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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第二回(3)

 で、「信の力」ってここで書いてあるけども、つまりそのまだ――例えばですよ、「あ、何かここには真理があるのかな?」――これはまさに信の灯火が、ちょっと宿った状態です。で、これがまだ力にはなってないわけですね。これを力と呼べるくらいまでに、その炎をどんどん燃やさなきゃいけないんだね。
 これはまあ、いろんな方法があると思います。もちろん、一番ストレートなやり方は、バクティヨーガです。ただ、このバクティヨーガですと言っても――いつもよくわたし、新人の人に聞かれるんですが、「バクティヨーガってどうやるんですか?」とね。「どうやるんですか?」って言われても困るんだね(笑)。もうなんていうか、『バガヴァッド・ギーター』とか、『至高者の歌』とか読んでくださいと言うしかないっていうか(笑)、非常にとらえどころがないからね、バクティヨーガっていうのはね。でもまあ、もしバクティヨーガの道を進めるんだったら、一番それがいい。
 あるいはそうじゃなくて、もうちょっと回り道っていうか別の道になると、まあやはり教学ね。教えをしっかり学ぶと。で、論理的に――まずはちょっと違うんだけど、論理的なやり方として、論理的に教えをちゃんと納得して、そこから信じていくっていうやり方もあるね。これはちょっとストレートなやり方じゃないんだけど、外堀を埋めていくようなやり方です。論理的に「あ、これはこうこうこうだから、これは信じられる」と。あるいは自分の経験ね。一生懸命修行して、修行のさまざまな進歩、あるいは自分の性格が変わったとかね。あるいはいろんな自分の変化っていうものをしっかりと見逃さないで、それによって信を高めていくやり方もある。
 いろんなかたちでその信っていうのを、信の炎を高めていかなきゃいけない。それによって、それが確固たる力になるわけですね。確固たる力になると、それはものすごい力を発揮します。それはね、ちょっと今日のこの信の話っていうのはいつもとらえどころがなくて、話すのが難しいんですが、今話した中で、信っていうのは――ここでいう信っていうのは、「普通の信とは違いますよ」っていうことを今言ったよね。しかし、いいですか、普通の信も、もしそれが強烈な信だったならば、相当力があるんです。分かりますか? よく「イワシの頭も信心から」とかも言うけども(笑)。何かをわたしたちが強烈に信じたとき、それは相当なパワーを発揮するよね。例えば自分が何かをこう、乗り越えようとしたときに、周りが否定的なことを言っても「いや、わたしはできるよ」と。「絶対わたしは行くんだ」と。「まったくそれは問題ない」と。ね。もちろん、それは能力の限界っていうのはあるから、能力の限界以上のことはなかなか難しいかもしれないけども、少なくとも自分の能力の限界値、あるいはちょっとそれを超えるぐらいの力っていうのは、信によって出すことができる。
 逆に言うと、否定的な人っていうのは、まあ損しているわけだね。あの、ここで言う否定的な人っていうのは、二つタイプがあります。ひとつは、本当に否定的な人。つまり、本当に卑屈で、ちょっといつも自分を卑下してしまう。あるいは、いつも否定的な、マイナス的な思考をしてしまうタイプね。これはもちろん非常に損ですね。もうひとつは、本当はそんなこと思ってないんだけど、口にするタイプね、否定的なことをね。これはいわゆる仏教で言うと、阿修羅的な人に多い。大体阿修羅的な人っていうのは、ものすごく傲慢でプライドが高くて「おれはすげえ!」って思っているんだけど、口では否定的なことを言う(笑)。こういうタイプっていうのは、口に出したことによってまた自分の中のね、パワーがちょっと弱まる。だから否定的、もしくは自分を信じれないときっていうのは、自分のそのパワー、あるいは可能性っていうのはね、すごく弱まっちゃうんだね。だから、今のは一般的な話をしているんですが、一般的な話でも、信の力、つまり自分の確信ね、っていうのはすごいパワーを生むと。
 で、今日話しているのは、そのさらにそれよりも深い信ですね、さっきから言ってるね。それが本当の力になったときっていうのは、もう本当にものすごいパワーを生みます。もちろんそれは、いろんなことを成し遂げるパワーにもなるし、あるいはカルマによって何かが成し遂げられなかったとしても、それによって心が何か動揺したりはしない。あるいは、自分の菩薩道のね、道が何か揺れたりとか壊れたりはまったくしないと。それは信の力ね。
