「バクティ」第一回(5)
はい、じゃあ何か質問ある人いますか?
(A)【聞き取り不能】
まあ、それはね、みんなが引っ掛かるところだと思うんで、当然ケースバイケースですよね。その法事の内容にもよるしね。わたしはよく詳しくないけどさ、つまり重要な法事とかいろいろあるよね(笑)。あんまり重要でない法事とか(笑)。で、前から言っているけども、付き合いで法事に行く時には――もしね、別にそんな行かなくてもいいようなやつだったら、もちろん行かない方がいいです。これは何回か言っているけど、ヒンドゥー教でもそうなんだけど、特に仏教の方で戒めてることなんだね。つまりその、ちょっとストレートに言うと、死んだ霊を悼んではいけない、あるいは拝んではいけないというお釈迦様の教えがある。だからちょっとこう、なんていうかな、低級霊世界と繋がってしまう行為になるので、実際にはやんない方がいい。
で、そうじゃなくて二番目に、でも付き合いで行かなきゃいけない。この場合は行っていいです。この場合はいつも言うように、変容すればいい。変容っていうのは、つまり普通の人が――まあはっきり言うと、ありもしないね、ありもしないおじいちゃんがお盆になんか船に乗ってやってくるんだとか(笑)、いろんな――何だっけ? ちょっと忘れちゃったけど(笑)、なんかいろんなそういうのをイメージしてやると、これは低級霊に繋がります。で、そうじゃなくて、かたち上はお墓に行ってると。で、そこで何を願うかというと――これはいろんなやり方があっていいと思うけども、例えば、そこでご先祖様を願っていればいいよ。例えば「ああ、わたしと縁のあったご先祖様、おじいちゃん、おばあちゃん。あるいは曾じいさん、曾ばあさん」と。ね。「今どの世界にいるか分かりませんが、ぜひ真理と縁ができますように」と。
で、いつも言うようにさ、自分の先祖というのは――お釈迦様が「人が一人解脱すれば七代前まで徳が返る」と言っているわけだけど――つまりよく言われるような血縁の縁というのはあまりないんだけど、じゃなくて、もっと現実的なカルマ的な縁があるんだね。つまり「お父さんお母さんが育ててくれたから今わたしは修行ができている」と。もっと言えば、「そのお父さん、お母さんはおじいちゃん、おばあちゃんが育てた」と。こういう意味での恩があるんだね。恩というかカルマがある。これがもちろん遡るに従って弱くなるんだけど、お釈迦様は解脱すれば七代前まで返ると言っている。だから、もちろん解脱できれば最高ですけども――「わたしはあなた方の分までしっかり頑張りますから、頑張って修行しますから――そのわたしをお父さん、お母さんが生んで育てて、そのおかげで今わたしは修行できているわけだから、さらにその因を作ってくれたおじいさんや、おばあさんやそのさらに前のご先祖様にもこの徳が返りますように」と。ね。つまりほかの人が「ああ、お盆で帰って来た」とやっているのに、こっちは違う心でね、「どっかの世界に生まれているご先祖様方、しっかりと真理に巡り合って下さい」と。「そのためにわたしは頑張ります」と。このような祈りをするならば――みんなとは違うんです。みんなとは違う意味でお墓に行っているわけだけど(笑)、その墓参りの意味もあるということになるよね。その墓自体はあんまり関係ないんだけどね、実際には(笑)。その墓自体は関係ないんだけど、でもその墓参りの意味が非常にあるってことになる。
だからもう一回言うけど、行かないでいいんだったら行かないでいいけど、行かなきゃいけない場合は、どうせ行かなきゃいけないんだったらそういうふうに転化していったらいいですね。
で、次に、三番目に、今言ったみたいに例えばこの勉強会であるとか、あるいはいろんな例えば合宿であるとか、そういうのが重なる場合ね。これもケースバイケースになるんだけど、理想を言うとそういうときには当然修行とか勉強会を選んだ方がいいです。ただ、まあ実際にはなかなかいろいろな事情があるだろうから、あらゆる面においてそうしろとは言えないけどね。でも理想を言うと、こういうダルマとか聖なる真理とか至高者とのこういった学びの場や、あるいは修行の場の方を選んだ方が、皆さんのカルマにとっては素晴らしいカルマになります。
この素晴らしいカルマっていうのは――結局人間というの一瞬一瞬選択なんですね。一瞬一瞬、選択を繰り返しているわけで。で、日々の選択って小さな選択じゃないですか。小さな選択っていうのは、例えば、Y君が勉強会に行く前にね、「ちょっと腹が減った」と。腹が減ってラーメン屋に入りたくなってね、ラーメン屋入りたいけども、「でも入っちゃうと遅れる」と。「ラーメン屋とるか、勉強会とるか」と。「いや、やっぱり勉強会だろう」と。……これは当たり前ですよね。
(一同笑)
