◎低い解脱にはまるな
【本文】
バヴァ・プラティヤヨー ヴィデーハ・プラクリティラヤーナーム
神々や、自性に没入した人々には、自然発生的な無想サマーディがあるが、それは再生されるものである。
シュラッダー・ヴィーリヤ・スムリティ・サマーディ・プラジュニャー・プールヴァカ イタレーシャーム
その他の人たちの無想サマーディは、信・精進・念・サマーディ・智慧を手段として得られるのである。
この部分もいろんな解釈があるんですが、一応私の解釈でいいますけども、
「神々や、自性に没入した人々」
――これは何を言っているのかというと、簡単に言うと、低い解脱をしちゃった人です。低い解脱ってどういうことかっていうと、ニルヴァーナではない、つまり完全な真我に到達したわけじゃないんだが、ここでは「自性に没入」って書いてあるけど、エネルギーが展開しようとする初期の段階の自性の流れみたいなものがあって、それを真実だと思い込んでその世界に入っちゃった人。
もうちょっとね、三界の説明でいうと、無色界にはまった人です。無色界というのは、心の一番奥の世界――ヨーガでいうコーザル世界だね。この世界というのは最も奥ではあるんだけど、解脱ではないんです。惜しいんです(笑)。惜しいんだけど、完全な解放ではない。
でも本当に静かで止まってて、まるで解放の世界みたいだからはまっちゃうんだね。これが間違った解脱なんです。
これは「神々、あるいは自性に没入した人々」といっているのは、修行者で間違ってここに入っちゃう人――これを自性に没入した人といっています。神々といっているのは、実際に無色界の神々とかそういうことだね。とにかくこの世界、解脱ではない惜しいんだけど最後の最後のところではまっちゃう人がいる。で、このはまっちゃった人って言うのは、「自然発生的な」と書いてあるけども、その世界によって自然に、修行とかしていなくても、自然に無想サマーディに入るんです。でもここに書いてあるように、「それは再生されるものである」。つまりこのタイプの無想サマーディは、またそこから落っこちる。いったんそういう感じになるんだけど、またいろんな想念とかいろんなカルマが始まっちゃって、またこの輪廻に突き落とされる。これがここで書かれていることだね。
だからここは教訓としては、はまるなよと、そこに(笑)。低い解脱にはまっちゃいけないよと。一時的には安らぎに見えるけど、それはまだ最終じゃないよと。
◎信・精進・念・サマーディ・智慧
はい、そしてその次が、「その他の人の」――このその他の人っていうのは、正しい道を歩む修行者ということです。正しい道を歩む修行者の無想サマーディは――これは上のサンスクリットと対応しているので、見たらいいね――シュラッダーが信ですね。ヴィーリヤが精進。スムリティが念ですね。サマーディがサマーディ。プラジュニャーが智慧ですね。この五つというのは、仏教でいう五根五力です。これは全く同じ言葉を使っています。
だからおそらくヨーガでも仏教でも、この時代、こういう同じような修行の観念があったんだろうね。修行というのはこの五つのプロセスで進められるんだと。つまり簡単に言うと、まずしっかりと信を持ち、そして精進すると。そして念――この念というのは掘り下げるときりがないけども、『菩薩の生き方』読んでください(笑)。正しい念を持ち日々生きると。そしてその結果としてサマーディに入ると。で、結果として智慧を得ますよと。
でもここでは智慧を最終地点とはしていない。つまりこの「信を持ち、精進し、念を持ち、サマーディに入り、智慧を得る」ということを、日々繰り返すことによって、無想サマーディといわれる段階に到達するんだと。だからここは言葉の問題があるけども、ここでいっているサマーディとか智慧というのは、最終段階をいっていないんだね。まだ小さなサマーディ、小さな智慧というのを日々繰り返すわけですね。これによってより深い無想サマーディにまで到達しますよと。
だから日々自分のできる範囲で、「信を持ち、精進し、念を持ち、サマーディに入り、智慧を得る」ということを繰り返しなさいと。
初歩的な段階からいったら、まずは信じなさいと。信じなさいというのは、ちょっと細かい哲学的理論は抜いて、実質的な結論だけ言うけど、まず師匠を信じなさい。それから自分が今やろうとしている教えを信じなさい。それから自分がやろうとしている修行を信じなさい。修行の力。それから自分の成功を信じなさい。絶対私はこの修行によって変われるんだということを信じなさい。そして自分を導いてくれている神を信じなさい。まあこれくらいでいいかな(笑)。これらをしっかりと信じる。だから信が根本です。
いつも言うけどね、信なき修行は失敗するか時間がかかります。だって簡単に言えばそうでしょう? 今言ったのを、もし全部信じてなかったらどうする(笑)? 「おれ解脱したいんだけど、じゃあ修行しようかな……でもうちの師匠ってどうなんだろうなあ……。教えも……これ本当かなあ?」(笑)。で、修行しながら、「この修行効果あるのかな? おれって解脱できるのかな? 素質ないんじゃないかな?」(笑)。「神様なんているのかな?」(笑)――これやってたら、全然パワーがないっていうか(笑)。だから少なくともその道を歩もうと思ったら――ここでいう信っていうのは、別に何でもかんでも信じろっていうわけじゃないよ。とにかく今歩もうとしている道を信じろということです。あるいは自分の可能性を信じろと。確信を持って行なえと。
そして自然に信が高まれば、精進になるんです。だって信じてるんだから(笑)。信じてるんだから、精進というのは自然に出てくる。
で、日々念――念というのは簡単に言うと、正しいものから日々心をはずさないということです。日々、二十四時間正しい思いを持ち続ける。で、日々しっかり瞑想する。いろんな形で瞑想して、深い瞑想に入れるように。もちろんその前段階として、いろんな修行をして、深い瞑想に入る訓練をする。
その瞑想経験とか、あるいは日々のいろんな実生活の経験も含めて、自分の智慧を高めていく努力をする。智慧というのは、もちろん最終的には完全な悟りが来るんだけど、小さなことも智慧なんだよ。小さなことというのは、例えば実際にここに来る生徒でよくあるパターンなんだけど、さっき言った怒らないということね。例えば怒ることがいいことだと思っている人がいっぱいいる。そこに私は教えてあげるわけです。「いや、怒らない方があなた幸せになりますよ」と。でも最初はその人は半信半疑だったりする。でもヨーガ修行をして、精神が落ち着いてきて、私から聞いたあるいは本で読んだ「怒らない方がいいのかな?」ということを何回かやっていると、その人は実体験として経験するんです。「あれ? 怒らない方がなんか幸せっぽい」と――これは一つの智慧なんです。こういうことを日々いろんなことを繰り返して――つまりわれわれは習慣によって、間違った世界の見方をいっぱい持っているんだね。これを修行とか教えによって、ちょっと変えていくんです。これはもうすでに智慧なんです。これの繰り返しだね、ここでいっているのは。だから本当のすごい悟りのことをいっているんじゃなくて、日々のそういう修行における、あるいは実生活におけるさまざまな智慧。
この五つをしっかりと繰り返すことで、無想サマーディに至りますよということだね。
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