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「無我の修習」

【本文】

 もし音の知覚が(我の本質であるならば、我は常住であるから)音は常に把捉されていなければならない。しかし、知覚されるところの音がない場合に、何を知覚してそれが知であるといわれるか。

 もしも(対象を)認識しないものが知なら、木材も知だということになってしまう。だから、知覚の対象を欠く知は、存在しないことが確かである。

 その(我)が、まさしく色形を知覚するのであるならば、何ゆえに(同時に)音を聞かないのか。
 「それは(対象としての)音を欠くためである」というなら--それでは、それは音の知覚ではないことになろう。

 音を把捉する性質のものが、どうして色形を把握する性質のものでありうるか。同一の人物が父でもありかつ子でもあると分別されるけれども、これは真実によるのではない。
 
 (サーンキヤ哲学でも、万物は)サットヴァとラジャスとタマスからなる。したがって父も子もないはずである。--しかし、それが音の把捉に従事している間は、(色形を捉えるという)彼(知)の自性が認められないのである。

 それ(音の知)は、他の相によって(色形も捉える)。あたかも俳優のごとくである(というなら)、
 --ならばそれは無常であろう。
 それはまさに性質を異にする、というなら、
 --それを同一なりとは、前代未聞である。

 他の性質は、真実ではない、というなら、 
 --その本来の性質を説くべきである。
 もし、知性がそれである、というなら、
 --一切の人間が同一となる結果となろう。

 そして、思考力のある者と、思考力無きものとの間にも、同一が成り立つことになろう。なぜなら、この二つは、ともに存在性を(本性と)しているから。
 もし「区別は誤謬である」というなら、
 --それなら、類似は何に基づいて成り立つか。

 さらに私は、布のように、決して本来の非思性から、思考力がないのではない。
 「思考力と結合して知者となるのだ」というなら、
 --知を失うときは、それは滅びることになろう。

 もし、我は不変であるというなら--それが思考力と結合するに何の意味があるか。かくして、知を欠き行為を欠く虚空に、我性を帰することになろう。

 「我がなければ、行為と果報の因果の関係が成立しない。なぜなら、カルマを作って(カルマの作者が)滅びるなら、将来誰に果報が返るというのか」というならば、
 --我々両者において、行為の主体とその果報を受ける主体とは、(この世と来世などとの)別があるのだと明らかに認められている。また我は(非知で無活動であるというから)、そこには活動しない。したがって、それについて争うのは、無益ではないか。

 行為をなしたものが、必ずその結果を得るという現象は、認められない。刹那の相続を一つ(とみなすこと)をよりどころとして、「行為をなした者が、行為の果報を受け取る者である」と教えられたのである。

 過去の心も未来の心も我ではない。なぜなら、それは現に存在しないから。そこで、現在の心が我であるとするのは、(それも不可である)。この場合にも、滅したときに、我が存在しないからである。

 あたかも芭蕉の幹を切り裂けば、何も残らないように、精察をもって探求すれば、我も非存在なるものである。

 「もし衆生が存在しないならば、慈悲は誰のためにあるか」というならば、
 --それは、達成される目的のために、許された迷妄によって妄分別されたものである。

 衆生が存在しないなら、達成されるべき目的は、誰のためか(というならば)、
 --そのとおり(「至高の意味の真理」の立場からすれば、誰のためでもない)。迷妄によって、目的に対する努力がある。しかし(衆生の迷妄なる)苦しみを鎮めるという目的に対する迷妄は、禁止せられない。

 これに反し、我に関する迷妄からは、苦しみの因である我執が増大する。
 「それから免れることはできない」というなら--無我の修習が最も優れている。

【解説】

 この辺は今度はおそらくサーンキヤ哲学等を相手に想定した対論ですね。この辺も、興味がない人は読み飛ばしてもらってもいいと思います(笑)。

 ところで、「ヨーガ・スートラ」に代表されるヨーガ派の哲学はサーンキヤ哲学に近いわけですが、私は個人的には、サーンキヤも、ヨーガ派も、中観派も、唯識派も、原始仏教も、あるいはヴェーダーンタの不二一元論や、ギーターなどのバクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガなどの見解も、あるいは密教も、ゾクチェンも、マハームドラーも、すべて認めます。
 その見解から、この中観派の見地から他派を論破していく類の論書をどう考えるか、ということに関しては、いろいろと思うところはありますが、話がより複雑になりますので、詳しくはここには書かないでおきます。

 しかし大まかなわたしの感想としては、(この章が後世の挿入という説もありますが、仮に本当にシャーンティデーヴァの言葉とだとすれば)、シャーンティデーヴァは、他派と自派がどちらが正しいかどうかというようなレベルの話は、どうでも良かったのではないかと思います。シャーンティデーヴァなら、他の章を見る限り、言葉の哲学的追求よりも、この論書を読んで実践して読者が実際にいかに利益を得るか、ということに、この章においてもポイントを絞るはずだからです。

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