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解説「王のための四十のドーハー」第七回(5)



【本文】

単なる名前や概念にすぎない内的体験、それらを彼らは、高い意識であると主張する
「たとえ何に縛りつけられても、それ自身で解放する」と彼らは言う
宝石の価値を知らない無智なる者は
単なる緑色のガラス玉を、エメラルドであると思いこむ



 はい。これもまた難しくなってきますね。ここでまず注目しなきゃいけないのは二行目、


「たとえ何に縛りつけられても、それ自身で解放する」と彼らは言う


と。これは、この「たとえ何に縛りつけられても、それ自身で解放する」っていう言葉は、これは、高度な意味で正しい言葉なんです。つまりこれはよくマハームドラーとかゾクチェンとかの表現ではよくこういうのが出てくるんですね。それ自身でそれ自身を解放すると。あるいは「何に縛りつけられてるように見えても、それ自身がそれ自身を解放する」みたいなね、表現ってよく出てくるんだね。これは……ちょっと誤解を恐れずに言えばですよ、ヒンドゥー教では例えば真我っていうのを立てますね。その真我、つまり、例えばジュニャーナヨーガ的にいうと、「わたしは誰?」と。「Who am I?」と。「わたしっていうのはいったいなんなんだ」っていうことを探っていくと、「え、わたしっていったいなんなんだろう? いや、この肉体はわたしではない」と。まあ、いつも言うように、「肉体とは原子の集まりである」とかいろんな分析をして、肉体っていうのはわたしではないはずだと。あるいは感覚によってわれわれはこの世を経験してるけども、「いや、感覚もこうでこうでこうだからわたしではない」と分析する。例えばね。「わたしは何々である」と。でもそれはただの名前にすぎないじゃないかと。名前が何かを表わしてるんだろうかと。いや、表わしていないと。これは約束事であると。「心がわたしだろうか?」――いや、でもわたしが心と呼んでいるものは、非常に不安定で、例えば情報によってコロコロ移り変わる。こんなものがわたしなわけがないと。「じゃあ、わたしってなんなんだ?」って探っていくわけだね。で、ヨーガの伝統ではその最後の最後に行き着くのが真我、つまり真実の自分がそこにいるんだ、それを発見するんだっていう考え方がある。
 で、それに対して大乗仏教は、批判的立場に立ちます。つまり、ヨーガにおける真我っていうのは、あれはあり得ないと。あれは、なんていうかな、実体っていうものにとらわれてる間違いなんだっていう批判をするんだね。しかし仏教も密教になると、さらにその奥に行って、まるでこの真我を認めるかのような、つまり、普通でいってる「わたし」じゃないんだけども――つまり「わたし」っていうのはさ、どこまでいっても「わたし」と「あなた」っていう二元論っていうかな、その主体・客体の幻影から離れられない。だって「わたし」があるっていうことは、「わたしの対象」があるっていうことになってしまうから。でもその二元を超えた、「わたし」と「あなた」を超えた、まあ本性というか、それがあるんだっていうふうに密教は説くんですね。
 でも言ってみれば、ヨーガはそれを真我といってるんです。だから、なんていうかな、もちろんヨーガとかヒンドゥー教において、その真我っていうものを誤ってとらえてる人もいるでしょうけども、ほんとの意味で真我に到達した人っていうのは、仏教のね、密教が到達するその最終的な境地と、同じところに到達していたのかもしれない。
 でも、今の話で分かったように、このヨーガにおいても、それから仏教の密教においても、中途半端な段階で生じる、素晴らしい自己の経験を、真我、つまり自己の本性と勘違いする場合が非常に多い。
 これは、何段階かあります。何段階かっていうのは、そうですね、ちょっと便宜的に言うならば、三段階ぐらいあると思います。三段階っていうのは、まず一番低い段階は、これはよく、最近のいわゆる精神世界の人や、あるいはあまりちゃんと修行してなくて仏教とかヨーガの世界に足を踏み入れた、ちょっと傲慢な人が陥りやすい罠です。つまりちょっと瞑想したら、ちょっといい経験をしたと。例えば、なんか光がバーッて出てきたとか、あるいはなんか内側の声が聞こえたと。あのね、よく内側の声が聞こえるっていう人いるよね。神の声が聞こえると。九十九パーセントは思い込みです(笑)。つまり自分が「こうあってほしい」っていう思いとかがあって、まあ、聞こえたりするんだね。もちろん、インスピレーション的にババッて、なんとなくそういうイメージが来るときもあるよ。でもそれはすごく、それが真実か自分の思い込みかっていうのは、すごく分かりづらいところがあるね。だからわれわれにとっては、そういった経験っていうのは、まあこれ、ちょっとみんな笑うかもしれないけど、プラスになるものだけ信じてください。ね(笑)。で、これはちょっと魔的な感じかなって思うものは全部シャットアウトしてください。例えば勉強会に行こうとしたら「行くな、行くな」とか聞こえてきたら(笑)、「あ、これはなんかおれの心がちょっと怠けてて、そういう魔的な感じなんだな」と。「こんなものはどうでもいい」と。じゃなくて、例えば今日修行休もうかなと思ったら「行け、行け」って聞こえてきたら、「あ、これは神の声だ」と思って信じると。最初はその程度でいいんです。
 いつも言うようにね、修行の本質的な経験っていうのは、どんどんどんどん真髄に近づけば近づくほど、当然、はっきりしてくるんだね。もう疑いの余地がないような経験になってきます。でもおそらく多くの人は、非常に、わたしから言わせるとあいまいな経験を、すごく、なんていうかな、大事にする。やっぱりそこにはプライドであるとか、あるいは、「こうありたい」っていう気持ちが強いんだろうね。で、それによって、「ああ、わたしは真実の自己に到達した」とか、ハイヤーセルフがどうこうとか、そういうことを言いだすんだね。これはだからはっきり言うと、一番低い経験です。一番低いタイプの過ちだね。
 で、二番目は、そうじゃなくて、少し実質的な経験をしだす。つまり例えば、ほんとにちょっと聞こえだすとか、ほんとに見えだすとか。でもこれは、今度はこれはね、いわゆるアストラル、つまり霊的世界の経験であることが多いんだね。この霊的世界の経験っていうのも、もちろんわれわれの心の本性の経験ではありません。つまり単純な、イマジネーションの世界なんだね。あるいはいつも言うように、霊的な世界のいたずらな霊が、いろいろやってきてる場合もあります。ね。これもだから気を付けなきゃいけないんだね。
