yoga school kailas

◎平等心の智慧

【本文】
『ヨーガを行じて魂を清め、自分の心と感覚を抑制し、
すべての生き物と自分とが同じものなのだと悟った人は、絶え間なく働いていても、決して行為に縛られることはない。』

 はい。これはまあ、これもまたカルマ・ヨーガの理想ですね。『ヨーガを行じて魂を清め、自分の心と感覚を抑制し』。
 これはだから、まさにシャーンティデーヴァの世界だね。こう、しっかりと日々動きながら、行為しながら、自分の心と感覚をしっかりとチェックして、それが悪い方向に動かさないようにっていうふうに日々こうチェック――正智、念正智をし続けると。
 で、それを続けることによって、全ての生き物と自分とが同じだと。つまり仏教でいう平等心の智慧が身に付くと。
 で、そこまでもう至ってしまった人は、この世においてどんなに行為をしていても、行為に縛られない。
 この「行為」っていうのは、前も言ったけども、「カルマ」っていうことばです。つまり、二つの意味があるんだね、ここでいう「行為」っていうのは。実際の行為のこともいってるし、なしたことが返るっていうカルマの法則のこともいっています。
 つまり本当に平等心を持って、何も縛られず行為する人は、実はカルマの法則の中から外れるんだっていってるんだね。
 すごいことをいってるわけですね。つまりその人は何やっても大丈夫なんだと(笑)。だから密教のパドマサンバヴァとかもそうだけど、そういうタイプの人は、何やっても許されてしまう。でもそれを、チベット仏教とかは一時誤解して――誤解してっていうか単に煩悩にまみれて、肯定――まあインドのタントラでもそうなんだけどね、全然行為から解放されてないのに、何でもいいんだあっていろいろやっちゃって、堕落した人はいっぱいいた。だからアティーシャとかツォンカパとかが現われて、チベットは、じゃあその前に戒律をしっかりしようっていうふうになったんだけど。
 本来は、本当の意味でこのカルマ・ヨーガができたら、確かに行為から解放される。その人のなすことが全て神の意思に沿ってる。で、それは、普通の人から見ると「あれ? あれ悪業じゃないか」とか、あるいは「ちょっと違うんじゃないか」と思ったとしても、全く関係ない。その域までいった人にとってはね。
 でもここに書いてあるのは、もちろんそれは最後のことなんで、われわれの一つの望むこととして、目指すこととしては、ヨーガを行じて魂を清め、日々自分の心と感覚を制御しましょうと。そして、常に自分と他人を平等に見る訓練をしましょうと。この前の段階で、自分と他人を平等に見る、と同時に、他人と他人ももちろん平等に見なきゃいけない。つまり好きな人と嫌いな人っていう感覚をなくしていく。いろんな人を平等に見る。そして、自分もまた他人も平等だと。こういう平等心を根付かせなきゃいけないんだね。
 これはだから最終的にはそうなるんだけど、いきなりわれわれが明日そうなるってことは無理だから、日々だからこれも、日々の生活を通じて訓練をするしかないね。
 で、前も言ったけどシャーンティデーヴァはもっと強烈なんです。自分と他人を交換しろっていう(笑)。つまり普通は、自分大好き、他人はどうでもいい。これが潜在意識のエゴの本音です。で、これを普通は、このバガヴァッド・ギーターもそうだけど、平等にしろっていってる。シャーンティデーヴァは、それでは生温いと。交換しろと。つまり他人大好き、自分どうでもいいと(笑)。これくらいしないと、エゴっていうのはなかなか破壊できないんだっていう、かなり過激なことをシャーンティデーヴァはいうんだね。うん。
 それはまあどっちのやり方でもいいんだけど、とにかく自分――自分っていうのにとらわれてるがゆえに、不幸に自分をしてる、このエゴの欺瞞っていうか、それを打ち砕かなきゃいけない。それは、自分と他人を常に平等に見る。もちろん他人と他人の中にも、差を設けない。そして、まあもうちょっと過激なやり方をするならば、常に他人を優先的に考え――まあ、宮沢賢治の詩じゃないけどね、自分のことはいつも最後に考え、みたいな、あるよね。『雨ニモマケズ』。そういう感じで、常にその自分っていうのを他者よりも後に置くっていうかな、そういうような訓練を日々してたら、このカルマ・ヨーガの実践に近づくでしょうと。

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