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◎世界は心の投影

◎世界は心の投影

 はい。他何かありますか。あと一個何か質問を聞いて終わりにしますかね。

(R)全然関係ないことでも……。

 いいよ。

(R)先生は瞑想で、いろんな、地獄とか、餓鬼の世界とか、経験しましたか。

 うんとね、私はいろんな世界を経験したけど、地獄のカルマはあんまないみたいで、あんまり地獄って経験してないね。あんまりっていうのは、「あれ? これ地獄なのかな? どうかな?」っていう世界は経験したことあるけど。私の知ってる人で、もろ地獄の経験とかある人もいるけども、私は地獄はあんまり経験ないね。餓鬼はいっぱいあります。あと動物もいっぱいあります。

(R)実際に、自分がそうなっている……。

 そうそう。あのね、動物に関しては、経験ていうよりも、思い出してるってことだよね。自分が動物だったことを前思い出して、あ、動物ってこんな感じだなって。
 餓鬼っていうのは、いつも言ってるように、餓鬼ってつまり低級の霊の世界なんです。で、自分が調子悪いときに、瞑想したり寝たりすると、その世界に入ってしまうことはたまにあります。ああ、こんな世界なんだなあと。ああ、本当にみんなかわいそうだなと。
 あとは、一応何ていうか、仏教では地獄、動物、餓鬼ってこう、明確に分けてるけど、何ていうか、全部「悪趣」っていうんだけど、それにも、どれにも分類されないような苦しい世界っていっぱいあるんだね。そういうのはよくあるね。こう修行してて、瞑想とかね、あるいは夢とかで、そういう世界に没入してしまうっていうことはよくあるね。
 ただ、いわゆる地獄ね、いわゆる地獄っていうのは結局、憎しみとか、殺生とかが多すぎる場合、実際に体を切り刻まれるとか、あと、焼かれるとか、そういう肉体的な苦痛を味わう世界があるわけだよね。で、そういうのってあんまり私――前も言ったように、私、ちっちゃいころからあんまり殺生ができなくて、あんまり人を憎むことも少なかったんで、あんまりなかったんだろうね。もちろんゼロじゃないんだけど。ゼロじゃないから、これから経験するかもしれないけども。今までの経験の中ではすごく少ないっていうか、ほとんどないね、地獄はね。でも地獄じゃなくても、すごい苦しい世界っていうのはいっぱいあります。もう何が苦しいか、分かんないんだけど苦しい世界とかね。うわーっていう感じはするね。すごい曖昧だけどね、「うわー」っていう(笑)。

(一同笑)

 うわーっていう感じの世界(笑)。で、私がよくそういう経験をして、で、すごくメリットを得たのは、これは前も言ったかもしれないけど、何回か経験したんだけど、苦しみの中にいるときに、ま、やっぱりその前から仏教とか学んでたからだと思うんだけど、自分も苦しいんだけど、冷静に周りを見ると、みんなも苦しんでるんだね。そこにいる住人がいて。で、それを見たときに、「あっ、私はね、修行してるわけだから、みんなを救える可能性があるのは私しかいない」と。「みんな救いたい!」と。「さあ、何とかしてみんな幸福になってくれー」と思った瞬間、パーッと世界が光り輝くんです。で、変わるんです、世界が。天みたいな、素晴らしい境地になる。
 で、それは、自分がそういうふうに思ったから、この地獄的な世界から、うーってこっちに来たんじゃないんです。居場所は変わらないんです。世界が変わってる。つまり、世界っていうのは自分の心の投影に過ぎない。

