yoga school kailas

「バルドの教え」

20090314 解説・ナーローの6ヨーガ⑦

◎バルドの教え

 今日はナーローの六ヨーガ。バルドの教えに入りますね。
 バルドっていうのは死後の世界。一般的にね、死後の世界の話ですが、チベット仏教とかインド仏教では、みなさんも知ってのとおり、例えば『チベット死者の書』みたいな、ああいう死後の教えってたくさんあるんだね。で、このナーローの六ヨーガの中にも、このバルドのヨーガっていうのがあるわけですが、このベースの教えはもちろん他のいろんな死後の教え、仏教的な死後の教えと同じなんですが、これはナーローの六ヨーガという一つの修行システムの中の教えなので、他の教えに比べると、より積極的な内容になってるんだね。つまり、単純に死んだらこうなりますよっていうよりは、その死後のチャンスを活かしてね、どういうふうに解脱するかとか、修行を進めるかっていうような内容になっています。
 はい。じゃあ、ちょっと今回はね――昔このバルドの教えの勉強会をやったときも結構難しくてね、なかなか頭に入らなくて大変だったような感じがするけども(笑)、今日もちょっと若干難しいかもしれませんが――本当はね、難しいっていうのは慣れてないから難しいだけで、いってることはそんなに難しくないです。だから、何を言いたいのかっていうのをしっかり掴むようにしてくださいね。はい。じゃあいきましょう。

◎バルドの基本的な教え

【本文】

☆バルドの幻を観想する方法

1.バルドの基本的な教え

 生命体が死に、また生まれ変わるまでの死と生の中間の状態において、その者はバルドの身体を持つ。その身体は、すべての感覚器官を完全にそなえ、ある種の神通力を持ち、次に生まれ変わることが確定している場所以外には、どこへでも行くことができる。
 バルドの身体の寿命は、長くても七日である。その七日の間に新たな世界に生まれ変わらなかった場合、再び新しいバルドの身体を得る。これは最高七回まで繰り返されるので、最長の場合四十九日間となり、この四十九日の後には誰でもが、必ずどこかの世界に生まれ変わる。

 これはつまり、死にましたと。で、まだ生まれ変わってないときに、バルドの身体を持つ。つまりこれは、われわれに馴染み深い言葉でいうと、幽霊です(笑)。お化けです(笑)。幽霊ね。
 つまり、実際幽霊っていうのはある。死者の霊っていうのはあります。でもそれは、まあ長くて四十九日だっていうことだね。四十九日以降経っても居る死者の霊は、普通はない。ただ例外はあります。例外を除けば、普通はないです。

