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解説「バクティヨーガ・サーダナー」第二回(12)

 はい。で、八番、「残酷、無慈悲、冷酷」。これはね、なんていうかな、どっちかっていうと、怒りから生じるパターンの一つだね。これは仏教では――皆さん分かると思うけどさ、仏教の方が結構地獄を細かく描写してて。で、地獄って、まあ簡単に言うと、熱地獄と、それから寒冷地獄と、それから痛みの地獄があるわけですね。で、この熱と寒冷に関しては、その怒りの種類によるんだね。つまり、燃えるような怒り――「このやろう!」っていうような怒りをあまり修習していると、熱地獄に落ちますよと。じゃなくて、冷酷な怒りね。うん。つまりその、「うわー!」って感じじゃなくて、もう冷たーい怒りね。「ああ、あの人はこのように苦しめばいいのよ」みたいなね(笑)。「ああ、放っときましょう。ざまあみろですよ」みたいな、そういう冷酷な怒りね。この冷たーい無慈悲な冷酷な残酷な怒り。こうニヤニヤしながら、人が苦しんでいくのを見ているような、そのような怒りね。これはもちろん、われわれを寒冷地獄に落とすカルマになる。まあ、だから逆に言うと、われわれの中にはその二タイプの怒りがあるんだっていうことですね。だから気道的に言うと右気道系の怒り、左気道系の怒りね。
 はい。だからこれは、怒りから生じる一つのパターンですね。うん。その怒りのカルマから生じるカッとくる相手に、「このやろう!」という怒りではなくて、冷酷さ、相手に対する無慈悲、残酷さみたいなのが出る場合もある。だからこれもある意味、細かく念正智しなきゃいけない。「いや、今わたしは、別に頭がカッカしてはいない」と。「だからわたしは怒りに苛まれていない」と思っても、実は冷酷な怒りに苛まれている場合がある。うん。
 よくあるよね。例えば、「いや、わたし、もうあの人に対しての怒りは通り越しました」と。もう通り越して、もうよりひどくなっているわけだね(笑)。通り越して、今度は残酷に変わっていると。うん。この場合はもう悲惨です。つまりまだ――まあまだっていうのは変だけども、まだカッカしている方が良かったかもしれない。それを通り越して、残酷な怒りに変わってしまった場合、本人は冷静なつもりなわけだけども、実際にはその人の心の奥底では、まあある意味もう、どうしようもない怒りが燃えているわけですね。
 どうしようもないその怒りによって、もう、なんていうかね……まあ例えばさ、現代っていうのはとても平和な時代が続いてね、平和、平和、平和って言われているけども、古今東西さ、昔の例えば、まあ拷問でもそうだけど――まあよく話として出されるのは、中国とかではさ、中国のお姫様がね、嫉妬に狂って、例えば旦那さんの愛人に対する拷問の仕方とかね、もうひどいものがあるよね。もう、あまり皆さんのイメージがけがれるから言わないけど(笑)。ひどい拷問をして――しかもそれが長引くようにして。その、長引いて苦しんでいるその、なんていうかな、恋敵の苦しみを見ながら、美味しい食べ物を食べながらこう喜んでるみたいな、そういう話がよくある。ここまできてしまうともう、ちょっとぞっとしますよね。うん。でもこれは、カッとくる怒りじゃないでしょ? じゃなくて、もう残酷化した冷酷な怒りであると。だからこれがもし、自分の中にもしあると思ったら、徹底的にそれはもちろん、断じなきゃいけない。徹底的に、なんていうかな、慈愛に変えなきゃいけないし、あるいは懺悔をしなきゃいけないね。
 はい。当然そのような心のある人が、神で心がいっぱいとか、あるいは神とつながった状態にはなれるわけがない。だからこれは怒りから生じるっていうよりは、そうですね、怒りの一つのパターンとして、「自分の中に、燃えるようなものじゃないけども、残酷さはないかな?」と。「冷酷な、相手に対する無慈悲な心はないかな?」と。これをしっかりとチェックして、懺悔したらいいと思うね。

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