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解説・ナーローの6ヨーガ(5)「この世への執着を退ける」


◎この世への執着を退ける

【本文】
 初めに、この世に執着する心を退けないならば、それは大乗と小乗のいずれにとっても道の害である。よってまず、自分がこの世に長生きせずに死ぬことを想像する。そして死んだ後に、自分が悪趣のさまざまな状態にさまようことを想像する事によって、この世に対する執着の心を退けるべきである。

 これは読んだとおりですね。「この世に執着する心を退けないならば、それは大乗と小乗のいずれにとっても道の害である」。

 つまり大乗と小乗っていうのは、さっき言った、小乗っていうのはヒーナヤーナ。つまり自分のためだけに修行する。大乗というのはみんなを救うために修行する。で、どっちにしろ、この世への執着が強かったら駄目なんだと。この世への執着が強かったら自分一人も解脱できないし、人を救うこともできない。よって――で、ここで具体的な方法論が説かれるわけだね。

 「まず、自分がこの世に長生きせずに死ぬことを想像する。そして死んだ後に、自分が悪趣のさまざまな状態にさまようことを想像する」。それによって「この世に対する執着の心を退けるべきである」と。

 はい、これは分かるよね。つまり、これはこの短い文の中に、例えばカルマの法則であるとか、あるいは輪廻の考えとか全部含まれてるわけだけど、われわれがその基本的な仏教の教えを学んで、で、しっかり日々懺悔をして、そして、「さあ、明日死んだらどうするか」っていうことを考えたら、やっぱりちょっとこう心が真剣になるよね。執着してる場合じゃないぞと。ちょっと待てよ、明日死んだらどうなるんだろうか。自分の過去の悪業を振り返り、あるいは自分の今の心のいろんな欠点を振り返ると、とても高い世界には行けないぞと。いや、これは地獄に落ちるかもしれない。動物かもしれない。餓鬼かもしれない。それを考えるんだね。自分ですらそうなんだから、こんな状態の自分が人を救えるわけがない。だから死――まあこれは死と無常の瞑想だけど、すべては無常であり、今日にでも明日にでも死ぬかもしれない。このようなことを考えることで、その短い間にこの世のいろんなものにとらわれてる意味があるんだろうか、という考えだね。

 つまりこれはいつも言うように、われわれは曖昧に自分の人生のリミットを想像してるから、まあこれくらいはいいかって思ってしまう。

 例えば、まあこのみなさんの中にはそんな変な悪いものに執着してる人はあんまりいないだろうけど、そうだな、まあ、じゃあ例えば、むかーしのね、大昔だよ、大昔のTさんみたいに、パチスロに執着してた場合ね(笑)。大昔ね。修行するずっと前だけど(笑)。で、仮にですよ、今も修行してて、ある修行者がパチスロにも執着していると。その場合ね。例えばパチスロやめられないと。パチスロってどういうやるんだっけ? これはパチンコか。こう、こう? いや、こう、こう、こう(笑)?。

(一同笑)

 Tさん、詳しいね(笑)。例えばこれをやってたとして。ああ、なんかパチスロやめられねえなと。こんなところ先生に見られたらどうしようとか思いながら(笑)、まあでもそんなに悪業積んでるわけじゃないし、ね、いいだろうと。

 でもさ、ああいうパチンコとかパチスロってさ、わたしももう相当昔にちょっとだけパチンコやったことあるけど、まあ相当昔だね、本当に十数年前とか。で、わたしやっぱり徳があったのか、もしくは魔の誘惑だったのか、昔ね、パチンコ初めてぐらいにやったときに、七万ぐらいかな、なんかすごい――まあビギナーズ・ラックだね。すごい出ちゃったことがあって。それから何回か通ったことがある。でもわたしはやっぱり無常観があったのか(笑)、あんまりはまらなかったんだね。何回か通ううちに、これマイナスだなって思って(笑)。トータル的にこれマイナスになるようにできてるなって思って、はまらなかったんだけど。でもそのはまってたっていうか、一日例えばパチンコでもパチスロにちょっと手を出すと、あっという間に時間が過ぎる。でも自分では、例えば「まあ、それくらいはいいか」と思ってる。でも例えば一時間、二時間、三時間、五時間、六時間と過ぎていく。

