yoga school kailas

2011/5/4「供養と懺悔の会」より(3)

◎いきなり引き上げられる恐怖

 はい、もう一つ全く別の話をしますが、うちの生徒でUさんというおばあちゃんがいるんですが(笑)、このUさんが、こないだ聞いた話によると、もともと古い生徒さんなんですが、ここに娘さんと一緒によく来てて、古いんですけど教学とかはあまり入ってなくてね、例えば笑い話もいっぱいあるわけだけど(笑)――一緒にやってた生徒さんがね、「ちょっとゴキブリが家で出ちゃって、でも殺せないし、でも嫌悪が出ちゃって、どうしようか……」っていう話をしてたら、横で聞いてたUさんが、「え? ゴキブリ? わたし殺すよ」とか言って(笑)、ええっと思って(笑)、「ちょっとUさん!」っていう感じの(笑)、そういう感じの人だったんだけど(笑)。こないだ来てね、この祭壇の前に来て、ラーマの聖誕祭の後に飾られた祭壇を見てうっとりしてね、「ああ、いい男だねえ」「ああ、ラーマ」とか言って(笑)。で、「じゃあこれぜひあげますから、うちに飾ってください」と。「あ、いいんですか?」と。あの、石原裕次郎のポスターが飾ってあるらしんですけど(笑)、「それを外してラーマ飾ります」と(笑)。その娘さんによると、その石原裕次郎を外すなんてことはあり得ないらしいんだけど(笑)、それを外してラーマを飾ると。「ええっ!? 変わったな、Uさん」と(笑)。
 あとはこないだも、新曲の例の『かわいいゴーパーラ』ね。『かわいいゴーパーラ』を聞かせたら、もう放心状態でうっとりしてたっていうんだね。うっとりして、「ああ、いい曲だねえ」と。
 まあUさんは非常に急激に修行が進んだと。で、何を言いたいのかっていうと、これもさっきから言ってるように、やっぱりちょっとカイラス、あるいはカイラスだけじゃないかもしれないよ。この地球全体かもしれないけど、大いなる祝福というかな、引き上げる力が非常に強くなっている感じがする。
 まあカイラスに限定して言うならば、バクティ的な意味がとても強いような感じがするんだけど、急激に引き上げられてる。これはいろんなパターンの人がいると思うんだね。今言ったUさんっていうのは、自分でもよく分からないうちにいろんな感じで進んでるタイプですけども。すごく引き上げられて、自分の中の問題がブワーって出てきて、それと戦わなきゃいけなくて葛藤してる人、苦闘してる人もいると思うんだね。あるいはね、もちろん何にもないっていう人もいると思うよ。それはそれで見えないところでっていうかな、潜在的に何かが進んでるのかもしれないし。あるいは蓄積されてるっていうかな、もうすぐそれが爆発するのかもしれないけど。でもまあいろいろ見てると、多くの人が修行が急激に進んでたりとか、あるいは多くの乗り越えなければいけないものと対峙し、ぶつかっているような感じがする。
 で、カイラス全体としてもそうです。カイラス全体としても、これはちょっと曖昧にしか言えないんだけども、ちょっと今、一個ステージを上がろうとしてる、カイラスはね。カイラスはもともと――何度も笑い話みたいに言ってるけども、最初は――カイラスの第一ステージ、三角形の部屋(笑)。

(一同笑)

