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◎輪廻がもたらす不利益

◎輪廻がもたらす不利益

 はい、そして四番目が、「輪廻がもたらす不利益」。

 つまりこれは、解脱しなきゃ結局だめなんだよと。輪廻といわれる世界――つまりわれわれが生きているこの幻影の六道輪廻。これは大変な苦しい世界だと。

 しかもこの六道輪廻の苦しみの最たるものは、終われないっていう恐怖です。終われない。つまりわれわれが心を入れ替えて、「さあ、悟ろう」と。「解脱しよう」と。そういうふうに心が向かわない限りは、終われないんです。終われないっていうのは、延々と続く。
 
 みんなはどうか分からないけど、わたしはやっぱり小さい頃から、あまり人生に執着がなかった。だから逆に長生きはしたくないって思ってた。ここでいう長生きっていうのは、よく漫画とかでさ、不老不死の薬とかね(笑)、あるいは何千年生きることができるとかね、そういうのが出てくる。で、それを求めて悪の組織が争うとかあるんだけど、そういうの見てると、「え!? 何千年も生きるなんて、ちょっと退屈だ」と(笑)。「おれはそんなのは嫌だ!」と思ってた。

 つまり、さっきも言ったように、わたしの場合、小さいころ現実的に世の中を観てたところがあったから、「この世の中ってそんないいもんじゃないな」って思ってた。もちろん修行とかするんだったら別なんだけど、そうじゃなくて普通に生きるんだったら、あまり価値がない。苦悩が多いし、それから存在の意義が見出せない。

 さっきも言ったように、修行とか菩薩道っていう意味では見出せるんだけど、もしそういうのがなかったとしたら――だって無常でしょ? これみんなはよく考えなかった? わたしはよく考えました。「無常なのに、何求めてるの?」と(笑)。「さあ、金持ちになるぞ!」「さあ、野球選手になるぞ!」――でも最後は終わるんだよ。「終わるものを求めて、おれ、何やってるんだろう?」って(笑)――でも生きなきゃいけない。これが怖いところなんです。

 それもだからわたしが小さい頃ぶつかった恐怖で、「え? ちょっとこの世ってさ、全部終わるし、たいしたことないし、わけ分かんない」――でも現前たる人生が目の前にあるんです。生きなきゃいけないんです。終われないんだね。

 で、ヨーガや仏教の思想だと、「でも六十年、七十年、死んだら終わりじゃないですか」と――じゃない。また生まれ変わってしまいますと。生まれ変われるじゃなくて、生まれ変わってしまうんです。つまり、われわれが解脱っていう境地に行かない限りは、生まれ変わっちゃう。

 つまり肉体は無常だから、肉体の寿命があるからそれで終わっちゃうんだけど、われわれの心が輪廻に結びつけられてる。輪廻に結びつけられてる状態から離れない限り、ただボディが入れ替わるだけであって、輪廻からはずーっと逃れられないんだね。

 で、このまったく意味の見出せない無常な人生の繰り返しが、延々延々と続く。五万年で終わりですよとか、そんな甘い話ではない。あなたが気付かない限りは、ずっと続きますと。

 で、それはさっきも言ったように、三角形の世界だから、ほとんど下なんです。つまりほとんど苦悩の世界なんです。で、たまーに天とか神とか人間に来ますと。でもそこで心を入れ替えなかったら、また堕ちます。この繰り返し。

 これはお釈迦様ももちろん説いてるし、いろんな聖者が説いてきた輪廻の話です。これを徹底的に学ぶ。

 で、もちろんわれわれはまだ――仏教では宿明通とかで実際に自分の前生とかを思い出すわけだけど、まだ思い出してなかったとしても、まずお釈迦様やその聖者の言ったことに信を持つ。わたしは無智でまだその輪廻転生の秘密が分からないが、わたしはお釈迦様のことを信じますと。お釈迦様のことを信じるとしたら、輪廻があるようだと。あるいは、いろんな聖者も同じように輪廻があると言ってると。しかもその輪廻というのは、われわれが解脱しない限り終われないんだと。そこら辺の精神世界の適当な人が言うみたいに、三回生まれ変わったら目的を果たして高い世界へ行くとか(笑)、そんな話じゃないんだと。われわれが自分の錯覚っていうもの――つまり輪廻っていうのは錯覚だから。この錯覚っていうものを、無智っていうものを取り除かない限りは、この膨大な夢っていうのは終われない。この終われないっていう恐怖があるんだね。