 今日言っている話っていうのは前回もそうだけど、とてもとらえどころがないので、皆さんもわたしがね、いろんな方便から言っている中からいろいろつかんでほしいと思うんですけども。
 なかなかね、現代ではこの――そうですね、ここにいるみんなっていうのは、いつも言うようにバクティヨーガ的なカルマが強い人が多いから、それはとても素晴らしいと思うんだけど、現代っていうのはやっぱりね、この信の力、信っていうものが育ちにくい時代なんですね。なぜかっていうと、われわれは小さいころから疑うことばかり教えられてきてるから。そういう教育をされてきている。つまり、そうじゃないと生きていけないっていうかな。
 ただまあ、まだ日本は良い方なのかもしれないよ。前ここによく来ていた中国人の人に聞いたら、まあ中国――その人は別に中国の貧民とかじゃなくて、まあエリートです、ある意味。エリート社会のお金持ちのおぼっちゃんなんだけど、それでもですよ、中国にいた学生時代とかは、一日も気が休まることがなかったって言うんだね(笑)。もう本当に周りにビクビクしながら生きるっていうか。学校とかでもね。っていうふうに言ってた。で、まあ「日本はすごく平和でいい」って言ってたんだけど。まあだから、相対的な問題で日本はまだいいのかもしれないけど、でもやっぱりいろんなかたちでね、周りを疑うこと――つまり、素直に、なんていうかな、自分を投げ出せないっていうかな。あるいは、相手を本当に心から信じるっていうことができないような教育っていうかね。それは例えばテレビとかもそうだし、友達とのいろんな、学校でのね、いろんなその、人間関係でもそうだけどね。
 前もわたし言ったけども、わたしの小さいころ――これは何回も同じ話をしているけども、本当に小さいころの思い出として――小さいっていうのはまあそうですね、二、三歳とか、そういうころっていうのは――もちろんこの中でもそういう人がいると思うけども、虫とかもすごく殺せなかったんだけど、すごく優しい子だったわけですね。で、いろんな執着とかはもちろんあったと思うんだけど、怒りとか嫌悪っていうのは極端に少なかったんですね。つまり人を怒るとか、あるいはそうですね、憎むとか、あるいは嫌な気持ちになるっていうのが非常に少なかったっていうか、ほとんどなかった。まあ、二、三歳じゃないな、もうちょっと上まで……四、五歳まであんまりなかったかもしれない。で、まあそういう感じだったんだね。で、それからもうちょっと歳が上がったころ、つまり幼稚園とか小学校に入りだしたころに、逆にね、その自分のちょっと前のころを振り返って「あれっ?」っていうのがいっぱいあったんです。つまり友達といっぱい接するうちに、まあある意味、いい言い方をすればですよ、いい言い方をすれば、わたしは社会を知るようになった。でも、これは別に決していいことじゃないんです。つまり、悪しき考え方を知るようになったんです。つまり「あっ、憎むってこういうことなんだな」と。「人に意地悪をするってこういうことなんだな」っていうのを自分が分かってきちゃって、で、過去を振り返って「あれっ、おれ、あのときいじめられてたのかな?」と(笑)。
 小さいころ、例えば何か――うちはおじいさんがね、ちょっと会社をやってたんで――昼間はおばあちゃんのうちに預けられてたんだけど。両親が共働きだったんで――で、そのよくそこの会社の従業員とかと遊ぶっていうかな、遊ばれるっていうか(笑)、ちょっとこうじゃれたりしてたわけだけど。自分はなんかみんなに愛されていると思っていた(笑)。愛されていると思ってて楽しかったわけだけど、数年後にいろんな情報が入ってきて、そのときのことを振り返ると、「あれっ、おれ、あのときあの従業員にひどいことをされてた」とか、「なんかちょっと実は嫌がられてたのかな?」とかね。「実はいじめられてたのかな?」っていうふうに、自分がそれに気付き始めたんですね。でも、それはある意味、わたしのけがれなんです。けがれっていうか、わたしがけがれたんです。けがれたから、そういうその、けがれた見方をするようになったんだね。
 これは皆さんにいつも言っているけども、皆さんが例えば、周りに対していろんな疑いが出るよね。疑いっていうのは、「こう思ってるんじゃないか?」とか、あるいは「こういうふうに自分のことを悪い思いで、ああいうふうに言ったんじゃないか?」とかね。それは分かると思うけど、全部自分の鏡です。つまり、自分の中にそういう発想があるから、あるいは自分が過去にそういうことをやったことがあるから、相手にもそういう疑いね、あるいはそういう投影した目で見てしまうんですね。これはだから、われわれがある段階からね、小さいころのある段階から、そういう経験や誤った経験、あるいは誤った情報を積み重ねてきて、そういう疑いの塊になってしまった。