◎死後の霊的身体

 つまりわれわれは死んだら、バルドの身体と呼ばれるつまり霊的身体、幽霊みたいな感じになりますよと。まあだからよく漫画とかで描かれるようなこう――死にましたと。で、霊的な存在になってふわふわとこう動いてたりするっていうのは、あれはつまり本当にあるわけですね。本当にそういう状態があります。
 で、それは、「ある種の神通力を持ち、次に生まれ変わることが確定している場所以外にはどこへでも行くことができる」。これはすごいね。次に生まれ変わることがもし――まだ確定してない場合もあるわけだけど――確定してたとしたら、そこには行けないらしいんだね。でも、それ以外だったらどこでも行ける。
 ただこの状態っていうのは、かなり混沌とした意識状態です。だから今こういう話をすると、K君とか、「おお、楽しそう」って思ったかもしれないけど(笑)、そういう意識はないからね。つまり、「お! 自由だ!」って思って(笑)、いろいろいたずらしてやろうとかね(笑)、いろんなところに行くとか――いう感じではない。つまり、非常に混沌とした深い意識状態で浮揚するんです。「なんかよく分かんないけど何だここは・・・・・・」・・・・・・ふわーってかんじだね。
 だからよく言うけど、まあ前にも何回か言ったけども、葬式、あの日本の葬式って最悪なんです。なぜ最悪かっていうと、まず色が全体的に黒いよね(笑)。そしてみんな悲しそうに泣いている。で、まあそうですね、生きてる間にお経とか勉強してた人は別だけど、勉強してない限りはね――みなさんイメージしてください。今の表層的な頭じゃなくて、深ーい意識に入った、つまり夢みたいなぼーっとした意識に入ったときに、あの雰囲気。【お経を唱える真似】――気持ち悪いよね、なんかね(笑)。ちょっと、「うわっ! なんか気持ち悪いっ!」って感じになる(笑)。ちょっといやーな気持ちになって、で、みんな暗いし、なんか泣いている。そうすると意識がワーッて下がります。で、例えばその人の可能性として、人間にも生まれるかもしれない、地獄にも行くかもしれない、動物にもなるかもしれないっていうちょっと不確定な要素があった場合、当然その変な音とか視覚的なものとか雰囲気によって引き下げられて、低い世界へ落ちる可能性もある。だからああいうのは最悪なんだね。
 つまり何を言いたいかっていうと――死にました。しばらくはその死体の周りを、つまり幽霊としているんです。もちろんどっかに行ってる可能性もあるけども、だいたいその死体の辺りをふわふわと――つまりさっきから言ってるように、はっきりした意識はないから。非常に曖昧な意識状態で、「なんかおれはどうなったのかなあ……」みたいな感じでふわふわしてるんです。だからそこにいる、つまり遺体とかその骨の周りでね、葬式とかをやってるとしたら、そこにも、その音とかあるいはみんなのこととかが見えるわけだね。「ああ、なんかみんな何やってるんだろう……」。
 何度も言うけど、はっきりとした意識はないよ。だからはっきりと、「おれは死んで、このように葬式を今やってるのだな」っていう冷静な意識はない。まあ、あるとしたら修行者の場合はあるかもしれない。つまり相当修行を積んで、意識が覚醒してる人。つまり深い意識に入っても非常に冷静な意識を保てる人は、死んでもそうかもしれないけど、普通はぼーっとしてる。もしくは意識が完全にない場合もあるけどね。意識があったとしてもぼーっとしてる。で、その状態で、ああいう暗ーい葬式の状況を見せられると、意識が下がります。だからああいうのは本当はよくないんだね。
 じゃなくて例えば、そうですね、まあ明るくしろっていうと変だけど、葬式でね(笑)。神やブッダに祈りを捧げるとか、そういうのはやっぱりいいよね。あるいはお経を唱えるにしても、その人の分かる言葉で唱える。つまり日本人だったら日本語でちゃんと唱えてあげる。そうするとなんかよみがえってくるかもしれない。
 わたしもね、よく瞑想でこういうバルド的な体験したりとか、非常に深ーい意識の経験をしたときとかに、何回か経験あるんだけど、例えばここでもちょっと売ってるけど、わたしが吹き込んだ『入菩提行論』とか、『バガヴァッド・ギーター』のCDとかあるよね。例えばああいうのを、あれじゃなくてもいいんだけど、ああいうのを例えばかけながらこう瞑想したりしてて、で、ものすごい深い意識に入る。で、例えばバルド的な意識に入ったときに、すべていったんふっとぶんです。バーッと。ふっとんで非常に混沌とした状態に入るんだけど。で、その状態って、最初言葉も認識できません。言葉を認識できないっていうのは、例えば今言ったわたしのそのCDがかかっていたとしてもね、例えば「第十八章 モークシャ・ヨーガ」とかかかってたとしても(笑)、第十八章――つまりこれは十八番目の章の、モークシャというヨーガだっていう認識がない。なんとなく音として「ダイジュウハッショウ モークシャヨーガ」って感じで、こう認識される。でもその内容を繰り返し繰り返し生きてるときに修習してた場合、もう頭で論理的に「これはこうだからこうで」っていうんじゃなくて、そのワード、イコール心の状態ってこう連動するようになってるんだね。例えば『入菩提行論』のある一節が出てくると、ハッと心が非常に真剣な救済に向かうとかね。あるいは『バガヴァッド・ギーター』の一節がパッと出てくると、それを頭で論理的にこうこうこうっては思ってないんだけど、連動して神への思いがパッと出てくるとかね。そういうのはあるんだね。
 だから徹底的に生きてるうちに教えなり、あるいはいろんなこういう詞章なりを修習するっていうのは、そういう意味でも大事なんですね。そうすると例えば死んだ後にね、誰かがその死体のそばで経典読んであげたりすると、論理的には理解できないけども、生きてたときにそれを読んでたときの崇高な気持ちがよみがえってきます。それは素晴らしいんだね。
 だから本当はそういう葬式だったらいいんですね。死にましたと。理想的な葬式のパターンを挙げるとしたら、まず葬式これから行ないますよと。注意点があります。黒い服着て来ないでください、とかね(笑)。白い服や、できるだけ明るめの服を着てくださいと。ね。で、悲しそうな顔しないでくださいと。つまり死者ができるだけその高い世界へ行って――真剣なね、神やブッダを願う真剣な顔はいいけども、ネガティブな顔とか、ネガティブな想念を発さないでくださいと(笑)。で、できるだけ高い世界に死者が行くようにということを神々や三宝に祈ってくださいと。で、実際にそこでいろんな経典を読んだりね、あるいは歌を歌ったり――ここではよくね、ミラバイとかクリシュナの歌とか歌ってるから、そういうのによく生前参加してた人は、それをかけてあげてもいいね。例えばK君が死んだら、「K君これ好きだったなあ」――カチャッて。ゴーヴィンダ・ジャイ・ジャイ……そうするとK君の魂が、うわーってなってるときに、「あ! そうだ、クリシュナだ! バクティだ!」ってなって、高い世界に引っ張られるかもしれない。ね。そういう葬式だったらとてもいいね。でも日本の葬式はちょっとやっぱりあんまりよくない。あのパターンっていうのはね。
 はい。で、とにかく、死んだらまず幽霊みたいになってふわふわとさまよいますよと。で、それは七日間だけ続く。で、いったん七日でその幽霊みたいな体は消滅するんだが、また新しくできると。それが最高七回まで繰り返されますよと。よって七かける七、死後の世界は四十九日だっていわれるんですよっていうことですね。

