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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第二回(2)

 だから、もう一回言うけども、無理やり信じ込むっていう意味の信じゃなくて、心の――逆にね、一般に信じるっていうのは、イメージで言うと、上からこういろんなものを乗っけるイメージですよね。乗っけるっていうのは、「今は信じていない」と。「じゃあ、信じるっていう思いを一生懸命作りましょう」っていうイメージだと思うんだけど。じゃなくて、逆にわれわれのその心のけがれ、あるいは不純なものが取り除かされたときに現われる、「純粋な相手への確信」みたいな感じだね。相手っていうか、真理への確信だよね。
 ここで言う信っていうのは、前提としてはもちろん、真理への信ですよ。真理に対する信ね。あるいは、仏陀とかそういう、聖なるものに対する信ね。それはもう一回言うけども、作るものっていうよりは、われわれの心の浄化によって現われてくるものなんだね。
 これは是非、皆さんにしっかりと磨いてほしいと思う。それは何度もここで言っているけども、わたしがなぜこういうことをみんなに言うかっていうと、わたし自身の修行のね、経験として、まあいろんなことを例えば疑ったり、あるいは論理的に考え過ぎたり、あるいはいろんな回り道をしたりして、あるときパーッと「あっ、信とはそういうことなのか」と。「信っていうのは本当に心が純粋になったときに現われる、確信みたいのが、誰でもね、心の中にある」と。皆さんもあると思うんですよ。例えばここにいる多くの人は、もうね、だいぶね、長くここに通って修行したり勉強会出たりしていると。で、ということは何かあるわけだね、心の中で――まあ、人によっては毎回毎回勉強会来たり、クラスに出たりするたびに「ああ、本当に修行は素晴らしいな」とか「教えは素晴らしいな」と思っているかもしれない。でも、人によっては、例えばそうだな、一回だったかもしれない。例えば、あるとき勉強会に来たら、何か心がパーッとなって「あっ、何かここには真理がある!」と思ったと。で、次は別に思わなかったと。ね(笑)。三回目も思わなかったけど、一応思ったことがあるから「何かあるのかな?」と思って来ているのかもしれない。あるいは人によっては、毎回何かこう感じるところがあるのかもしれない。
 で、前も言ったけども、例えばわれわれがヨーガとか仏教とそういったものと出会って、学んだりとか修行したりしたときに、「あっ、これは何か真理かもしれない」とか、こうパーッてちょっとこう心に明かりが灯るときがある。これが「信の灯火」――まあ、前は別の話で「バクティの灯火」って言ってたんだっけ。「バクティの灯火を皆さんの心に宿しなさい」っていう話をしたけども、信も同じなんです。信の灯火ね。
 つまりその――もう一回言うけども、われわれの心の純粋な部分が「これ真理だよ」と。「あなたの生きる道はこれだよ」と。「これしかないんだよ」っていうことになんとなく気付く。でもまた普段の生活に帰ると、それは埋没するんだね。なんでかっていうと、いろんな、世間では、疑いの心を持って生きなきゃいけないっていうふうにエゴは思ってる。あるいは、いろんなことで利害関係のある中で生活していると、どんどんどんどんその、自分のね、最も大事な部分までも、それによって覆い隠されてきてしまう。だから、それが、その火が消えないように消えないように、そしてそれをどんどん増大するように、自分の信っていうのを高めていかなきゃいけないんですね。

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