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解説「王のための四十のドーハー」第一回(1)

2008年8月13日

解説「王のための四十のドーハー」第一回

 今回からまた新しいシリーズで、サラハの詩、『王のための四十のドーハー』ですね。
 このサラハ、それからサラハの詩について若干解説すると、まずこのサラハっていう人は、まあ、かなり伝説的な人ではあるんですが、インドの仏教の、まあ、いわゆる密教の、偉大な成就者ですね。で、かなり昔の伝説的な人なので、いろんな説があって、まあ八世紀ごろの人っていう説もあるわけですが、もっとはるかに古い時代の人ともいわれています。
 この人は、いわゆる密教ね、密教の偉大な成就者として、特にマハームドラーといわれる密教の修行の偉大な、まあ聖者として知られてる人で、だから今のチベットでも――チベットではマハームドラーっていう教えがありますが、特にそれを重要視するカギュー派ね、ミラレーパとかのカギュー派とかではこのサラハっていう人を、まあ、すごく尊敬してる。
 伝説によると、このサラハという人は、インドで、あるブラーフミンあるいはブラーフマナと呼ばれる僧侶階級に生まれ、まあ非常にインテリであった。生まれも非常に高貴な生まれで、そして非常に高い役職に就き、そして王様に気に入られて――つまり王様のお城付きのお坊さんっていっぱいいるわけですね、その当時は。その当時は、いわゆるこのブラーフミンと呼ばれるヒンドゥー教のお坊さんっていうのはものすごく尊敬されてるから、社会的地位もすごくある。社会的地位も高くて、そして多くの、富と名声などの多くのものを得ていたわけだね。で、王様からも非常に信頼が厚くて。で、王様はこのサラハが大好きで、自分の娘を、のちのちには妻として与えようとさえ思っていた。
 しかしサラハは、あるとき、シュリーキールティといわれる、仏教の師匠に出会うわけだね。で、そのシュリーキールティに弟子入りするわけです。で、自分の身分をすべて捨てて、出家して、まあ仏教の出家修行者になる。
 で、このシュリーキールティっていう人も謎の人なんだけど、一つの伝説によると――これはあくまでも伝説だけども、お釈迦様の弟子っていうのはいろんな弟子がいたわけですが、お釈迦様っていうのはもちろん、推測するとだよ、弟子に応じてさまざまな教えを説いたんだね。これは原始仏典である有名な言葉なんだけど、「わたしが悟り得たことはたくさんある」と。「しかし君たちに説くことは、わずかだ」と。「わたしが悟って君たちに説かないことっていうのはたくさんあるんだ」と。「それはなぜかというと、それを説いても君たちに利益にならない場合、それは説かない」っていうことを言ってる。つまり完全に対機説法なんだね。つまり目の前の弟子に対して、あ、この弟子にはこれを説くべきであるっていうものだけが説かれるんだね。
 で、お釈迦様の二大弟子といわれたサーリプッタ、それからモッガッラーナ、この二人は、お釈迦様の死ぬ前に死んでるんだね。亡くなってるんです。で、お釈迦様の死後、お釈迦様の座を継いで二代目教祖となったのは、マハーカッサパと呼ばれる弟子だったんだね。もちろんこのマハーカッサパっていう人はすごい素晴らしい弟子だったことは間違いない。で、このマハーカッサパの特徴っていうのは、頭陀第一といわれるんだね。頭陀第一っていうのは、つまりできるだけ質素に、できるだけもうぜいたくせずに、もうほんとにいつもぼろを着て、で、寝るときも横になって寝ない。いつも座って寝る。で、ひたすら修行に励む。ひたすら煩悩を捨てて、ひたすら瞑想し、ひたすら現世から離れるっていうタイプだったんだね。で、その人がリーダーとなって、お釈迦様の死後、仏教教団を率いていった。
 で、お釈迦様の死後、このマハーカッサパをリーダーとして、いわゆる経典結集が行なわれるんだね。経典結集っていうのは、お釈迦様が――つまりその当時の経典っていうのはこういう本じゃなくて、全部口頭で伝えられていた。つまり兄弟子から言葉で教えられて、それを新しい弟子はちゃんと耳で聞いて覚えて、で、それを次の世代に伝えるっていうやり方だったんだね。でも、弟子の質がちょっと下がってきたんで、教えがちゃんと残らないとまずいと、そう考えたマハーカッサパは、高弟たちを集めて、で、みんなで、つまりいわゆる答え合わせをしたわけだね。「お釈迦様こう言ってましたよね」と。「確かにそう言ってた」と。つまり変な教えが入り込まないように、ちゃんとお釈迦様の教えはこうだよねっていうかたちでまとめていったんだね。そうして、原始仏教といわれる流れがまとまっていくわけだけど。
 ただ、それを率いてたのが、もう一回言うけども、マハーカッサパだった。つまり、今われわれが知っている原始仏教あるいは上座部仏教とか呼ばれる流れっていうのは、そのマハーカッサパのカラーが非常に強いということは言えるかもしれない。じゃあ、お釈迦様はほかの弟子には何を説いたのか――これはいろいろ意見が分かれるところだけど。
 で、ちょっとここで話が戻りますが、お釈迦様の実の息子――つまりお釈迦様は出家する前に結婚してて、息子が一人いたわけですが、これはラーフラっていう息子がいたんだね。で、ラーフラっていうのは、前から何度も言ってるけど、お釈迦様が修行を志して、しかしお父さんが反対してるから城を出られない、この非常にジレンマの中にいて悶々としてるときに生まれた息子だったんだね。だからお釈迦様はそれを「障害」と呼んだ。「ああ、障害だ!」と。つまり、おれはすべてを捨てて出家して解脱しようとしてるのに、また執着してしまうような対象が――つまり子供なんて生まれてしまったら、そんなものはなければないで良かったのに、生まれちゃったらまた執着しちゃいそうになると。で、修行が進まなくなると。「ああ、障害だ!」って言ったんだね。で、それでそのまま、その障害を意味するラーフラっていう名前がその子供に付いちゃったんだけど。そのラーフラっていう息子がいた。で、このラーフラは、のちにお釈迦様が悟りを開いて、弟子を引き連れて故郷のお城に帰ってくるんだけど、そのときに、まあ半ば誘拐同然でお釈迦様が連れ去った(笑)。つまり半ば誘拐同然で、まあ、ラーフラだけじゃないんだけどね。故郷の有能な男の子たちをごそっと出家させてしまった。で、ラーフラもこのときに出家したわけだね。で、お釈迦様の弟子として、その後は、まあ聖者になっていくわけだけど。
 で、このラーフラの特徴が、密行第一といわれるんです、密行第一。で、この意味は何かっていうと、一般的にはこれは、戒律を密に――密にっていうのはつまり緻密に細密に、ほんとに細かいところまで守ることにおいて最も優れていたという意味で、密行第一という説が、まあ結構強い。でもそうじゃない別の説として、いや、彼は密教行者だったっていう説もあるんだね。これはほんとかどうか分かんない。でも、密教の立場からいうと、お釈迦様は実は密教を説いていたっていう考え方がある。つまり一般的な原始仏教的な教えではなくて、普通の人にはちょっと理解されないような、もうちょっと高度な、観念を超えたような教えを、お釈迦様は当時から説いていたんだと。で、それを受け継いだのがその息子のラーフラだっていう説がある。それはほんとかどうかはもちろん、なんていうか、今となっては分かんないけども。で、この伝説においては、このラーフラからの教えの系統を汲む聖者が、このシュリーキールティっていう人だったんだね。このシュリーキールティっていう人に、このサラハが出会って、弟子入りしたわけです。

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