瞑想ですね」……五分、十分――これを言ってるんじゃないんです、実は。いつも言ってるけど、瞑想っていうのは必ず、別次元に入るという感覚があります。つまり、これはみなさん経験してるかどうか分かんないけども――「はい、瞑想しましょう」「あ、十分経ちました。二十分経ちました」「はい、瞑想終わりにしましょう」――じゃなくて、「瞑想しましょう」――まあ十分か二十分か分かんないけど、あるときいきなりガタッて違う世界に入ります。つまり完全に不連続点があるんだね。ガタッて入ります。で、その入った世界の話なんです。つまり普通に座って、あんまりいつもの変わらないような状態で、「先生、光見えません」とかそんなこといってるんじゃないんだね。もうちょっとレベルの高いことをいってるんだね。
 しっかりその瞑想の世界に入ったと。「あ、何だこれは!」と。だから最初の頃はね、「何だこれは!」っていう感覚がするかもしれないよ。おもしろいことに、瞑想に入っても普段の意識ってあるんだね。だからちょっとそいつがびっくりしてたりするんです。例えばバーッて入って、ウワーッて意識が変わるんじゃなくて――入ったと。でも心は変わってないんです、別に。「ちょっとやべー! 何だこれは!」って感じでこう展開されていくっていうかね。そういう感じがある。オーッて入っちゃったと。だから最初のころはちょっとびっくりする。そういう深い瞑想に入れるようになるとね。
 ガッて入ったら、いきなりその感覚とか世界がちょっと変わった感じがある。それはいろんなレベルのパターンがあるよ。すごく意識がバーッて広がる感覚があったり、あるいは、何か世界が揺れてる感覚があったり、あるいは全く違う、光に満ちた感じがあったり。それは何度も言うけど、曖昧じゃないんです。非常にリアルにくるんです。まさにこの世でわれわれがいろんなことを経験するのと同じような感じで、リアルに現実が変容されたような世界にガクッて入るんだね。で、そこでの話なんです。
 そこに入ったときに、「さあ、光はありますか? 心は止まってますか? それからエクスタシーはありますか?」――これがバロメーターになる。
 だからみなさんが、何度も言うけども、ちょっと座って全然――あの、そういう瞑想が意味がないとはいわないよ。心がバーッて深く入らない瞑想が意味がないとはいわない。それはそれでもちろん土台作りにはなってる。でもね、いつも言うけど、そういう瞑想するんだったら、ボーッとするよりは、自分を作りかえる瞑想をいっぱいやった方がいい。
 作りかえるっていうのは――つまり、瞑想って二種類あるんですね、大きく言うと。つまり自分を作りかえる作業。これは例えばマントラを唱えるとか、あるいは詞章を唱えるとか、あるいはいろんなイメージをしていくとかね。こういった瞑想っていうのは、意識的に――つまり意図的にある習慣を繰り返すことによって、自分を作り変えてるんだね。じゃなくて、もう一つは、ただボーッとする瞑想。このただボーッとする瞑想っていうのは、分かると思うけど、別に創造性はないんです。その瞑想をしたからといって何か変わるわけではない。でも、いろんなことを知ることはできるね。例えばボーッとして、「あ、自分の中にはこういうものがあったんだ」とかね。いろんな経験はできる。例えば自分に中にある――さっき言った光とかエクスタシーを出す要因があるとしたらね、瞑想に入ることによってそれがバーッて出てきて、「あ、光が出てきた。エクスタシーが出てきた。すごいな」っていう経験はできる。でも光を増やしたり、エクスタシーを増やしたりすることはできない。それは他の瞑想とか、あるいは日々のいろんな修行でやらなきゃいけないんだね。
 で、もう一回言うけども、浅い瞑想でボーッとしてたって何の意味もない。だから浅い瞑想しかまだできないうちは特にそうだけど、徹底的に自分を作り変える。つまりボーッと十分座ってる暇があるんだったら、十分マントラ唱えた方がいいんです。あるいは十分しっかり経典でも読んだ方がいい。その方が全然時間の使い方はメリットがあるね。
 で、本当に深い瞑想に入れるようになったら、さっき言ったような境地にしばらく漂うとか、いいのかもしれないけど。まだ全然そうじゃない、普通に座って、「ああ、何か気持ちいいな」ぐらいだったら、あまりそれを修習する必要はないね。

◎高度なアドヴァイス

 はい、ちょっと話がずれましたが、とにかく深い瞑想に入って、至福、光、そして心が止まった状態っていうのを、まずはわれわれは目指さなきゃいけない。で、これが一つの素晴らしい瞑想のバロメーターになります。しかし、それさえもまだ最終段階ではないんだと。つまりこれは高度な話をしてるわけだけど――つまり修行が進んできて、素晴らしい至福の境地、そして光に満ちている、心も止まっている――「おれはマハームドラーの悟りを得た!」とは思っちゃいけないっていうところなんだね。それは確かに素晴らしいが、その先があるんだよ、というのがここの部分だね。
 だからこれはものすごく高度なアドヴァイスだね。はっきりいって、まだあんまりみんなにはまだ関係がないアドヴァイスっていうか(笑)、関係のないアドヴァイスといってもいいかもしれない。でもまあ一応頭に入れておけば、みなさんがこれから修行が進んだときに、間違わなくてすむっていうことだね。
 はい、そして次のエピソードは、ミラレ―パのもとにガンポパがやって来たときに――ガンポパっていうのはミラレ―パのもと来る前に出家してね、結構高い段階に達してたわけだけど、ミラレ―パのもとに来たときに、ミラレ―パがね、「お前が今までやってきた修行は確かに素晴らしいけども、それよりもわたしの教える――この六ヨーガの熱のヨーガね――この修行をやりなさい」と。ね。「それによって偉大なるマハームドラーの境地に速やかに達成できるだろう」と言ったというエピソードですね、ここはね。

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