 そして一個一個見ていくと、地獄っていうのはいかに苦しいか――これは前『覚醒の虹の宝飾』の勉強会とかでね、散々やったと思うけども――地獄の苦しみ、あるいは餓鬼の苦しみ、動物の苦しみ。これをリアルに考えるんだね。つまり何となく、「地獄、餓鬼、動物。三悪趣、苦しいですね」――そんな曖昧な話じゃなくて(笑)、いかに地獄が苦しいか、いかに動物が苦しいか、いかに餓鬼が苦しいかっていうのを、真剣に考えて納得する。

 だからね、それだけを集中的にやる瞑想ってあるんですよ。「はい。じゃあ今日は地獄をテーマにしましょう」と。で、一時間、二時間くらい地獄について考えるんです。いかに苦しいか。自分がそこに落ちたらどうだろうかと。あるいは自分以外の友達とかがそこに落ちたら、もう哀れでしょうがないと。でもその地獄に落ちる可能性っていうのは、ものすごく高いと。われわれがね。われわれが修行しなかったら地獄に落ちる可能性は非常に高いと。それを真剣に何度も何度も考えるんだね。そうすると自分自身も修行せずにはおれないし、あるいは周りの人々も修行に向かわせずにはおれない。

 例えば現代においては、怒りっぽい人がいたとしても、あまり問題にはされない。「怒りっぽいね」ぐらいだね。あるいは例えば虫を殺してたとしても、別にそんなに問題ではない。でも彼の行きつく先は地獄かもしれない。それを考えるわけだね。そうすると放っといてはおられない。でも、自分にはまだ彼らを地獄から救う力はないから、早く自分が修行を達成して、自分と縁のある人々をそういった世界から救える存在になりたいと――これを菩提心というんだね。

 だからそういう菩提心をつくるためにも、この六道の苦しみ、輪廻の苦しみをひたすら考える。

 もちろん人間界については、さっきも言ったように、自分の人生とかあるいは周りの人生を観察してね、いかに人間の世界が苦しいかということを、リアリティをもって観察しなきゃいけない。

 お釈迦様の時代はよくそういうことをやったっていいます。例えば病気とか、もちろん死とかもそうだけど、あと喧嘩とかね。醜い親族間の争いとかやってるのを聞くと、弟子たちは見に行ったっていうんだね(笑)。みんなで観察に行くんだって(笑)、人間界の苦しみっていうのを(笑)。「ああ、楽しそうにやってる親族達もこんなに醜い争いをして、本当にかわいそうだ」と(笑)。だからそういうのをリアリティをもって考えるんだね。われわれが悟らない限り、この六道は苦しいよと。

 もちろんいつも言うように、菩薩道っていうのは、その苦しみの輪廻にあえて突っ込むんだけどね。でもそれは、あくまでも自分の悟りっていうのは前提になってる。つまり自分が悟りをしっかりと得て、その悟りをもって、その苦しみの世界で、苦しみ悩む魂を救うわけだね。だからよく言うように、ただ情熱だけじゃだめなわけです。

 例えば泳げない人がね――よくそういう事故ってあるけど――泳げないんだけど、溺れる人が見てられなくて飛び込むと。で、結局二人で溺れてしまう。もしその人が泳げたら、当然その素晴らしい「救いたい!」っていう気持ちによって救うことができる。よって、「おれは泳ぎを身につけよう」と――これが菩提心なんだね。つまり、単純に自分の修行をせずに、単純にただ強烈な愛情だけで、「みんなを救いたいんです!」ってやってても、別にあんまりみんなのためになってないかもしれない。本気で相手を救いたいと思ったら、まず自分がその力を身につけなきゃいけない。

