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バクティの精髄(1)

※この作品は、以前にも一度アップしましたが、わかりにくい表現や勘違いしやすい箇所をまとめなおし、もう一度アップしなおしていきたいと思います。

Essence of Bhakti――バクティの精髄――

スワーミー・シヴァーナンダ

◎バクティの哲学

 バクティとは、献身、無私の愛である。これは言葉そのものの意味である。その語源は「バジャ(Bhaj)」――仕えること、深く関心を持つこと――であり、「バジャ・セーヴァヤム(Bhaj Sevayam)」がサンスクリット語の語源である。それゆえに、バクティとは、神への強烈な愛着、神や神に関する物事への深い関心を意味する。

 真実には、絶対者お一人しか存在していない。人とはただの自我意識であり、一見すると、絶対者から分け隔てられているように見える。
 外界物への愛というのは、すべてのものと一つになろうとする無意識的な内なる本能なのだ。なぜならば、真実には、人間は絶対者そのものであり、すべてに遍在しているからだ。彼はすべてのものを求める。愛とは、「経験」が現われる前触れである。愛とは切望であり、経験はそれを実現することだ。誰も、何かを愛さずに生きることはできない。「創造神は、外界の活動で感覚を貫き」、そしてこの世界のすべての存在を支配する。
 心が、外界を知覚する主要な器官である。なぜならば、感覚のさまざまな道筋を通じて外界を知覚するのは心だからである。心が働かなければ、感覚は働かない。

 しかし、心を外側の四方八方に向かわせているのは、われわれの側の愚かさである。散乱した心の光は、見、そして聞くことができるこの宇宙にある無数の対象に興味を注ぐ。ヨーギーたちは、常に宇宙の中心の一点に集中している心は、超越的な力で行為し、事物を破壊することができる、という結論に行きついた。
 レンズを通して太陽光を一点に集中させると、その集められた光は物を燃やすことができるが、光があちこちに散乱していては、そのようなことは起こらない。何でもよいから、心をある一つの物に集中させなければならない。あちらこちらに跳び回らせてはならない。それはサンサーラに向かう道である。一点集中によって心を制御し、これを止めるべきである。集中は宇宙の中の一点になされてもよいし(バクティ・マルガ)、存在全体になされてもよい(ジュニャーナ・マルガ)。思考の消滅は、個の死であり、絶対性の経験である。

 人は、どんな対象物にも心を集中させることができる。彼は簡単に、妻や子供に心を集中させることができる。しかし、ここで説こうとしている集中や愛というものは、それらのことを言っているのではない。世俗的な喜びの対象を瞑想すること、あるいはそれらを愛することは、ジーヴァを縛りつけて、生死の流転に放り込む鎖である。われわれがここで示している集中や愛というのは、神に向けられたものなのだ。この無私を起源とする愛は、最終解脱への階梯なのである。

 感情は普通、完全な悟りの妨げになるとされる。しかし、魂を縛りつける性質を持つ感情ではない、ある特定の感情は、ジーヴァを束縛から解放する。神に対する思いは、魂を縛りつける感情を湧き立てることはない。それは現世欲や執着を持たない純粋な愛である。人は神に対して現世的な愛を発することはできない。神に対する思いや神への愛は、最も純粋な感情を呼び起こす。その感情は、日夜人を打ちのめしている悪しき感情よりも、遥かに素晴らしいものである。 
 感情を全く鎮めることのできない者たちは、せめてこの純粋な感情を持つべきである。バクティ・マルガおいて、神聖なる感情は重要である。神への愛は、決して妻や子供や財産を大事にするというような類の愛ではない。しかし、そこには確かに大きな違いがあるのだが、バクタたちは、神への愛にさえも、息子、夫、父、友などに対する現世的な愛に似たカラーリングを施す。

 それでは、神への愛が、どうやってわれわれをサンサーラから解脱へと導くのだろうか? 
 人間とはエゴイスティックな存在である。人間の唯一の敵はエゴである。人は、この世界のものと自分は完全に別のものであると感じている。人間は、肉体とこの宇宙の間には、はっきりと境界線が引かれている、ということを確信している。人は、どうにかしてその肉体を否定しようとしても、自分は肉体であるということを固く信じている。人は、「私」と言うときはいつも自分の胸を指さすが、その辺の木を指さすことはない。多くの残念なヴェーダーンティンたちも、自分たちは「私はブラフマンである」と言い張りつつも、それはただ「肉体はブラフマンである」と言っているに過ぎない、ということを感じている。肉体という観念と「私」を引き離すのは非常に難しい。「私は○○である」と言っても、それは「この肉体は○○である」と言っているに過ぎない。誰も、本当の自分であると思っているこの肉体という観念を取り除くことなどできないのだ。すべてのヨーギーたちの理想は、このエゴの感覚を根絶することである。そしてバクティヨーガとは、この区分の感覚、つまりエゴイズムの感覚を殺す手段なのである。バクティヨーガは、心の装飾を滅ぼし、個を宇宙意識で満たす。