◎例外について

 さっき例外があるって言ったけども、まず一つ目の例外は、これは例えば事故、あるいは――まあ事故の場合が多いかもしれないけど、事故とかで急に死んだ場合。正しい死のプロセスに入れずに、このバルドといったらいいのか、霊的な存在にずっとい続ける場合もあるといわれています。これは現代的な精神世界的な言葉でいうと、地縛霊とかいうよね。例えば事故を起こしたときとかに、その辺りに死者の霊がいるとかね。ああいうのは実際あり得る話なんだね。でもそれは、生まれ変わらなかったっていうよりも、つまり霊の世界に生まれ変わったんです。霊の世界に固定されちゃったっていう感じなんだね。
 同じように、別パターンでもその霊の世界に固定される場合がある。それを「餓鬼」っていってるんだね。あるいはプレータ――サンスクリット語だとプレータといってます。日本語だと餓鬼っていいます。つまり餓鬼っていうのは、これは幽霊のことなんですね。
 で、もう一回言うけども、誰でも死んだらいったん幽霊になります。でも普通は四十九日以内にどこかの世界に、つまり肉体を持って――ここでいう肉体っていうのは、低い神も肉体だから――神、人間、動物、地獄、阿修羅、このいずれかの世界に肉体を持って、そこに固定されるはずなんだが、四十九日たってもどこにも固定されませんでした。その魂はその霊の体に固定されるんです。これが幽霊。これが餓鬼だね。これがだから、まあ例外といっていいのか、つまり餓鬼に生まれ変わる場合は、四十九日以上たっても霊の状態のまま浮遊し続けますということだね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする