yoga school kailas

◎謙虚なことば

【本文】
 智者はたとえ木で作られていてもスガタの像を敬うように、私のこの詩句がいかにつたなくとも、正しいダルマの教示によっていますから、軽んずべきではありません。

 あなたがすでに偉大な聖者の言葉に耳を傾けてそれをよく理解されているとしても、石灰から作られたものが夜の月光の下でさらにいっそう白くならないことがありましょうか。

 この辺はナーガールジュナの謙虚な言葉ですね。
 「智者はたとえ木で作られていてもスガタの像を敬うよう」――つまり木というのはただの木であって、なんの実体もないし敬うべきものではないんだけども、木でお釈迦様の像が作られたならば、当然みんなそれを敬う。それと同じように、わたしの言葉というのはつたなくて、大したいいことは言えないんだけども、お釈迦様の教えをまとめた言葉なのだから、それは敬ってくださいと。つまり私の言い方とか言葉が素晴らしいのではなくて、お釈迦様の素晴らしい教えをまとめたんだからっていう謙虚な言い方だね。
 はい、それから、あなたは――これも謙遜というか、相手を立てているわけだけど――あなたはすでにおそらくこういう仏教の教えは知っているでしょうが、石灰から作られた白いものが月光の下で――つまり満月の光のようなその下でより白く見えるのと同じように――あなたは分かっているでしょうが、よりこういう教えを学んで、よりそれが磨かれないということはないでしょうと。だからぜひお聞きくださいという、王様への謙遜した言葉だね。

◎随念

【本文】
 勝利者は、仏陀、仏陀の教え、出家教団、布施、戒、天への、六つの随念を説かれています。それらとそれぞれの功徳とを随念してください。

 これは随念――つまり、ここに書かれている六つのことについて、常に思いを凝らす。あるいはこの六つが持っている徳について、常に思いを凝らしなさいという意味だね。
 最初の三つは分かるよね。これは三宝というもので、仏陀と、仏陀の教えと、出家教団――サンガ、つまり弟子たちのことですね。つまりいつもいつも仏陀のこと、仏陀の教えのこと、あるいは仏陀の弟子たちのことを考える。で、その功徳ね。仏陀の素晴らしい徳、教えの素晴らしい徳、それから弟子たちの素晴らしい徳のことを常に考えなさいと。
 それから後半の、布施、戒、天というのは、まず布施と戒というのは分かるね。布施には三つの布施がありますと。財物の布施、それから人に安らぎを与える布施、それから人に教えを説くという布施。これについて考えてくださいと。あるいはそれらがもたらす素晴らしい徳について考えましょうと。
 それから戒律。戒律というのは、五戒、十戒、あるいはさまざまな戒律があります。その戒律の素晴らしさ、あるいは守らなければいけないということ、あるいは守ろうと意志ね、あるいは守ることによる素晴らしい徳――それについて常に思いをめぐらしてくださいと。