 あるバクタはこう言っている。

「おお、主よ! 私はあなたのもの。すべてはあなたです。私は独立した存在ではありません。私には何かを為す力はありません。あなたが私を道具として使って、すべてのことを為しておられるのです。
 おお、主よ! あなたはすべてに遍満していらっしゃる。あなたがすべてに遍満しておられるので、私は動くことすらできません。私はあなたのお体の上を歩いています。私は独立して生きることなどできません。なぜなら、あなたがすべてに宿っていらっしゃるのを見ているからです。あなたは男女として、または、道に杖をつきながらふらふらと歩く老人として現われます。すべてになっておられるのは、あなたなのです。私には独立性がありません。私はあなたの奴隷。奴隷には見解を選択する自由はありません。奴隷は主人に命ぜられたままに働く他ないのです。私は何も為していません。ただ、私を通じてあなたが行なっているだけなのです。あなたが行為者。あなたが楽を享受する者。私は何ものでもありません。すべてはあなたのご意思のままに。」

 これは最高のかたちの愛、神聖なる愛である。エゴは自己の存在を主張することはできない。なぜなら、すべてになっておられるのは神お一人であるからである。
 心は感覚的対象へのヴリッティへと変化することはあり得ない。なぜならば、神以外の対象は存在しないからである。愛される、あるいは嫌われる誰がいるというのだろうか? ゆえに、バクタは常に至福に満ちている。
 心は何も考えることはできない。なぜならば、すべては神だからである。

 「ヤットラ ヤットラ マノー ヤティ タットラ タットラ サマーダーヤハ(どの対象に心が向かっていようが、すべてがサマーディの経験となる。)」

 心が向かうところすべてが、サマーディの経験となる。なぜならば、心は現世的な喜びの対象を見い出すことはないからである。神は、宇宙の隅々にまで充満している。全世界は、神の栄光を身にまとっている。聖者と悪人、徳と罪、善と悪、人間と動物、すべては神の御姿である。どうして心が、それらを邪悪に扱うことができようか? そこで心はサマーディを経験するのである。心には意識がある。しかし、心は対象を持たない。それはサマーディである。サマーディとは、思考無き意識、対象無き智慧。これはパラー・バクティであり、ヴェーダーンタの悟りと同一のものである。ヴェーダーンタの悟りとパラー・バクティは、一つのものを二つの名前で呼んでいるだけで、同一のものなのだ。この二つのものの結果として、エゴ(心)は滅される。心は知覚の対象なしでは生きることができない。この上なく力強く、この上なく智慧に満ち、この上なく至福に満ちている神は、すべての大気、地上に遍在している。彼は地球であり、天界である。彼は父であり母であり、兄弟姉妹である。神は、すべての愛、渇望、欲望、野望の達成である。彼は、すべての心のヴリッティの停止である。彼は到達すべき理想である。

 外界の知覚は、すべてに遍在する神の存在に気付くときに止滅する。感覚的対象は、神の栄光へと変貌する。妻はもはや愛欲の対象ではなくなり、金は誰もが欲しがる所有物ではなくなる。すべては神であり、神以外の何ものでもない。すべては礼拝されるべきものとなるのだ。

 「ロバ、犬、チャンダーラは礼拝されるべきものである。なぜなら、すべては神なのだから。」

と、クリシュナはウッダヴァに言った。

 「サルヴァム カルヴィダム ブラフマー(すべてはまさにブラフマンである。)」

 これもまた同様である。そこに違いはないのだ。

 二種類のサマーディの描写が、シュリー・クリシュナのラーサ・リーラーの中に見い出される。まず最初に、ゴーピーたちが、すべてはクリシュナただお一人であると認識するとき。これは、サヴィカルパ・サマーディと同一のものである。その次に、彼女たちが、自分たちでさえもクリシュナであったと気付いたとき。これはニルヴィカルパ・サマーディと同一のものである。そこにエゴの感覚はなくなる。
 シュリーマド・バーガヴァタは、バクタたちのバイブルである。そこには、さまざまな種類のラーサや、バクティを開発するさまざまなムードが描写されている。

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