当たり前っていうか、もちろんそれも選択なんですよ(笑)。それも選択で、「ああ、やっぱりゆうすけくん、修行者だからラーメン屋よりも勉強会とりましたね」と。それはいいことですよ。いいことだけども、当たり前というか(笑)。でもそうじゃなくて、例えば――これ例えばですよ、例えばっていうのは別に強制するわけじゃないよ――親戚とかの手前上、「そりゃあ法事行かないとまずいだろう」――というのが一つあったとしてね。で、もう一つ勉強会がある。で、「勉強会に関してはまあいつも行ってるし」と(笑)。毎週やってるしと。いつも行ってるしという理由付けもある。だから「まあ、行かなくていいかもな」と。「だって勉強会一回休んだって別に怒られるわけじゃない。怒られるわけじゃないけども、でもこの法事を行かないと、ちょっと親戚や家族に気まずい」と。これを打ち破って、もし勉強会来たとしたならば――これは何度も言うけど、強制じゃないよ。強制じゃないけども――来たとしたならば、みなさんの中に強烈な真理へのベクトルっていうか、つまり「普通こっちに行くだろう」っていうのを蹴ってこっち来たとしたら、ものすごい――なんていうかな、勢いがつくんだね。エネルギー的な勢いっていうか。
これはだから何度も言うように、現実的にはみなさんが考えてください。でもセオリーとしてそういうものがあると考えたらいいね。
だから現代においては――っていうのはね、この昔のヒンドゥー教の時代と違い、現代はそんなにこの社会が真理に目覚めた人が多いわけじゃないので、なかなか現代で修行しようと思うと、周りの理解が得られない場合が非常に多いと思うんだね。で、それでケースバイケースと言っているのは、そこで何があってもそんなものは蹴って来た方がいい場合もあるんです。でもそうじゃなくて、長い目で見た場合に、ここでわざわざトラブルを起こさない方がいいなって場合があるかもしれないよね。それはいろんな本当に場合があると思うので、だからあらゆる場合において蹴って来いとは言えないけどね。だからそれは自分で考えたらいいと思うけども。でも原則としてはそうだっていうことだね。原則としては、何よりも真理との縁、あるいは真理に、あるいは神に愛が向かうことね。
まあ例えばさ――ちょっとわたしさっきから強制じゃないよと言いながら、なんか強制みたいなことばっかり言っているけど(笑)。例えばだけど、例えばじゃあ法事と勉強会で天秤にかけてね、「勉強会いつでも行けるから法事にしよう」といった場合に、もう勉強会ないかもしれない、いきなりね。いきなりなんか「カイラス終わりました」って(笑)。「この間のが最後でした」ってなるかもしれない。あるいは今度逆に天野さん自身が――不吉なこと言えば、死ぬかもしれないよ。法事に行く途中で死んじゃったと。何だったんだっていうね(笑)。つまり自分がなんとなく思い描いていた、「ここで行っておいた方が……」っていう曖昧な未来の安定をとったがために――本当はここで終わる人生だった場合ね――最後の真理との結びつきをとれなかったということになってしまう。
だからこれは――なんかちょっとまるで「強制じゃないよ」と言いながら追い込んでいる人みたいだけど(笑)。そういう人っているよね(笑)。「強制じゃない」と言いながらなんか――よく先生とかお父さん、お母さんとかそういう人いるよね。「強制じゃないけど」とか言って(笑)。そうせざるを得なくなるという(笑)。でも本当にこれは強制じゃありません(笑)。強制じゃなくて考え方の問題で言ってるんでね。常にお任せして、真理との縁を取ると。
ただ、もう一回言うよ、さっきから強制じゃないと言ってるのは、例えばわたしに相談してもらった場合、「ああ、それは行っといた方がいいね」っていう場合があるんです、実際に。すべての面において蹴ればいいってもんじゃないから。それはだから強制じゃないっていうのは頭に入れておいてください。その上で心の面で投げ出して、常に一〇〇%真理をとるような心を持ってたらいいね。みんなはもちろんベーシックにはそういうのあると思うんですけどね。だから現実的な面でたしかに「こういう場合はどうしたらいいかな?」っていうのはいろいろあると思うんで、まあ分かんなくなったらわたしに聞いてもらってもいいし。
今朝も何か面白い――Aさんから――ちょっとバラしちゃうけど(笑)。Aさんからメールが来て、自宅の祭壇にね、わたしの写真を修行中飾っていて、で、それをしまうのを忘れて家を出て来ちゃったと。で、途中で――まあその旦那さんがいるのでね――「途中でしまいに戻っても良かったんだけど戻らないで来ちゃったので、旦那さんに見つかって離婚するかもしれません(笑)」って書いてあって(笑)。
(一同笑)
まあ、でもね、これくらいの軽い感じの方がいいですね。もちろんその、わざとそういうことをする必要ないけども、でも例えば師に帰依をしてね、写真を飾って修行してましたと。で、もちろんそれはだんなさんの気持ちも考えて――あるいは理解がまだない場合ね、それは修行が終わったら全部片付ければいいんだけども――でも忘れちゃいましたと。で、忘れて勉強会に向かっているから、戻ったら勉強会遅刻するかもしれないと。まあ、だからそれを全部加味した上でね、「ああ、じゃあお任せしよう」という気持ちがあって、で、そこでこうなったらちょっと気まずいとか、あるいはそうなったら離婚にもしなってしまったら大変であるとか、そういうのもちょっと全部捨てて、まあ今みたいに軽い感じでね、「ああ、離婚しちゃうかもしれません(笑)」くらいのね、軽い感じで(笑)――っていう気持ちをベーシックに置いていたらいい。何に対してもね。