◎来世への思いのパターン

 そして最後の天というのは、これは原始仏教でもあるんだけど、これはね、みんなはどうか分からないけども、来世天に生まれ変わりたいという場合。みんなは来世どうなりたいかはよく分からないけど、仏教とかヨーガを学んで、輪廻転生を信じる場合は、来世に関してはいくつかの思いがあると思うんだね。
 まず一つは、来世、天――つまり神の世界に生まれ変わって幸せになりたいと。これは一般的というか一番基礎的なものだね。
 次が、来世、解脱したいと。来世というか今生解脱して、もう輪廻を超えたいというパターン。これは二番目だね。
 三番目は、そうじゃなくて菩薩として来世も苦しむ人々のところに生まれて、人を救いたいというパターン。
 これは有名な話で、あるチベットの高僧がね、おれはもう来世絶対に地獄に生まれるぞと決意して、もう一生その瞑想をやってたっていう話があります。一生、いかに地獄に生まれて地獄の衆生を救うかということを念じ続けて。ただその死の直前にね、自分の来世が見えてきたと。そうしたらずーっと何十年も地獄に生まれる瞑想をしたのにもかかわらず――来世仏陀の世界に行くということが分かってきてしまった。そこでその高僧は泣きながら弟子たちのもとに飛んでいって、
「大変だ! 大変なことが起きた!」
って言って、弟子たちが、
「一体どうしたんですか?」
って言ったら、
「いやあ、あんなに地獄に生まれようと思ってたのに、なんか仏陀の世界に行ってしまいそうだ」
と。
「どうかそんなことにならないように、わたしが地獄に行けるように、みんなで祈ってくれ!」
って、弟子たちに泣いて頼んだっていう話があって。
 これはだから菩薩道を歩んでいる人の請願だね。来世は、本当に苦しむ人のところに生まれたいと。それによって人々を救いたい。まあ地獄じゃなくてもいいんだけど――普通は人間界を選ぶんだね。なぜかというと人間界が一番修行しやすい。というのは、導きやすいんです。人間に修行させるのが一番簡単なんだね。だから仏陀がいるときに人間界に生まれることが最高だといわれる。
 四つ目としては、これはどちらかというとバクティ・ヨーガ的発想なんだけど、「お任せします」というやつです。お任せしますと。
 わたしは、昔は菩薩行――この三番目の道をすごく思っていた。わたしは来世も低い世界というか苦しむ世界に行って、みんなを救いたいなって思っていた。単純に解脱してどこか行っちゃうんじゃなくて。でも途中からはちょっと変わってきた。「お任せします」と(笑)。もちろん人々を救いたいというのはベースにあるんだけど、わたしがいろいろ考えて、こうこうこうだからこの世界に行こう――それもエゴだと。そうじゃなくて、ヨーガ的にいうと絶対者、仏教的にいうと如来――の、わたしは道具に過ぎないと。だからその意思に基づいて、好きにしてくださいと。それに従います――という気持ちにだんだんなってきた。これはバクティ・ヨーガ的な発想ね。
 だからどれでもいいんです。正しい法則に則っていれば。

