yoga school kailas

◎熱意のレベル

【本文】
ムリドゥマディヤーディマートラトワーッタトーピ ヴィシェーシャハ

強い熱情という中にも、温和・中くらい・破格の差があり、それに応じて完成の早さにも差異がある。

 これは読んだ通りですね。強い熱情といっても、いろんなレベルがありますよと。当然強ければ強いほ完成は早くなりますよと。
 いつも言うお釈迦様の言うようなね、頭についた火を消すように努力しろといっている。あんまりそれを聞いたことない人もいるだろうから、もう一回説明すると、これはお釈迦様のたとえね。頭に火がつきましたと。これを消すときというのは、もうすべてを後回しにするじゃないですか。つまり頭に火がついて、誰かが「あ、火ついてるよ! 消せ!」って言って、「今ちょっとゲームやってるから後にして」とか(笑)、あるいは後回しにすることもありえないし、あとゆっくりやるのもありえないでしょ? 「あ、そうか。どうしようかな……。ああ、消えないなあ……」――こんなことはありえない。こんな余裕は普通はない。もう自分の知力・体力・精神力すべてをここに集中させて、何とか消そうとするわけです。これくらいの気持ちで修行しろと言っているんです(笑)。お釈迦様はね。
 だからものすごい熱意だね。もう私にはそれしかないんだと。それをさておいて生きている意味はないんだ――ぐらいの気持ちで修行しなきゃいけない。だからそれはお釈迦様もそういうふうに言ってる。
 いつも言うけど、お釈迦様の仏教って、超ハードなんです(笑)。経典を読む限りはね。なんか日本人がイメージしているような、ほんわかしたもんじゃないんだね、本来仏教っていうのは。ものすごいハードに真理を追い求める求道者というかな。それがもともとのお釈迦様の像だね。それくらいの熱意がないと、われわれの過去からずっと培ってきた誤った傾向とかカルマとかを破壊するのは、なかなか難しい。
 何でもそうだけど、結局心が全てなんです。これは私もよく言うんだけど、心のままになるんです、われわれって実は。ここでこういう質問が出る。「え? そうなんですか? 先生、でも私は心で解脱したいと思っているのに、解脱してないんですけど、これはどういうことでしょうか?」と。それは実は、思ってないんです(笑)。奥底ではね。表面では思っているかもしれないけど、本気でない。本気で思ったら、すべては実現するんです。
 何でもそうですよ。本気でもし社長になりたいと思ったら、絶対なります。でもその中に、いろんなものが混入するんだね。否定的な思いというのも、一つの願望なんです。百パーセント「なりたい、なれる」と思ったら、絶対なるんです。でも絶対そこに、「なれない」っていうのが混入しているから、それも実現化して、なれないというのも実現化するから、なれるっていう力となれないっていう力がぶつかり合って、否定的要素が強ければ絶対なれません。だからその人は自分で「なれない」と思って、なれなくなってるんだね。すべては思ったとおりになるんです。
 で、解脱のためには、じゃあ百パーセントそこに心を向けなきゃいけない。というのは、現世的なものというのは解脱と相反するから、あらゆる精神あらゆる功徳あらゆる熱意を、その悟りとか解脱とか、あるいは真実をつかむということに対して振り向けなきゃいけないんだね。その振り向ける度合いというか、力が強い人ほど早く解脱しますよと。それは当たり前の話だね。
 ラーマクリシュナも同じようなことを言ってるね。神を悟るにはどうしたらいいですかと。これはラーマクリシュナ独特のたとえだけど、女性が――あるいは男性でもいいけど――配偶者、妻や夫に対する強烈な愛。あるいは母親が子供に持つ強烈な愛。男が仕事に対して持つ強烈な執着。こういったものをすべて一緒くたにして、すべてを神に向けろと。それに成功したら瞬間的に悟ると言ってる。
 つまりすべてはそうなんだね。われわれは分散しているんです。いろんなところに「こうしたい――でもできないな。こうしたい――でもできないだろうな」――だから何もできないんです(笑)。何もできないで、一生を終えてしまうというか。自分で、しかも何もできないっていう自分をイメージしているから、本当に何もできない人になってしまう。
 だからみなさんがもし本当に、何か現世的なものでもいいけども、何かで成功したかったら、百パーセントそのことだけを考えて、肯定的に百パーセントなれば、そしてそれに対して超熱意を持てば、絶対成功します。
 でもそこまで力を振り向けるもの、価値のあるものがこの現世にあるかって言ったら、ないと思うね。私は修行進めてどんどんどんどんそうなっていった。もうね、小さなこともだんだんできなくなっていったね。
 小さなことっていうのは、例えばあるとき、二十代のある時期、私ちょっとね、Nさんみたいに「ああ、車を自由に運転できたら行動範囲広がるな」と思って――別に車を運転するのが悪いっていうわけじゃないよ。私は実は高校生の時に、高校が商業高校だったから、普通はみんな免許を取るんだけど、私はちょっとタイミングを逃してしまって結局取らなかったんだね。そのときはどうも思ってなかったんだけど、多分そのとき取ってたら、普通に車とか乗ってただろうけど。二十代のころに、それまでは車とか興味なかったんだけど、何かね、あったら便利だなって思って、ちょっと取ろうかなと思ったことがあった。で、参考書とかを見て、さあ勉強しようかなと思ったんだけど、心が動かないんです、そっちに。ちょっとオーバーな言い方をすれば、本を開けない(笑)。心がね、まったくそこに価値を見出してない。そこっていうのは、結果には価値を見出してるんだけど。車に乗れればいいなとは思ってる。でもそのために何十時間を費やすことがどうしてもできない(笑)。多分もっと若いころの私だったらできてた。もっと若いころの、いろんなものに興味があった私だったらできてたけど、かなり修行に絞られてきたから、それ以外のことに時間をもう使えなくなってきたんだね(笑)。あまりにもその価値の違いを知ってるから。その何十時間車の勉強するんだったら、マントラ唱えた方がいいとかね(笑)。神のことを考えた方がいいっていう価値観になってきちゃうんです。 これはそうしなきゃいけないって思っているわけじゃなくて、本当に心がそうなってきちゃう。つまり、そのより素晴らしい価値観を知っちゃうから。だから修行によっていろんな経験をすればするほど、そうなっていく。
 でもね、まだそこまで行ってないカルマの人もいるんだね。つまり魂の経験が足りなくて、この世でいろんな願望を持つ。こういうタイプの人は、一生懸命その願望に向かって努力すればいいと思う。例えば、「私は社長になりたいんですよ。どうしても世界一の金持ちになりたいんだ」と。それだったら頑張ればいい。もう徹底的な熱意を持って、それをすればいい。それでその人は今生か来世か分からないけど、いつかその無意味さに気づくでしょう。だからみなさんがどういうカルマを持っているかによって違うけども、もしみなさんが真の修行者のカルマを持っているんだったら、この世にそこまでの熱意を傾けるものは、全精力を傾けるに値するものは多分ないだろうと(笑)。だったら悟りとかね、あるいは菩薩的に、衆生を救うとかね。そういった方向に自分の熱意を百パーセント傾ける方がいいね。その熱意が強ければ強いほど、その達成は早いですよと。

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