 で、まあそれはパチスロだけじゃないよね。例えばいろんなものにとらわれて、それで日々時間が過ぎる。そういう具体的な行動に出ない場合もありだよ。出ない場合もありっていうのは、例えば街中でおいしそうなケーキを見つけて、「どうしよう。買おうかな。やめようかな……」、ずーっと考えてる(笑)。

(一部笑)

 それで修行とかもできずにずーっと考えてて。で、夕方ごろになって、「先生、今日は朝からずーっとケーキのこと考えてましたが、なんとか食べずに乗り越えました」と。でもその七時間ぐらい何やってたのと(笑)。つまり、そのケーキへのとらわれで、貴重な七時間を無駄にしてしまった。

 まあちょっと話は飛ぶけど、そういうときは食っちゃった方がいいです(笑)。食っちゃって、後悔するかもしれないけど、でもあとの六時間有効に使えるじゃないですか。まあこれはちょっと話が別の話になってるけどね。

 仮に実際にそれをやらなかったとしても、その七時間の間ケーキにとらわれていることが、わたしの人生にとってどれだけのデメリットがあるかっていうのを考えるんだね。それはだからなんとなくわれわれが八十歳くらいまで生きる気がしてるから、八十歳の中の七時間とか、あるいは八十歳の二、三日パチスロに通いづめたって、あまりどうでもいいんじゃない?って思っちゃうけど、明日死ぬって思ったらやっぱりそうは思えない。

 あと二十四時間ですよと。七時間ケーキの妄想に使っちゃったと(笑)。七時間パチスロに使っちゃったと(笑)。あと十時間しかないと(笑)。こんな馬鹿な人はいないよね。明日死ぬんだったらもちろん、二十四時間を有効的に使うでしょう。

 寝る人もたぶんいないよね。リアルに考えてみて。明日、はい、二十四時間かっきりで死にますよって言われたら、とりあえず寝るかっていう人もいないよね(笑)。もったいないでしょ(笑)、だって。

 明日があるんだったら寝るよ。寝るっていうのはさ、例えばちょっと今日は疲れたと。明日の活力のために寝ようか。これは分かる。でも明日がないんだったらどうする? 二十四時間しかないって言われたら、もちろん寝ないよね。眠くても、もちろんもったいないと。がんばるぞと。そうなるはず、当然ね。

 で、これは比喩ではなくて、本当にわれわれには明日はないんです。ないっていうか、あるかどうか分からない。何の確信もない。だからこれは『虹の階梯』とかにも書いてあるけど、あるチベットの僧たちは、明日起きたときに生きてるか分からないと考えて、普通は、普通のお寺ではランプを消すんだけど、消さなかったっていうんだね。だって明日まで生きてるか分かんないから。あるいは、ある僧はいつも寝なかった。もうフラフラになりながら夜中も修行してて、先輩のお坊さんとかに、「いや、もうちょっとほどほどにしときなさい」と。つまりたぶん先輩面して言ったんだろうね。修行っていうのはそういうもんじゃないよと。もうちょっと自分の体調を見ながらほどほどにやった方がいいよと。でもその修行者が言うには、「いや、明日死んじゃうかもしれないっていうことを考えると、もうちょっとも休んでられないんです」と。

 その人はもう本当に真剣にそれを考えてたんだね。もう明日死ぬかもしれない。休んでる暇なんかないと。ああ、疲れた。ちょっと寝て明日修行がんばるか。でも明日が来るか分からないぞと。これくらいの気持ちっていうかな、そういう気持ちを奮い立たせるために、そういう瞑想をするんだね。

 前も言ったけど、わたしは昔一時間に一回そういう――一時間じゃないかな、四時間かな、三時間か忘れたけど――に一回、そういう瞑想すると。わたしはいつ死ぬんだろうか。明日死ぬかもしれない。こういうことを真剣に考えれば考えるほど、どうでもいいことに費やす時間なんて、もうもったいなくて手が出せなくなってくるんだね。もう執着なんかどうでもいいと。あそこのケーキが食べたい?――もう明日死ぬかもしれない。そんなこと考えてる場合じゃないと。いろんなことで執着が出るのは、それは心の甘さだと。自分の人生がまるで永遠に続くかのように思っているからだと。よってまずはこの死と無常の瞑想ね。これをやることによって執着を弱めなさいっていうところですね。

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