◎天への随念

 ただこの後者三つというのは、かなり覚悟がいります。解脱するのはすごく大変だし、一生かけて本当にすべてを放棄しなきゃいけない。それから菩薩行。これはもちろん地獄であろうとなんであろうと、自分からそこに突っ込んでいかなきゃいけないわけだから、これも相当の覚悟がいる。最後も、全部をお任せするわけだから、もう自分の意志が全く介在しない。これも相当の投げ出す心がいる。
 でも一番最初の「天に生まれる」というのは、多くの人が願うことだと思うんだね。解脱とか、あるいはすべてを捨てるというのはなかなか大変だけども、来世少なくとも悪趣には生まれず、いい世界で幸せな神としての人生を送りたいなって思う人はいる。お釈迦様もその道はもちろん提示しているわけだね。まだすべてを捨てられない、悟れないという人は、じゃあこうすれば天にいけますよという教えは説いている。 
 その基礎は、まずここにもあった「布施と戒」です。徹底的に布施をし――そのベースには帰依があるけどね。徹底的に三宝に帰依をし、そして布施を徹底的になし、で、戒律をしっかり守りなさいと。これがベースとしてあります。
 で、次にもう一つ乗っかっているのが、ここにある「天への随念」なんです。天への随念ってどういうことかっていうと、これは原始仏典にあるんだけど、すごくリアリティのある教えなんだね。何かっていうと、まず天の構造を学びなさいと。で、自分が生まれたい天を決めなさいと。で、それについて徹底的に念じなさいというのがあります。
 どういうことかっていうと、例えば第一天界というのはこういう世界ですと。実は第一天界は四つに分かれているんだけど、それはいいとして、それぞれにこういう神がいて、こういう幸せな世界があります。
 第二天界は今度は、みんなが知っている帝釈天――インドラだね。インドラ神という偉大な神がいて、その他の三十二人の神がいて、いろんな女神たちもいますとか。
 第三天界はいわゆる閻魔王の世界。
 第四天界が一番仏教が目指すところなんだけど、ここはトゥシタ天。トゥシタという天界で、まだ解脱はしてないんだが四無量心にあふれた世界。
 それぞれパートパートがいろいろあって、それぞれの必要なものが変わってくる。
 例えばこの第四天界に生まれようと思ったら、解脱はしてなくてもいいんだけど、四無量心が必要なんです。つまり人々の幸福を願い、人々の苦しみを哀れみ、人々の魂の進化を喜び、そして自分に起きることについてはできるだけ無頓着になると。このような気持ちを育てながら、しっかり徳を積んで戒を守って、「さあ、わたしは来世、第四天界トゥシタ天に生まれるぞ」と。「さあ、生まれるぞ」と。このようなことを念じなさいとあるんだね。
 これは何かというと、徳を積むことによって――これは物理的に考えてください――徳を積むことで物理的な幸福のエネルギーみたいなのが増大します。で、戒を守ることによって、その貯めたエネルギーが漏れません。そしてもう一つ、戒を破っていると当然、徳とは逆の悪業のエネルギーが増大するんだけど、戒を守っているから悪業も増大しません。で、徳のエネルギーがぐーっと充満するんだね。
 この徳のエネルギーというのは、この人の思い・願いの方向に行きます。徳をいっぱい積んだと。でも心の中で――例えば普通に生きてたら、この人間界の観念、つまり人間界においてこれが良い、これが悪いというのがあるから――人間界において、たとえば人間的な意味で金持ちになりたいとか、人間的な意味でスターになりたいとか、芸能人になりたいとか、野球選手になりたいとかいろいろあったとしたら、そっちに徳が流れるんだね。だからものすごく膨大に徳を積んで戒を守っていると。しかし意識レベルというか、その望みが人間界レベルであったとしたら、来世人間に生まれて、例えば芸能人になるとか、お金持ちとかになります。だから今、みなさんの周りで、何か成功している人。あるいは生まれつきお金持ちとか、あるいは本当に恵まれてスターになっている人とか。これははっきりいって過去世からの膨大な徳があるんです。しかし願いがそこにあったんだね。例えばみんなから愛されてスターになりたいとか、お金持ちになりたいとかっていう、そういう願望があった。それで徳がそっちに現象化している。
 だからそういうたかだか人間世界の価値観に徳が現象化しないように、天のことを徹底的に修習するんです。「天はこうなってる、よってこの天にわたしは行きたいんだ、行きたいんだ」ということを、修習しろというんだね。それによってそっちに行くぞと。
 もちろん菩薩行の場合は、ここはそうじゃなくて回向になります。回向というのは、わたしの積んだ徳がわたしには一切返らないでくださいと。そうじゃなくて、わたし以外の人々の悟りや幸福に返って下さいという願いをするんだけど。
 でもそこまでいってない、まずはわたしは天に行きたいんだっていう人は、じゃあ天に狙いを定めなさいと。これは大乗仏教じゃなくて、原始仏教からお釈迦様が言っています。だからすごくリアリティがあるんだね。だからもしこの中で、「わたしは来世、天に行きたいんだ」っていう人がもしいたら、日頃から天のことを勉強して、「よし、天に行くぞ、天に行くぞ」と考えたらいいね。
 でもそれよりも、おそらくみなさんは菩薩行のカルマとか、あるいはバクティ・ヨーガのカルマがあるだろうから、できるのであればそっちを願った方がいいね。これは一つの結論としていうけども、その方が絶対いいです。みなさんがどれを選びたいのかわからないけど、少なくとも菩薩行かバクティ・ヨーガの道を念じた方が絶対いいです。絶対、みなさん自身が幸せになります。できるならばそっちを選んで欲しいね。でももう一回言うけども、天に行きたいという人は、天を修習すればいい。

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