◎バルドの経験

 また別の、逆のパターンの体験を言うと、これはつまりバルドの経験なんだけど、心が非常に深い意識に入って、つまり死後の世界と変わらないようなバルドの世界に入って、で、非常に精神集中がうまくいってて、もう、光り輝く、幸福感に満ちた状態にいるときに、もう本当に、空の中の一点です、一点ぐらい、ほんのちょっと、例えば、まあ何でもいいんだけど、「ああ、焼き芋もっと食いたかったな」とか。で、これは、すごく思ってるわけじゃないんだよ。ほんのちょっと、その思いをふっと、これぐらい湧いたときに、これが、ドバーッて世界を覆うんです。で、いきなり餓鬼の世界に落とされるとか。あるいは例えば、ちょっと人への憎しみがぽっと湧いただけで、それが全てをバーッていきなり覆って世界が変わって、ドロドロとした苦しみに変わってしまうとか。
 だから、これは厳しいことではなくて、ほんの一瞬も、心に悪しき思いを湧かしちゃいけないんです。私は結構いい思いを持ってて、悪い面もあるけども、悪い面はこれくらいだからいいか――じゃ駄目なんです。そのほんの一瞬の悪い思いが世界を全て変えてしまうんです。だから心に一点の曇りもないくらいに心を浄化しなきゃいけない。われわれの目標としては。
 だから全ては幻影なわけだね。だから、このわれわれが今生きているこの世界も幻影です。幻影だけども、われわれはもう取り込まれてるっていうか、固定されてるから、もうここで生きるしかない。で、同じように、地獄も幻影だし、天も幻影だし、あるいは動物も幻影なんだけど、その幻影を作り出している心の浄化っていうか、それが一番大事なことで、それに励みさえすれば、全ての現われっていうのは浄化される。
 だから、外側を――だからさっきから言ってるけども、外側を変えることっていうのは修行じゃないんです。内側を変えることによって、心の現われである世界を浄化するんです。これが修行だね。
 だから地獄なんて一番いい例で、地獄ってなかなかね、終われないんです。なんで地獄が終われないかっていうと、地獄ってさっき、憎しみとか怒りっていったけど、あるいは殺生とかいったけど、もうちょっと根本的なことをいうと、嫌悪なんです。つまり、「嫌だ」っていう気持ちなんです。これが地獄の正体なんです。で、地獄にいくでしょ。で、わーってやられるでしょ。「嫌だ!」って思うじゃないですか。より地獄のカルマが増すんです。で、やられて、「嫌だー!」と。なかなか終われないんです。だから地獄は、世界の寿命を見ると、例えば天界が何百万年とかいろいろあるけど、地獄はもう計算できないとよくいわれる。なんでかっていうと、終われないからなんだね。カルマが終わらないんです。やられて、嫌だ嫌だって思ってるから。なかなか終われない。
 そういうかたちで、自分の心の投影が、われわれの世界だと。それは周り見てれば分かるでしょ。例えば、同じような環境に生きてる人が、人の――それぞれ話を聞くと、ある人は不満をすごく言ってる。ある人は満足している。ある人は感謝してる。それはもう、全ては投影なんだね。もう、その人にはそう見えるわけです。地獄を見る人はどこでも地獄を見ると。餓鬼を見る人はどこでも餓鬼を見る。
 仏教のこういうおもしろい逸話があるよね。まあ、これはありえない話なんだけど、友達同士が死んで、それぞれが六道に転生しましたと。で、同窓会を開くわけだね(笑)。で、みんなで集まって、行くわけだけど。で、温泉につかるわけだね。で、温泉につかったときに、地獄から来た男は、まるでそれが血の海かのように、あるいはマグマの海のように思われて、「うわー!」って苦しんだ。人間は、まあ人間だから普通に、「ああ、温泉だ」と。で、魚に生まれた者は、まあ、普通は温泉には魚は住めないけど、一応これは例え話なんで、「ああ、これは私の住処だあ」って思って泳いでる。天に生まれた者は、温泉の水に触れただけでエクスタシーを感じ、「これは天の甘露である」と。さあ、じゃあこの温泉の水は、本当は何なんだと。本当は何でもないんです。全てが、みんなの心の現われに過ぎない。実体はない。だからそういう意味でも実体がない。だからそれが、悪趣も含め、天も含め、輪廻の正体なんです。

