yoga school kailas

◎静寂の境地への入り方

 もう一度『ヨーガ・スートラ』自体の位置づけから話すと、五世紀ぐらいって言われていますね、『ヨーガ・スートラ』の成立自体が。
 インドにはもともと、ヴェーダっていう古典ですね、これは宗教だけじゃなくて、生活全般――例えば、食べ物から病からあるいはセックスから、あるいは日々のいろんなしきたりから、あるいは神への祈り方にいたるまで、さまざまないろんなものを集積したヴェーダっていう古い経典があるんだね。このヴェーダ=インドの叡智の集積みたいなところがあるんだけど、ヴェーダ自体には、例えばわれわれが今やっているような「さあ、魂の浄化のためにこのような修行をしよう」みたいなことは書かれていない。かなりね、祈り中心の内容なんだね。
 で、インドの宗教っていうか、インドの思想界全体が、――その前までは神に祈って雨を降らせてもらうとか、神に祈って幸福にさせてもらうっていう、どこの国にもあるような土着の祈りの宗教中心だったんだけど、そうじゃなくて、自らが自らを浄化し、修行し、悟る、みたいな感じのがだんだん出始めてきた。その代表的なのがお釈迦様です。お釈迦様は、そのインドの大きな流れの中の中心人物だったんだね。
 お釈迦様はそれで後に仏教と呼ばれる教えを興して、それがインドの主流になっていくわけだけど。そうじゃなくてヒンドゥー教の伝統的な流れっていうのも、そういったヨーガ的な教え――つまり自らが修行して悟る、みたいな流れをどんどん明確にしていったわけだね。
 仏教っていうのはやっぱり、非常に知的な宗教なんだね。教えがすごく洗練されてて、非常に経典としてまとまってるというか。ヨーガもそれに対抗したのかどうか知らないけども、非常に洗練された形で教えがまとまってきた。その今残っている一番古い形のものが、この『ヨーガ・スートラ』ですね。
 だから現代でちゃんとヨーガをやっている人たちの誰に聞いても、『ヨーガ・スートラ』っていうのは一番権威があるっていうか、一番古くて、一番今やっているヨーガのもととなっているものとして、非常に尊重されているんですね。
 実際、仏教とかをよく知っている人がこの『ヨーガ・スートラ』を見ると、「あれ? ほとんど仏教じゃない?」っていう感じがする。一応表面上は、ヒンドゥー教と仏教っていうのは喧嘩ばかりしてきたんだけど。実際はインドっていう大きな流れの中で、一つの宗教の大きなムーヴメントとして、いろんなものが現われてはそれを取り入れたり、合わせたり、あるいは悪いものを取ったりして、インド全体が成長してきたっていう感じなんだろうね。だからこれをみると、非常に面白い。原始仏教、それから大乗仏教、それから密教的な要素も全部含めて、『ヨーガ・スートラ』の中にいろいろ見受けられるんだね。でもちょっと頭が堅い人っていうか、ヨーガの一面しか知らない人が見ると、『ヨーガ・スートラ』はまさにヨーガの経典にしか見えない。
 仏教も同じだけどね。仏教も非常にヨーガ的なものってすごく含まれてるんだけど、堅い宗派主義的な目で見ると、「いや、仏教とヨーガは違う」という感じになっちゃうんだけど、柔軟に見ると非常にもう見分けがつかないくらいのものですね。
 はい、今回の『ヨーガ・スートラ』のこの部分っていうのは、寂静の瞑想――つまり仏教でいうとパーリ語で「サマタ」。サンスクリット語で「シャマタ」、チベット語で「シネー」ね。そう。シネーと呼ばれる――これはだから、仏教をいろいろ見ると、絶対出てくる瞑想。だいたい仏教で瞑想という場合、サンスクリット語でいうとシャマタとヴィパシャナーですね。パーリ語でいうとサマタとヴィパッサナー。チベット語でいうとシネーとラントン。日本語でいうと寂静と正観っていうかな。つまり心を寂静にする瞑想、それから正確に観察する瞑想――止観ですねつまり。止と観。この寂静の瞑想について書かれている『ヨーガ・スートラ』の部分が、今日のこのページですね。つまり、いかに寂静の境地に入るかが、いろんなパターンでここには書かれているんです。
 さあ、『ヨーガ・スートラ』が明かす寂静の瞑想への入り方の一番最初を、まず読んでみましょう。今日はサンスクリット文も併記してあるので、サンスクリットから読んで下さい。

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