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心とマーヤー(1)


「心とマーヤー」

  スワミ・ラーマクリシュナーナンダ

 心というのは、ひとつのものであって、ひとつ以上のものではありません。しかし、心がいくつもの部分に分かれてしまうと、その各々は弱くなってしまいます。しかしもし散乱した心がもとの状態に戻されれば、全体の心は力を取り戻します。
 ある数学の問題を二人の生徒の前に置いた際、心の集中を欠いた方が、その問題を解くのにより時間がかかることをご存知でしょう。心が弱いほど、人はより長く思考しなければなりません。別な言い方をすると、より長く疑い続ければなりません。
 心に疑いがある間は、あなたは思考を続けなければなりません。思考する心というのは、決まって「疑う心」です。
 例えば、ロープを蛇と見間違えたとします。そして、それをよく見たら「それはロープではないか」と思うことでしょう。しかし、風でそれが動くと再度、やはり蛇かもしれないと思ってしまいます。そして、それが本当は何なのかを確かめるまで、あなたは推論し、思考をし続けます。そして疑いが全て晴れることで、ようやく考えることをやめるのです。

 疑いというのは心の病気です。身体が病のもとでは休まらないように、心も疑いのもとでは休まりません。
 この極端に休まらない心というのは、疑いが本来の状態ではないことを示しています。心の本来の状態においては、全ての疑いが解消されており、ひとつの疑いも残っていません。それは主の心となるのです。
 神には思考の必要がありません。彼には疑いはなく、全てのことが解決されています。ゆえに、彼の心は「休まらない状態」には決して陥らないのです。
 もし心が休まらないとしたら、それは、不自然な状態にあるからです。休まらないという状態は、決まって、それが異常な状態にあることを示しています。ゆえに、疑いは不自然なものなのです。
 赤ん坊を見失った母親を想像してみてください。彼女は休まるでしょうか?――いいえ、彼女は子供がどこにいるかを知るまで、あちらこちらを走り回り、平静さを保つことはできません。しかし、彼女の腕のなかに赤ん坊が戻され、寝かされたなら、すぐに不安と疑いは去り、彼女は安らかになります。

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