 ほんとにいるんですよ、そういうのは。いたずらな霊がふよふよしてて、修行者が修行してると、「おっ、なんかこいつ傲慢そうだからいたずらしちゃおう」とかいって、バーッて仏陀みたいな姿で来て、「おまえは悟った!」とか言ったりするんだね(笑)。そうすると傲慢な人はパーッて、「お、おれ悟ったのか!」っていう気持ちになってしまう。ね。
 逆に言うとね、傲慢じゃなければ、あまりそういうのは来ません。あるいはそれに付け込まれないっていうかな。だからそういう意味でも、謙虚さとか、まあ、一番いいのはだから帰依が一番大事なんだね。自分の師とか、高い存在に帰依――つまりわたしはほんとにあなたのしもべですと、あるいはほんとにわたしは何も分からないんです、というような気持ち、謙虚な気持ちがあれば、なんていうかな、悪魔、魔的な霊っていうのはあまり付け込むことができない。これが二番目の、霊的な過ちですね。
 これはだから一番目に比べたら、ちょっとリアリティがある。つまり思い込みではなくてほんとに聞こえたり見えたりし始めるんだけど、それが本質的な自己の本性の経験だと思い込んじゃう。でも実はそんなことはないと。っていうのは、はっきり言うけども、自己の本性っていうのはイマジネーションじゃありません。前にIさんにも聞かれたんだけど、「真我は何色ですか?」とか(笑)。真我に色はありません(笑)。つまり色とかの世界っていうのはまだアストラルなんだね。うん。つまりイマジネーションの世界。でもそういう――例えばだからそれもいろんな変な本とか読んじゃってね、なんか、「あ、こういう形のこういう色のものが見えた」と、「わたしは真我に到達した」と。真我には形も色もありません(笑)。つまりわれわれの本性には形も色もない。しかしそういったイマジネーションの世界にとらわれてしまう人がいる。これが二番目の過ち。
 三番目の過ちは、より深いわけですけども、もうちょっと深い、つまり心のかなり奥のところにアクセスしたとき。これも、真我とか心の本性ではないんです。心の本性ではないんだけども、かなり心の、つまりわれわれの潜在意識のより深いところにアクセスしたから、まるで自分を動かしてる大もとにアクセスしたような気持ちがする。まあ実際そうなんだけどね。例えばこれは仏教でアーラヤ識といったり、あるいは最近の精神世界ではアーカーシックレコードといったり、そういった深いわれわれの心の、あるいは宇宙の本質的なところに近い世界がある。それをまた心の本性あるいは真我と勘違いする場合があるんだね。それも、そうじゃないんです。
 はい。で、段階はいろいろあるけども、とにかくそれぞれのレベルに応じて、何かある種の心の本性に到達したような気持ちになっちゃって、で、ここに書いてあるように、まるでほんとの聖者のように、「たとえ何に縛りつけられても、それ自身で解放するのである」とか言うわけですね。あるいは、自分がね、経験した経験を非常に高い経験であると吹聴すると。あるいは自分で思い込むと。ね。しかしそれは、「宝石の価値を知らない無智なる者は、単なる緑色のガラス玉を、エメラルドであると思いこむ」と。つまり、まあ分かりますよね、この例えはね。緑色のただのビー玉みたいなガラス玉があると。でも緑で色は似てるから。でも、例えば宝石商がここにいれば、ひと目で分かるでしょう。あ、これガラスですよと。でもその価値を知らない者は、つまり偽物のね、ガラス玉をつかまされて、「おお、これは偉大なエメラルドだ」と思い込む。つまりこれと同じように、それは全く価値がない、ただの、いつもよりはちょっと深い意識にすぎないのに、自分は心の本性に到達したんだと思い込んでしまうその過ちを、まあ、ここでちょっと注意してるわけですね。
 何度も言うけども、傲慢な人はすぐにここに引っ掛かります。特にね、そうですね、本を読んだだけ――修行どころか本を読んだだけで引っ掛かる人が結構多い。特に、例えばゾクチェンとかね、マハームドラーとか、まあ禅もそうだけどね。ああいう本って――もちろんそういう本が悪いって言ってるわけじゃない。悪いんじゃなくて逆に、素晴らしいんです。マハームドラーとかゾクチェンとか禅とかで説かれる境地は、ある意味非常に素晴らしい。しかし、読んだだけで身に付くわけがない(笑)。でも多くの人は、読むとなんか自分がそれを身に付けたような気がする。あるいはそこで生じた頭の理解をほんとの悟りと勘違いしてしまう。ああ、そうなんだと。おれはもうゾクチェンやってるから、すべては解放されるのであると。ね。でも全くそんなことはない。それはただのその人の、なんていうかな、浅い意識で満足してるだけだと。だからこれも、そういったものに対する、まあ注意なわけですね。
 はい。だからここも、皆さんに当てはめて言うとね、そうですね、いつも言うように、われわれは、激しい、強い求道心を持たなきゃいけないんだね。求道心っていうのは、「わたしは本当に真理を知りたいんだ」と。「本当のわたしの本性を悟りたいんだ」と。このような誠実な求道心があれば、途中で間違ったりはしない。でも傲慢さがあると、何度も言うように、全くそれが本性とは言えない経験なのに、そこで自分はもう終わったんだと、あるいはこれがゾクチェンやマハームドラーでいう心の本性なんだ、っていうふうに、まあ思ってしまう。あるいは思いたい心があるわけですね。わたしはもうここに到達したって思いたいと。ね。あるいは、ちょっと疲れてるっていうのもあるかもしれない。修行が結構つらくて、「そろそろいいかな」と(笑)。「おれは到達した」って思いたいっていう潜在意識があるのかもしれない。じゃなくてほんとに誠実に、全くなんの曇りもない、一点の曇りもない、一点の疑いもない、ほんとの本性に到達するまで、わたしは満足しないんだ、という気持ちね。
 あとはもう一つは、いつも言うように、師匠、特に生きた師匠への帰依、帰依心があれば間違いません。なぜかというと師匠は、徹底的に批判してくれるから。否定してくれるから。ある意味では師匠の役割は、否定することだと言ってもいい。つまり弟子がどんな高い経験を報告してきても、それがほんとの本性じゃない限りは全部否定する。「はい、魔境」と。「はい、駄目」と。「はい、大したことない」と。あるいは無言だったり(笑)。