 7畳ぐらいの三角形の部屋があって、そこにわたしが居たんだけど。そうですね、もちろん講師はわたし一人で、生徒は近所のおばさん5~6人と。これがカイラス第一ステージです(笑)。もちろんする話は、「え? やせたいんですか? それはやっぱり浄化法とかね、アーサナとか……」こういう話を毎日してたのが、一年ぐらい続いたかな(笑)、うん(笑)。それからだんだん真摯に道を求める人が集まってきて、段階ごとにだんだんカイラスって変わっていったんだけど。まあ、現段階でももちろんカイラスっていうのはすごく、合宿とかを見てもね、素晴らしい修行する人たちの集まりなわけだけども、さらにもう一歩上がんなきゃいけないなっていう段階あると思う。
 これは曖昧にしか言えないんだけども、より神聖な、そしてより妥協のないっていうか。妥協ないっていっても別に、妥協なくね、「ほら! 蓮華座だ!」とか(笑)、そういうんじゃないよ(笑)。そういうイメージじゃなくて、それぞれの心の問題ね。さっき言ったように心の問題で、もう意味のないことはいいんだと。あるいはくだらないことはいいんだと。
 何度も言うけどさ、勘違いしてほしくないのは、別に表面的に厳しくするとか言ってるわけじゃないよ。じゃなくて、カイラス全体のエネルギーっていうかな、それがより神聖で崇高な方に向かうような感じがするね。それはまあカイラスっていうのは、個々のカルマの総和なので、それぞれのみんながね、頑張って修行してる結果ではあると思うんだけど、でもちょっとそういう脱皮の時期に今あるような気がするね。
 で、その上でアドヴァイスしたいのは、今言ったように、わたし今いろいろ見てて、かなりいろんな形で苦闘してる人がいる。今はそうじゃないけど、これからするようになる人がいるかもしれない。で、見てるとね、そのスピードが非常に速いんだね。
 この「スピードが速い」っていうのは、これは何かのとき言ったかもしれないけども、ちょうどね、われわれは深海魚みたいなもんだね。深海魚っていうのは海の深ーくにいて、深海っていうのはつまり水圧がすごいから、外側からの水圧がすごいから、それに対抗する意味でぐっと外に力が加わってるわけだね、深海魚っていうのは。これはちょうど輪廻のたとえにたとえられるかもしれない。つまり、深ーくわれわれは輪廻の中に沈んでるわけです。深海の暗闇のような輪廻ね。この輪廻というのは魔の力が非常に強く、あるいは外側からは苦しみ、ストレスがたくさんあるので、われわれは外に外にと自分を表現したり、エゴを求めたりして、外にばっかりぐーっと力を加えて生きてるのがわれわれですと。
 はい、ここに神様が、あるいはみなさんと縁のある菩薩や師が、慈悲の釣り針を垂らしてるわけだね。慈悲の釣り針を垂らしましたと。もちろん縁がない人は、この釣り針が見えません。みなさんには見えてしまったと。見えてしまった魂は、ぱくっと食いつきます。で、その神や師は、「来た!」と、グルグルグルグルグル【リールを回して引き上げる】。普通は――これは釣りやった人は分かると思うけども――普通は、押したり引いたりするんです。つまりいきなりやると糸切れちゃうから、普通はちょっと引っ張って、ちょっとゆるめてあげて、ちょっと泳がしておいて、疲れたころにまたちょっと引っ張って。これはちょうど神々やあるいは師匠が、その人をなだめすかしながら、「ああ、まだそんなにやらなくていいですよ」と。「ああ、これくらいできましたか」って、ちょっとずつ引っ張っていくのに似てるわけだけど。じゃなくて、超強力な決して切れない糸によって、超スピーディーにモーターを使って(笑)、ウワーンってこう引き上げられてるんだね。
 で、分かると思うけど、深海魚っていきなり引き上げられると、どうなると思います? つまり目玉とかバッと出るんだね。いきなり水圧が変わるから、バッて出ちゃったりとか、内臓がぐわって出ちゃったりとか――つまり完全に破壊されたかたちで引き上げられると。いきなりの水圧の変化によってね。で、それがみなさんにも起きる。つまりいきなり――これは一般論としてもそうなんだけど、いきなりステージが上がるとき、徐々にじゃなくていきなり自分が変わるときっていうのは、ものすごい自分の大変革、つまり自分をぶっ壊されるような感覚があるんだね。
 で、ぶっ壊されること自体は問題ないんだが、問題は恐怖なんです。恐怖。つまり無智な者はそれを恐怖するんです。恐怖してただ「ああ、怖い!」っていうだけじゃなくて、エゴがその恐怖によって、それを止める方向に向かうんですね。引き上げることをエゴが止めてしまう。いろんな理由付けをしてね。理由付けをして、自分が引き上がらないように止めてしまう。なぜかというと、怖いから。だって(目や内臓が)出ちゃうから(笑)。ね(笑)。あるいは自分が破壊されてしまう。「このまま行くと破壊される!」と。「やばい!」と。で、いろんな理由付けをして、「修行ってどうなんですかね」と。「神とか、ちょっとわたし考えたんですけど……」とか言い出して(笑)。「それは怖いだけだろ!」と(笑)。
 その人の本当の心は分かってるんだね。これしかないって分かってるんだけど、あまりに怖いんで「冷静に考えたらこうだった」とかいういろんなくだらない言い訳をして、それをストップさせたく思うんですね。
 しかし――これはそういうのが今起きてる人、これから起きる人に対するアドヴァイスですけども――そのようなことが起きるっていうのは、まさに祝福以外の何ものでもない。それは望んで起きるものではないからね。もし自分が、大いなる祝福により変革していると。それは怖いくらいの変化であると。自分をぶっ壊されるぐらいの変化であるっていう感覚があるとしたら、喜んでください。ね。で、身を任せてください。さっき言ったように、何度も何度も純粋なる心に立ち還ったら、それは当たり前なんだと、それは喜ばしいことなんだという思いができるはずなんだね。