 だからリアリティをもっていうと、菩提心ってそういうことなんだね。単純に「みんなを愛してますよ」とか、「みんな幸せになってくださいね。そのためのお手伝いは何でもしますよ」――これはもちろん素晴らしいことだけど、そのためにはわたし自身が変わらなきゃいけないっていう――よくね、チベットでは菩提心のことを「勇猛な決意」っていうんだけど、まさに勇猛な決意なんです。

 つまり、みんなどうせやらないでしょと。だったらわたしがやりましょうと。まだみなさんは真理に巡り合ってないと。あるいは、巡り合ってるけども、まだそんなに目覚めていないと。でもわたしには、できるだけの条件はあると。よって、わたしがみんなの分、一生懸命修行して、偉大な悟りを得て、みんなのお手伝いをしたいと。こういう勇猛な心なんだね。

 でもそこに至るまでもこの六道の苦しみ――いかにわれわれが今住んでるこの六道輪廻――人間界だけじゃなくて、輪廻という世界がいかに悲惨で、本当にもう過ちに満ちた、詐欺に満ちた魔の巣窟であるか。それを心に何度も何度も覚えこませなきゃいけないんだね。

◎学び続けるべき教え

 はい。今言った四つのこと。まあだからそうだな、これは全体がこう補い合ってるわけだね。

 この世は苦しいよと。本当に苦しいよと。

 それはカルマの法則によって、その苦と楽っていうのは決定されてますよと。だから正しく生きなきゃいけないんだなと。

 しかし正しく生きてたとしても、この六道輪廻から逃れない限りは、われわれは本当の意味では救われない。

 そしてそのチャンスが今、あなたの目の前にありますよと。これは本当に稀なチャンスだと。人間として生まれて、教えと出合って、その教えを実践できるような環境が整ってるなんてことは、もう宝くじが当たるなんてもんじゃない(笑)。

 よくいわれる例えとしては、砂漠の中で――いいですか? 砂漠。サハラ砂漠みたいな砂漠の中で、たった一個のダイアモンドの粒を探すようなものです。つまり砂漠の中にヘリコプターからMさんが放り出されて、「はい、ゲームです」と(笑)。「今から一週間以内に、砂漠の全砂粒のどこかにダイアモンドの粒が一個だけありますので、探してください」と。「サハラ砂漠です」と(笑)――こんなもんだね。

 これでMさんが、「え!? そんなのあるわけないじゃん!」って言って、ワーッて探して、「あ、あった!」と――これが今のわれわれです(笑)。こんだけの奇跡なんだね。

 「あった!?」「ちょっと待ってくれ」と(笑)。あまりの奇跡にわれわれは気が動転してるのかもしれない(笑)。気が動転してその価値がよく分かっていない。でもこれが過ぎ去ってしまったら、つまりわれわれが修行をあまり達成せずに死んでしまったら、そのときわれわれは後悔します。「あんなに素晴らしい環境がすべて揃ってたのに、何でおれはやらなかったのか」と。後悔しながら、また何億回も生まれ変わりを続けるかもしない。だからそういうイメージだね。

 で、繰り返すけども、本当にわれわれはそうじゃない、この中にいる人は前生から修行者とか菩薩の道を何生も歩いてる人も多分いると思うよ、もちろん。もしかするとみんなそうかもしれない。しかし考え方としては、今言ったような考え方をまず土台として身につけるんです。それはわれわれの心を奮い立たせてくれるから。だからそれを徹底的に学ぶんだね。

 で、いつも言うように、この教えっていうのは、われわれがいくら修行を進めても忘れてはいけないといわれている。つまり土台から、それから偉大ないろんな達成をしても、この四つの教えは常に学び続けろっていわれるんだね。チベット仏教ではね。

 はい、これが前行ですね。この後から本格的な教えに入るんですが、今日はちょっとここまでにしておいて、これで終わりにしましょう。お疲れ様でした。

(一同)ありがとうございました。

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