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解説「王のための四十のドーハー」第四回(4)

【本文】

最初にも最後にも同様に何もない
はじめにも、中間にも、終わりにも、とどまるところはない
絶え間ない概念によって、めぐる思いは二元となり
それゆえに、空と慈悲も二つとなる

「最初にも最後にも同様に何もない 
 はじめにも、中間にも、終わりにも、とどまるところはない」
 ――これはつまり、この宇宙の本質を表わしています。あるいはわれわれの心の本性ですね。われわれの心の本性っていうのは、あるいはこの宇宙の本質っていうのは、最初も最後もなく、始まりもなく、それから中間もなく、そして終わることもない。
 この世のものっていうのは、お釈迦様も言ってらっしゃるように、すべては始まり、終わるわけだけど、ただ、お釈迦様の教えの中にもヒントがある。お釈迦様はこういうことを言ってらっしゃるんだね。「すべては始まり、そして終わる」と。「この始まることと終わることを超えた状態がニルヴァーナだ」ということを言っている。つまり、ちょっとストレートに言ってしまうと、もともと何も始まってないんです。で、始まってないっていうことはもちろん終わらないんです。つまりこの、何かが始まったかのように見える、終わったかのように見える、すべては錯覚だっていうことだね。
 難しいですね、これはね。最近よく精神世界とかでも、「今、ここに集中しなさい」っていうことをよくいうけども、それは一つの正しい言葉ですね。でも「今」っていうのもほんとはないんだけどね。今っていうのは、なんていうかな、「さっき」と「これから」があるから「今」があるんであって(笑)。でも一応便宜上「今」というしかない。あるいは「ここ」っていうのも、「あそこ」があるから「ここ」があるんであって。でも一応、言葉としては「ここ」っていうしかないんだけどね。つまりわれわれには時間も空間も本来は存在しない。これが本当の真実なんだけど、しかし、

 絶え間ない概念によって、めぐる思いは二元となり 
 それゆえに、空と慈悲も二つとなる

ってあるけども、「絶え間ない概念」――つまり本質ではないさまざまな、雑な概念にわれわれが引きずり込まれることによって、二元的な思考ね、これがどんどんこう増大していき、われわれは、何度も言うけど、本来は何も始まってないし何も終わってないんだけど、何かが始まり終わるというような幻影の世界に引きずり込まれるんだね。で、いろんなことを心配したり、いろんなことを恐怖したり、あるいはいろんなことを振り返って思い出にしたり、あるいは逆に後悔したり、そういう世界に引きずり込まれる。でもそれは全部、幻なんだよと。過去というのは一切ないし、未来というのも一切ないと。
 で、もうちょっと言うなら、今もない。何もないの?って感じだけど(笑)。でも何もないわけでもない(笑)。だからこれはもう説明できない世界なんだね。悟るしかない世界なんだけど、一応こういう感じで説明するしかない。で、もう一回言うけども――でもこれはね、だから皆さん、瞑想を進めるしかないんだね。瞑想を進めると皆さんは、完全じゃなくても、この片鱗みたいなのを経験するかもしれません。片鱗っていうのは、瞑想によって、「あ!」――時を超えた状態っていうかな。
 あのさ、そうだな、わたし前にこういう例え話で説明したことあるんだけど――過去というのは終わったものだと。だからなんの意味もないと。で、未来というのはまだ来ていないと。だからなんの意味もないと。だって来てないんだから(笑)。来てないこと考えたってしょうがない。過去というのは、まあ仮に過去があると仮定しても、でも終わってるんだから。関係ないよね。終わったものは関係ない。未来は来てないんだから関係ない、別に。で、じゃあ今はどうなんですか。今っていうのは瞬間に過ぎ去る。だから関係ない。過去も未来も今も関係がないと。その三つを超えた何かがある。
 また別の例えで言うならば、これは一つのイメージだけど、電車が走ってる。で、電車が走ってて、われわれはその走ってる電車に目を向けるわけだね。で、よく未来を気にする人っていうのは、つまり電車がこっちからガーッて来てるとしたら、ずーっとその来てる方を見てね、「あ! 今度はあの車両がやって来る」とかね、「あの車両に誰か乗ってるのかな」とかね。で、逆に過去を気にする人っていうのは、もう行っちゃった電車をずーっと目で追っかけて、なんていうかな、「あ! 今かわいい子が乗ってた」と。「ああー! 行っちゃった」――こういう感じだね。で、すべては、お釈迦様が言うように無常ですよと。つまりすべて、どんどん移り変わっていきますよと。これは一つの便宜的真実なんだけど。で、今を見るっていう人は、つまり、この流れてる、今目の前を過ぎ去るものをこういう感じでこう見てるんだね。あ、来た。また行った。あ、来た。また行った。これは限定的にはいいことです、限定的にはね。でもそれでもほんとは駄目なんです。真実はどう見るかっていうと、目の焦点を電車に合わせてはいけないんです。まず目はバッと固定して、電車の向こう側に合わせるんだね。そうすると何が起きるかっていうと、窓をとおして向こうの景色が見えます。これが真実なんです。これが過去・現在・未来を超えた、ベースにある真理だね。
 つまり電車の向こう側の景色っていうのは、どこにも行かない。来てもいないし行ってもいないし、つまり永遠にあるものがあるんだね。――これは瞑想によってわれわれが、ちょっとそういう境地に触れることができる。その過去・現在・未来を超えたような世界にパッとちょっと触れることができるんだけど、でも、すぐにわれわれの中には、ブワーッて概念が湧いてくるんです。で、その概念に巻き込まれるようにして、その素晴らしい境地から遠くなるんだね。で、いつの間にか、いろんな、「ああ、こうなったらいいな」とか「ああ、あれはこうだったな」っていう世界に巻き込まれていく。で、どんどん二元性の中に入っていくんだね。

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