◎ぶっ壊し、作り変える

 これも何度も言ってるけど、もう一回ね、新しい人もいるので言うけども、結局修行っていうのは、自分をぶっ壊さなきゃいけない。それは当たり前だよね。だって、今の自分でいいならいいんですよ。でも今の自分、こんな自分がちょっと、われわれの求めてるね、神の道具となる、あるいは神と合一するっていう自分と比べてね、当然、あってもしょうがないっていうか、全く欠点だらけの自分なわけですよね。それはぶっ壊して作り直さなきゃいけない。
 で、これは何度も言ってますけども、たとえばわれわれが――車のたとえでいうとね、軽自動車だとして、軽自動車をレーシングカーとかあるいはダンプとか、あるいはベンツとかに作り変えなきゃいけないんですね。この作り変えるっていう意味は、最初われわれは錯覚します。「あ、そうか、作り変えるか。作り変えてください」と。ちょうどヤンキーとかがね、後ろに羽つけるとかね、車高を落すとかね、そういうイメージがあるんだね。「作り変えてください、おれの車!」っていう感じで、「羽はこういうのがいいかな」とか(笑)、それははっきり言うと、似非修行なんです。似非修行。つまり修行者のふりをして羽つけたと。「おれ修行者なんだ」と。「神よ」とか言ってるわけだけど(笑)、それはまだ全然似非修行なんだね。
 じゃあ本当の修行って何かっていうと、まさに、軽自動車からベンツになりたかったら、ね、張りぼてじゃ駄目なんだよ。軽自動車の前をなんか長ーくして(笑)、ベンツと(笑)。それは駄目ですよ、それはかたちだけだから。じゃなくて、排気量とか車のシステムであるとか、全部ひっくるめて完全なベンツになろうとしたら、ここを変えてここを変えてとかじゃ駄目でしょ。まず壊さなきゃいけないんだね、完全に。バラバラにすると。壊すだけじゃなくて、場合によっては溶かさなきゃいけないかもしれないよ。そもそも一回金属を溶かしちゃって、元に戻しましょうかってなるかもしれない。つまりどっちにしろ、まずばらばらにするんです。で、作り変えるんです。
 もう一回いうけども、小さな変化だったらそこまでする必要はない。つまりその羽をつけるとか、車高を落すとか、ミラーをつけるとかだったら、そんなに苦しまなくていい。壊さなくていいから。でも大いなる変化、軽自動車がベンツになるような変化をねらうんだったら、その軽自動車は一回ぶっ壊さなきゃいけない。これが、修行が進むときの苦しみなんだね。苦しみっていうか、本当は苦しくないんですよ。苦しみっていうよりは恐怖なんです。恐怖によって、自己ブロックに走ってしまうんだね。
 で、ちょっとこういう言い方をすると変なんだけど、それが起きる前に恐怖した場合は、特に何も起こらない。これは別によくも悪くもないっていうかな。でも普通は、その世界に入ってしまって恐怖すると。これはもう最悪です。なぜかというと、恐怖したその人はもう壊されてるわけだね。壊されてて、で、この恐怖っていうのはどういうことかっていうと、つまり、また安定したいって思うんです。安定。つまり壊されてるから安定したいと。ある種のアイデンティティーに戻りたいって思うんだね。このときに手っ取り早くやっちゃうから、つまり車のたとえでいうと、軽自動車をぶっ壊された。うわーって苦しくて、ベンツになるのが待てなくて、もうとにかく作っちゃって、原付になっちゃったと(笑)。駄目になってるじゃんと(笑)。前よりも駄目じゃんと(笑)。あるいは、また軽自動車作ったかもしれないけど、壊れた中途半端な感じで急いで作ってるから、前よりもちっちゃいと。前は四人乗りぐらいだったのが、二人乗りぐらいになっちゃったと。排気量も落ちちゃったと。壊した意味ないじゃんと。ね(笑)。何やってるのと。これが修行者の錯覚なんだね。
 だから修行者っていうのは、さっきのヴィヴェーカーナンダの歌にもあったように、やっぱり強くなきゃいけないし、雄々しくなきゃいけないんだね。何でも来いと。さあ、壊してくださいと。わたしはそのために生まれてきたんですと。そのような心意気で、神の祝福に耐え、そして自分の生きるべき中心点っていうのを常に忘れないというのは、やっぱり必要なんだね。