 もちろん、ある意味それは、ある面から言うとですよ、必要とも言える。必要とも言えるっていうのは、本当に例えば人を疑えない人がいたら、当然その、だまされてしまうよね、今の社会だとね。例えばまあ、いつも同じような例えを言うけど、例えば街でMさんとかに「この美顔器、これであなたは本当にきれいになりますよ」と。「五十万するんですけど、本当に一瞬できれいになりますよ」と(笑)。「あなたがきれいにならないなんて、本当にわたしには耐えられない」とか言ってね。「ああ、そうですか」って言って五十万バーッと……これはただの無智だよね(笑)。
 だからこれね、いつもこういう話っていうのは皆さんに言うんだけども、この間のね、話……この間なんだっけ? 何の話したっけ(笑)。この間、何の勉強会だっけ?

(K)この一つ前はたしか、『ただ今日なすべきことを』……

 ただ今日なすべきことを? その前は?

(T)『クリシュナ物語』。

 ちょっと詳しい内容は忘れちゃったけど、前回か前々回かの話もちょっとあてはまる話なんだけども。われわれが例えばね、今回で言うと「疑っちゃいけない」っていうのは、精神的な話を言っているんです。心の問題を言ってるんですね。で、もうひとつわれわれは、頭を持ってるんだね。つまり、頭と心は別なんです。つまり、例えばよくここでも「計画するな」って皆さんに言うよね。「おもんばかりしちゃいけないよ」と。「計画は悪ですよ」と。計画によってわれわれは、心がどんどん神から離れていくと。しかしそれは、心の問題を言ってるんです。頭では計画しなきゃいけない。だって、一切計画しなかったら生きていけないよね。あるいは、仕事している人が「計画するな」って言われたら、仕事を効率的に進められない。だから計画は必要なんだけど、それはあくまでも頭――つまり頭っていうのは、これは心ではありませんよ。これはコンピューターの……まあコンピューターみたいなものですね。コンピューターの処理機能みたいなものであって。で、これはもちろん、なんていうか、使わなきゃいけない。さっきの美顔器の話でもそうだけどね。美顔器の……ピピピ―ッて、美顔器の話聞いたときに、ピピピピピ……「あっ、これはわたしはここで美顔器を買ってもしょうがない」と。ね。だってそこで五十万使ったって、「まあそんなきれいになるわけがないだろう」と、まずね(笑)。で、「仮にきれいになったとしても、それがなんなんだ」と。「その五十万を使って修行したりとか、お布施したりした方がわたしにとっても衆生のためにもいいことは分かっている」と。それは頭でしっかりと分析すると。これが頭の話。で、心の話っていうのは、例えば――例えばその美顔器を売りに来た人に対してね、「この人、本当にひどい奴だ」って思っちゃいけないってことです。「この人もまた神の化身である」と。例えばね。バクティヨーガ的に言うとね。あるいは、「この人も本当に仏陀の本性、つまり仏性を持ってるんだ」と。
 つまり、さっきこの話っていうのは「真理とか聖なるものに対する話ですよ」っていう言い方をしたけども、それを衆生、周りの人々に向けるならば、今言ったような――つまり、「みんな仏性を持っているんだ」と。あるいは、「みんな、真の悪人なんてどこにもいない」と。「みんな心の中に実は神の本性、仏陀の本性を持っているんだ」っていうことに信じるんですね。こういう意味の信なんです。だからこの信には「裏切られる」っていうことは一切ありません。
