「何に対して」
【本文】
もし、他人に苦しみを与えるのが愚者の本性であるならば、それに向かって私が怒りを起こすことはふさわしくない。それはあたかも、本来「焼く」という性質を持つ火に対して(怒るのがふさわしくないこと)と同様である。
さらに、もし衆生のこのような過ちは偶然であり、衆生の本性は本来は清らかであるとするならば、それに対する怒りは、(本来清らかな)虚空が不快な煙で満たされたとき、(虚空に対して腹を立てることと同様に)これまた正当でない。
【解説】
さあ、シャーンティデーヴァの面白くもすばらしい論理がまた展開されていますね。
他人に苦しみを与えるのは、おろかな凡夫の持つ本性なのでしょうか?
もしそうだとしたら、それはちょうど、本性的に「焼く」という性質を持つ火に対して、「なぜお前は焼くんだ!」と怒るようなもので(笑)、ナンセンスだということですね。それは本性なんだから、そういうもんなんだから、怒っても仕方ないだろうと。
次に、そうではなくて、衆生の本性は清らかであり、現在他人に苦しみを与えるような状態は、彼らの本質ではなく、条件によってそのようになっているだけだとしたら・・・何らかの条件で虚空が不快な煙で満たされたとき、その虚空に対して怒るようなもので、ナンセンスだということですね。衆生が本来清浄だとしたならば、彼らには全く非はないのです。清浄なのですから。彼らもちょうど不快な煙のようなマーヤーの魔の幻影に侵されているだけなのです。その被害者である衆生に慈悲を持つならわかりますが、怒るのは意味がないということですね。
【本文】
直接の原因である杖をさしおいて、杖で殴った人に怒りを発するくらいなら、むしろ彼(殴った人)は怒りに駆られたのだから、怒りに対して怒りを起こす方が、私において優っている。
【解説】
これもまた面白い理論ですね。
たとえば誰かに杖で殴られたとき。
直接、私の体に危害を加えたのは、杖です。
でも我々は、「何だ! 杖! このやろう!」などと怒ることはありません(笑)。
そうではなく、杖を操作して殴った人物に怒りを発します。
それならばさらにさかのぼって、その人物を支配している「怒り」という煩悩そのものに対して怒ったほうがよい、ということですね。
たとえばやくざの組長(怒りの煩悩)が、ある幹部(怒りに駆られた人)に、「あいつをしめてこい」と命令したとします。
命令された幹部は、実行犯のチンピラ(杖)に、指示を出しました。
こうしてチンピラが、あなたを袋叩きにしたとします。
あなたは誰に怒りを発しますか(笑)?
そのチンピラは操られただけだから、その幹部に怒りを発するというのなら、そもそも最初の命令を出した組長を怒れ、ということですね。
そういえば私が中学生の頃、こんなことがありました。
クラスでいじめられていたA君がいたのですが、いじめっ子達がA君に、「あいつ(私のこと)に唾をかけて来い。そうしたら仲間に入れてやる」と言ったのです。するとA君は本当に私に唾をはいたのです。
そのときの卑屈に笑うA君の顔を見るとA君を怒る気にはなれず、それを指示したいじめっ子たちに私は殴りかかっていきました(まあこれもどうかと思いますが、この頃は血気盛んだったので(笑))。
この場合私は、唾自体に怒ることはなく(笑)、唾をはいたA君を怒ることもなく、それをやらせたいじめっ子達に、怒りの矛先を向けたわけですね。
同様に、杖が男に操られたのと同様に、その男も怒りの煩悩に支配されてその行動をとったのだから、杖を怒らず、男を怒ることもなく、その怒りの煩悩そのものに対して怒りを発すべきだ、という理論なわけですね。
そう、怒りに対して怒りを発して、粉々に打ち砕いてやってください、怒りの煩悩を。彼が支配されている怒りという悪魔をいかにぶち倒せるか、考えてください。そのために有効な最高の武器は、慈愛の心だと思います。
【本文】
さらに、前生において私はかような災厄を衆生に加えた。それゆえ、衆生に苦しみを加えた私が(今この苦痛を受けるのは)当然である。
【解説】
前生にまでさかのぼることもなく、今生を振り返って懺悔してみただけでも、我々は意識的に、あるいは気付いていない分も含めれば、多くの苦しみを、他者に与えてきました。ましてや無数の前生のことも考えたら--今生でも自分はこんなに迷妄なのですから、前生でも多くの過ちを犯し、多くの苦しみを他者に与えてきたということは、容易に推測できます。
だからカルマの法則から言って、その果報を今生において受けるのは当然のことなんですね。それは当然の報いです。そしてそれによって自分のカルマや心が浄化されていっているわけですから、それは喜ぶべきことでもあります。
これはオーソドックスな、カルマの法則の理解によって苦しみを耐えて乗り越える思考方法ですね。
【本文】
彼の刀とわが身と、この二つが私の苦しみの原因である。彼は刀をとり、私は身をとった。いずれに対して怒りを発するか。
私がとったこの身体という物質は、触れるのも耐え難い腫れ物である。渇愛によって盲目となった私が、そこで苦悩を受けるとき、何に対して怒りを発するか。
【解説】
誰かが刀で私の体を切って、私に苦しみが生じたとします。ここで苦しみが生じた原因は何でしょうか?
一つは彼が刀を手にとり、それで私の身体を切ったということです。
そしてもう一つは、この身体という物質に、私が「私である」という我執を持ったことです。
この二つの条件のどちらかが欠けても、苦しみは成立しません。
だから、もしここで、「私が私の我執に対して怒るのは、不合理である」と考えるなら、同様に刀をとった相手に対しても怒るべきではありません。それは不公平というものです。
逆に、刀をとった相手を怒るべきなら、同様にこの身体をとった自分自身をも怒るべきです。そして自分自身に、この身体への執着を捨てさせるべきです。
私が執着したこの身体という物質は、「触れるのも耐え難い腫れ物」なのです。変な言い方ですが、この肉体というやつは、小指一本切り落とされただけでも、相当の苦悩を生じさせます。身体のどの部分を針で刺しても、火で焼いても、苦悩を生じさせます。このような、すぐに苦しみが生じてしまう肉体という厄介な物質に「私である」という執着を抱いてしまったのは、我々が無明により、渇愛の煩悩により、盲目になってしまったからです。何が幸福で、何か不幸であるかわからなくなってしまったからです。それによって我々は、さまざまな苦悩を受けているのです。だから決して、怒りを発する相手は、誰か外の世界にいるわけではないんですね。この自分の我執こそを、破壊すべきなのです。
【本文】
愚か者の私は、苦しみを希望しないのに、苦しみの原因を希望する。苦しみは自己の悪業を原因とするのに、なぜ他人に対して怒りを発するか。
(地獄界における)刀の葉の林や地獄の鳥どもが、私のカルマから生じたものであるように、この現在の苦しみもまたそうである。何に向かって怒りを発するか。
【解説】
ここもとても良い部分ですね。ここの意味は読んだだけでもわかると思うので、あえて解説はしません。じっくりと意味を味わってください。
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