◎神はここに

 今日はちょっとフィーリング的に話してるのでまとまりませんが、最後に一つ言っておくと、これも何か前に書いたけども、ちょっとどう受け取るかは別にしてストレートに言うけどね、さっきのカーリーマーの話じゃないけども、たとえばここにも、最近よく替わってるんですけども、中心にはラーマがいて、あとクリシュナとかラーマクリシュナとかカーリー女神とかいろいろ奉ってあるわけですけども、たとえばこの中心のラーマの絵がありますね。これは絵じゃないんです。これラーマなんです(笑)。で、それは、そのように信仰しなさいって言ってるんじゃないんですよ。あるいは、ラーマの魂がここに入ってるって言ってるんでもないんです。じゃなくて、これラーマなんです(笑)。でもあえてみなさんに分かりやすく言うと、ラーマがいるんです、ここに。ここにもラーマクリシュナいるんです。これは、もう一回言うけども、信仰の話じゃないんです。あるいは霊的な話でもありません。もっと高いことを言ってるんだね。
 で、同様に、みなさんの周りっていうかな、さっきのあのゴーパーラの歌とかにもあったけども、「心の扉を開けると、ゴーパーラがいる」と。
 それ、ちょっとみなさんにこっそり言いますけどね――【小さな声で】それホントなんです(笑)。

(一同笑)

 (笑)。聞こえた(笑)? 【小さな声で】ホントなんです。本当のことなんです、実は。あるいは、われわれの心に愛が点れば、あるいはすべて心が向かえば、ゴーパーラが現われる。――【ささやくように】これ、ホントなんです(笑)。

(一同笑)

 でもね、本当なんです。いるんです。もう一回言うけど、いるんですっていうのは霊的な感じじゃないよ。ふわふわといるんじゃないんだよ。じゃないんだけど、いるんです。
 だからわれわれが、さっき言った、日々対話しなさいっていうのも、イメージ的なこと言ってるんじゃなくて、いるんです。いるんですっていうとなんか霊的な感じがするけど(笑)、そういう意味じゃなくてね、もともといらっしゃる。
 だからそれは本当に遊びでもないし、そのような療法でもないよ。心理療法でやってるわけでもなくて、本当にいらっしゃるんだね。
 わたしはどっちかっていうと今は崇高なっていうか、中心点の観点からみなさんに話してる。だから分かりにくいかもしれないけど、常に中心点に還る作業をしてると、それはよーく分かってくる。ああ、われわれは固い頭で考えすぎてたなと。もっとシンプルだなと。もともといるし、ここにラーマいるし、普通に。うん。
 わたしも単純だからさ、変な話、祭壇の中心に飾った神の影響を受けちゃうんです(笑)。なんかその力が強くなっちゃうっていうか。それは頭で考えてるわけではなくて、多分その存在の影響を受けてるんだろうね。
 だから、今の最後の話はよく分からなかったかもしれないけども、そのような――何て言うかな――現世の考え方は論外だけれども、一般的な教えさえも超えた――つまりこれは言葉にならないから教えにならないんだけど、教えさえも超えた真実があるんだね。みなさんはそれを完全に悟るまではいかないかもしれないけど、バクティの要素が強い人が多いから、バクティの道においては、本当に神に心を純粋に合わせるだけでも、それにちょっと触れることができるんです。
 そうですね、だから言い方を変えれば、触れてください。ちょっとでもいいから。日に何回でも触れると。これでみなさんが人生で、本当に価値のある生き方をできるようになるっていうかな、道を間違わないための一つのアドヴァイスですね。
 はい、じゃあ今日はちょっとまとまらない話でしたが、最後に何か質問があったら聞いて終わりにしましょう。特にないかな? 
 ではなかったら、シャーンティ・マントラね、最後に歌って終わりましょう。

(シャーンティ・マントラ)

 はい、では終わりましょう。

(一同)ありがとうございました。

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