 例えば自分のね、友達のある人を信じてたとする。この人だって仏性があると。でも、その人が例えば、すごいひどい人で、自分に何度も裏切ったりとか、あるいは被害を及ぼしてたとしてもね、何されたってそれは関係ないんでしょ。だってわたしが信じているのは、あなたの表面的な心を信じているわけじゃないと。あなたの表面的な心のことは、わたしはもう頭で分析して、こいつ、嘘つくなって分かってる(笑)。ね。そんなことはどうでもいいんだと。というよりも、人間っていうのは嘘をつく。あるいは、人間っていうのは裏切るんです。わたしもよく、前いろんな人にそういう相談を受けたときに言ったけどね。言ったことが何回もある。例えば、「わたしは恋人にこういうふうに裏切られた」とか、「わたしはこういう人だと思ってたんだけど、こんなことをやるなんて本当にひどい」と。で、わたしよくそういう人に言ったのは、「人間ってもともとそうですよ」と。だって煩悩があるから。「煩悩があるから、人間は人をすぐ裏切るし、すぐ嘘をつくし、すぐ人の苦しみを分からずに、人を傷つける」と。「それが人間だ」と。で、しかし、その人間って言ってるそれは後付け――つまり彼らが……彼らっていうかみんなそうなんだけど。みんなが輪廻の中で、いろんな間違った人生を歩むことによって、自分に後付けしてしまった、間違った心の働きに過ぎないと。それを全部取ったならば、誰だってね、心の奥には素晴らしい――つまり、お釈迦様と同じような、仏陀と同じような本質が眠っているんですよと。だから、それを信じろっていうことですね。
 つまりここで信がなくなることがあり得ないっていうのは、例えば「いや、あの人は仏性ないだろう」とかね。こうなっちゃ駄目だよ(笑)。でも、これはあり得ないよね。つまり仏性っていうのは、最も奥に光り輝いてるものだから。その人が例えば、表面的にどんなひどいことをしようとも、それはあまり仏性とは関係がない。その人が持っている仏性であるとか、あるいは――まあ、また別の角度で言うならば、仏性があるっていうことは、さっきも言ったけど、完全な悪人はいないんです。誰だって、一つや二つはいい面があるわけですね。だからそこを信じてあげる。あ、この人は例えば――例えばですよ、仮にですよ、社会の大悪人であったとしてもですよ。本当に全世界から「あいつはもう、あいつ以上の悪人はいない」って言われるほどの悪人がいたとしてもですよ。でも、その人にだってどっかいいところはあるんです。どっか一つ二つ――まあ、実際は一つ二つじゃないけどね。たくさんの、われわれが見えないだけであって、いい部分はある。で、その部分は信じてあげる、認めてあげるんですね。
 はい、ちょっと話がかなり広がっちゃいましたが。ちょっといろんな角度から言ったけども、とにかくその、われわれの中に眠っている信の力っていうものをどんどん強めていって、それが十分な力となったときには、それは素晴らしいパワーを発揮するし、あるいは不動の心っていうのをね、われわれに与えてくれる。

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