(R)そういう瞑想――それって、何かいきなりその世界に入るんですか。何か別に・・・・・・。

 うん。あのね、だから瞑想っていうのはいつも言っているように、本当の瞑想っていうのは、必ず、まあ私の経験だけども、ちょっと比喩的に言うと、必ず違う世界に入るんです。それはもう段階があるんです。段階っていうのは、こう瞑想してて――だから、普通瞑想してると、「ああ、心が静まってきたな」と。連続してるじゃないですか、普通は。こう、静まってない状態から、だんだん静まってきて、「ああ、静まってきた」「ああ、いい瞑想だな、いい瞑想だな」。これもいいんだよ。これもいいんだけど、本当の段階っていうのは、「ああ」・・・・・・からダッて入るんです。不連続点がある。いきなり、だからちょうど扉開けたみたいな感じで、「あれ!?」って入っちゃうんです。で、それが何段階もあるんだね。だからその中で、例えばダッて入ったら、あれ、いきなり、体がない、心もない、全てが広がった空間に入るかもしれない。またダッて入ったら、もうちょっとそうじゃなくて、自分の潜在意識の世界に入って、ドロドロとした汚い心がいろいろヴィジョンとして浮かんでくるかもしれない。で、そういうのを繰り返していくうちに、パッと例えば地獄に入っちゃったりとか、天に入っちゃったりとかするんだね。それはだから、みなさんがもっと瞑想を進めるとそうなってきます。
 だから瞑想っていろんなパターンがあるんだけど、今いったパターンっていうのは、心の奥深く入る瞑想の場合ね。 例えばそうじゃなくて、自分を神に変身する瞑想とか、あるいはマントラを唱える瞑想とか、それはまた別の効果を狙ってるから。じゃなくて、心の奥に奥にと入る瞑想の場合は、そういう感じで段階的に深い世界に入ってって、で、その中で例えば自分の、地獄を構成している心の世界ってあるわけだけど、ここに没入した場合、地獄の経験をします。まるで地獄に生まれたかのような経験をする。こういう感じなんだね。OK? 
 だから瞑想っていうのはねえ、すごく、みんなが考えているよりも、段階的にはね、ダイナミックでおもしろい。おもしろいっていうのは、おそらくみんなが考えてる何百倍もおもしろいです(笑)。たぶんみんなが今想像できない世界です(笑)。そういう全然違う世界があるんだね。
 で、それは普通にわれわれは到達可能なんです。そんなものは全然悟りでも何でもないんです。悟りでも何でもないんだけど、深い瞑想段階だね。だからそれはわれわれは到達しなきゃいけない。
 まあでもそれはねえ、そうだな、みんなが、まあ分かんないけど、素質とかにもよるけども、何年も、例えば徳を積んで、あるいは悪業を滅して、あるいはいろんな修行の基礎を作って、で、そして、まあ実際に、一つの方法としては、ある程度そういうときっていうのは、一週間とか、一ヵ月とか、ちょっとそういう瞑想中心の世界に入って、で、それで到達できるかもしれない。
 あの、いきなり今やっても駄目だよ。いきなり今、例えば「おれは瞑想したいんだ」っていって、一週間とか瞑想しても、たぶんあんまりいい瞑想できません。それは徳が足りない。浄化が足りない。その他の修行の基礎が足りない。でもそういうのをしっかり蓄えた上で、ちょっと、瞑想中心の世界に入る。そうするといろんな経験ができます。
 で、もっと偉大なのは、いっぱい蓄えて、蓄えて、蓄えて、しかし、瞑想の世界にも入らずに、人を救うとかそういうことばっかやってると。そうすると、日常において入れるようになります。これが一番偉大だね。どっちでもいいんだけど。でもそれは、その果てにあるんですね。われわれの修行のね。

(R)「日常において入る」ってどういう・・・・・・。

 日常にってのは、つまりそういう一週間とか時間を区切らなくても、もう完全に条件がすごく全部整っちゃってるから、「ちょっとじゃあ今日瞑想するかあ」って思って瞑想してたら、いきなりもう入ってる。そういう深い世界へ入ってしまうとか。あるいはもっとすごいのは、普通に活動しながらね、みんなと話しながら、まあ、ラーマクリシュナとかもそうだけど、もう入ってしまう(笑)。いきなり動かなくなって、入ってしまうとか(笑)。そういうのもあるよね。うん。
 でも一番オーソドックスなのは、今言ったように、本当に基礎をグーッて固めてって、で、ある時期が来たら、ちょっと集中的な瞑想に入ると。そうすると、そういう本格的な瞑想経験をするだろうね。
 はい。じゃあ、あとはいいかな。はい、じゃあ今日はこの辺で終わりにしましょう。

(一同)ありがとうございました。

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