いつも言ってるけどさ、ここで放棄って書いてありましたけども、修行者、特にバクティの修行者がベーシックに持たなきゃいけない気持ちは結局ね、ヴィヴェーカーナンダもよくそういうこと言っているけども――ちょっと誤解を恐れずに言えば、この世の物事なんて、ほとんどどうでもいいんです。どうでもいいっていうのは、ヴィヴェーカーナンダは「全部劇だ」と。あるいは「お遊びだ」と。「だからそこで深刻になる必要はない」と。「お遊びだということを忘れて深刻になったときだけ、人は苦しみに巻き込まれる」ってヴィヴェーカーナンダは言っているんだね。だからそういう意味では――つまりこれがさっき言った、考えるべきことは二つだけって言ってるやつね。それが神への愛につながるならば良し、神への愛を遠ざけるならば悪しと。これだけが唯一深刻な問題なんです。これは深刻です。もし何かがあって、自分の心が神の愛から離れているとしたら、これは一大事です。これは一大事なので、全精力を傾けてその障害を取り除かなきゃいけない。でもほかは言ってみればどうでもいい。どうでもいいけども、われわれはそのリーラーの中で一応は頑張っているわけです。例えば今の例でいったら、一応はもちろん家庭円満の方がいいから、一応はだんなさんにも気を使っていろいろやっているわけですけども、でもこれはこだわっているわけじゃないよ。こだわっているわけじゃないっていうのは、一応リーラーとしてそういうことはやってるけども、もし神の愛によって離婚しなきゃいけなくなるとしたら、「まあ、いっか」と(笑)。つまり「ああ、それは神の愛だから素晴らしい」となるわけですけども、その背景っていうかそのおおもとには結局どうでもいいっていう気持ちがあるんだね。それは本質ではないから。つまりこの舞台に過ぎないんですね。わたしが神の愛を実現するこの人生において、こういう状況が今あったけども、この状況が――まあ人間ってさ、状況が変化することを嫌がるところがあるから――こういうふうに変化したとか、あるいは自分の観念において悪いような状況になってきたような気がするとか、そういうのも全部どうでもいいんだね(笑)。それは全然本質ではないというか、それは舞台に過ぎないというかな。
だからそのような軽い気持ち、投げ出した気持ちで――で、もう一回言うけども――じゃ何が大事なんだ? それは――だから逆に言うと、神への愛につながるものは良し、邪魔なものは悪し、どっちでもないものはどうでもいい、ということだね。どちらでもないものはどうでもいい。だからどちらでもないものに関してはもちろん――もちろんわれわれはダルマを学んでいるので――これがだから「願い」の歌にある「だたあなたの教えを指針として生きます」と。だからダルマを指針として、ある意味誤解を恐れずに言えばロボットのように、ダルマによって動くロボットのように生きればいいだけであってね。一切自分の観念にとらわれないっていうことですね。
で、ちょっと話をグーッともとに戻すけども――現実的にはケースバイケースなわけですけども、自分の心持ちとしてはね、常に二択があったら神への愛につながる方を取ると。邪魔になる方は捨てると。この修習を繰り返すといいね。その修習の繰り返しが皆さんの習性になるので、よりその神への愛をとりやすくなります。
で、輪廻からいうならば死後もそれは役に立ちます。死後っていうのはさ――皆さん何度も言っているど、バルドというのは選択ですから。選択っていうのは、これは『チベット死者の書』とか見たら分かるけども――つまりその、悪しき煩悩のエネルギーと神の世界のエネルギー両方来るんだね。「どっちとりますか?」っていう話になってくる。で、ほとんどの場合煩悩とっちゃうんだね。つまりわーって神の光も来るんだけど、なんか美味しそうな食べ物とか、あるいは性欲のヴィジョンとか、あるいは逆に自分の憎かった人のヴィジョンとかいろいろ出てきて、で、潜在意識の世界だから頭では歯止めが利かなくて、もう心から、もう無意識にとっちゃうんだね。無意識に神よりも心のけがれの方にバーって突っ込んでっちゃう。でも、もう一回言うけども、生きているうちに観念よりも神、けがれよりも神、これを取ることを続けてたら、さっきから言っているように、心のベクトルがそっちを常に取るような習性が身に付くんです。これはきつい程いいんだね。きつい程いいというのは、取りにくいほど練習になるからね。だからそういう意味で言ったら、あらゆることに関して、神に近づく方を取んなきゃいけないわけだけど。
――まとめると、実際にはケースバイケースのことが多いので、分かんなくなったらわたしに聞いてもいいし、教えをもとにね、いろいろ思索して考えたらいいと思います。
-
前の記事
「バクティ」第一回(4) -
次の記事
「バクティ」第一回(6)