(一同笑)


 「先生、こんな経験しました。」「ふーん」と(笑)。よくわたしも、例えば、いろんな人からね、「こういう経験をしてきた」ってメールが来て、特に返事を返さないときもある。それは別に、それを否定してるわけじゃないんだけどね、ほんとはね。あるいはばかにしてるわけでもない。なんていうかな、言ってみればそれは、当たり前のことだと。皆さんが正しい道に入って修行してるならば、さまざまな経験を繰り返すことは、これはもう当たり前のことです。で、決してその一つ一つ――いつも言うようにその一つ一つを喜ぶのはいいですよ、瞬間的に。瞬間的に、「あ、このような経験をした」と。「何か一歩進んだ」と。「これは素晴らしい、やったー!」――喜ぶ。でもすぐ忘れてください。また次の経験が来たと。つまり最終的なところに行くまでは、それはただの道標だと。いつも言うようにね。例えば、そうですね、お使いを頼まれてね、そのスーパーに行くまでにいろんな道標があるわけです。一番最初には床屋さんがあるからそこを曲がりなさいって書いてある紙を見てね、子供が、「あ、床屋さんあった!」と。「やったー、床屋だ!」――満足して床屋で遊び始めたら(笑)、スーパーに行くっていうその目的は達成されないわけだね。だからそこで「床屋だ!」と喜ぶのはオッケー。「あ、ここまで正しかった」と。「やったー!」――そしたらもう床屋は忘れて歩かなきゃいけないんだね。それがだから修行の経験だね。
 だから一個一個は喜んでもいいんだけど、そこにとらわれてはいけない。最後の目的地を確実に確信するまでは、飽くなき探究を続けるわけだね。


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