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「バクティ」第一回(6)

(T)主を取ることによって誰かが寂しがったり――クロズ(ペットの名前)なんですけど(笑)。寂しがったりするのに罪悪感があって悪いなあと思いながら、ずっとそのまま家を空けたりしているんですけど、そういうふうに誰かが寂しがるとか、誰かが悲しい思いをしているとかのときはどうなるんですか?

 まあ、まず第一にクロズの場合ね、そのペットの場合は、本当に寂しがっているかっていう問題がある。もちろん分からない。寂しがってるかもしれないよ。まあまず寂しがってるかっていう問題がまずあるけど。
 で、もう一つ。次に本当に寂しがっていたとしてね、そうだな、いろんな観点から言えるんですけど、つまりこれもね、二択の問題なんだけど、自分が勉強会に行くことでペットが寂しいっていうこの二択がありますよね。これはもちろん勉強会の方を取んなきゃいけないんだけど。次に自分が飼っている、例えば動物のことを考えた場合、これもね、常に二択なんです。これはちょっと話が若干アレンジされるけども――つまりバクティというよりは菩薩行になりますけども――バクティの観点から言うならば、「常に神の意思を取る」ということになるんだけど、菩薩行にそれをちょっとアレンジすると、「わたしがこの動物であろうが人間であろうが、この生命体と関わる理由は、相手を引き上げるだけだ」――これだけなんです。相手を引き上げるだけだっていう観点から言うならば、わたしが何をすればこの子は引き上がり、何をすれば引き下がるか――これだけでいいんです。例えばこの勉強会で言うならば、もしですよ、大楽さんが「クロズ寂しいから」って勉強会行かなかったとしたら、クロズの悪業になります。つまり引き下げることになる。つまり表面的には「わたしはクロズを愛している」とやりながら、クロズは違うことを考えています。「こいつ引き下げやがった」と(笑)。あの、魂はね(笑)。表面的にはクロズも「ああ、行かなくてぼくのために戻ってきてくれてありがとう」って言うかもしれないけど、魂は違うことを考えてる。「こいつやりやがった」と(笑)。「こいつ無智だから。、かわいいとか言いながら、おれを引き下げることばっかやってる」と(笑)。本当にこういうことなんです。だからそれは引き下げることになる。だからそれは涙をのんでっていうか、これがクロズのためなんだと思わなきゃいけない。
 あるいはね、もうひとつ言うと、例えばそこでね、寂しいっていうけどもさ、もちろんそれは一方的なものかもしれないし、あるいはもちろん相思相愛かもしれないよ。お互いに「ああ、クロズちゃん」と。「ああ……」――クロズはどう言うか分かんないけど(笑)――「ご主人様!」みたいな感じで愛し合ってるかもしんないけども、でもそれはさ――ちょっと厳しく言えばね、執着ですよね。ということは――Tさんは修行者だから、修行者の場合ちょっと変わってくるんだけど、でも一般論として言ったら、寂しいことを心配して、寂しがらせないように愛情を与えるっていうのは、相手の執着を増してるだけなんだね。
 だからちょっとこう言うと冷たく聞こえるかもしれないけども、子供に対してもそうなんですけども――もちろん子供に愛をもって接するのは大事なんだけど、あんまりね、執着させるようなことは本当はよくないです、本当は。相手の苦しみを増やすだけだから。人間っていうのは、なんかその執着の喜びと苦しみを喜ぶところがあるからね。執着して、その執着した相手が死んでしまった! っていうのをなんかこう喜んでる、自分でね(笑)。だってそんな悲しむんだったら最初から執着するなって感じなんだけど。でも人間界ってそういう世界だから、それを良しとする気持ちがあって。で、これもちょっと冷たい感じになっちゃうけども――逆にTさん側にも、つまり当然愛情要求があると思うんだね。つまり、クロズに好かれたいと。好かれたいっていうのは、例えばTさんがクロズにあまり接さなくなったら、クロズはあんまり大楽さんに執着がなくなるかもしんない。つまり、大楽さんいなくてもあんまり寂しくない子になるかもしれない。そうなると寂しいでしょ(笑)? 飼主側としては。これが、なんていうかな、自分勝手な愛なんです。つまり、これは人間の恋愛とか親子の愛情でもいえることだけどね。単純に自分を満たしているに過ぎないというか、自分が愛してほしいだけにすぎない愛っていうのもあるわけだね。だからそういうのは捨てると。じゃなくて、自分のエゴはスパッと捨てて、あるいは自分の観念も捨てて、この眼の前の魂に自分が縁があって接せれるわけだから、「何をするのが最高なのか?」と。で、今言ったように自分が勉強会に行くのは当たり前であってね。で、それをクロズに邪魔させたらクロズの悪業になるから、だから決してクロズのために行かないなんてことはしないと。
 で、さっき、修行者の場合はちょっと違うよと言ったのは――ちょっと話がまた変わるけどね、修行者の場合は、クロズがもちろんTさんに執着しててもオッケーです。なぜかっていうと、その分、心の結びつきが強まってね、Tさんが修行すればするほど――縁があるからね、クロズにも影響がいくからね。まああるいは、クロズがもしTさんを思いながら死んだとしたら、Tさんがもし来世も修行者になったら、クロズも一緒にきて修行者になるかもしれない。まあまた犬かもしれないけどね(笑)。何になるか分からないけども(笑)――一緒の世界に引っ張られるかもしれないから。だから修行者の場合は何ていうかな、ちょっと若干いろんなアレンジが加わるわけですけども――でも基本的には執着はないほうがいいわけだから、だから相手の寂しさを考慮に入れる必要はあまりないね。
 ただこれもケースバイケースですよ。犬はちょっと別として(笑)。人間の場合、例えばすごく心が屈折している人がいる場合ね、この場合は一時的に表面的な愛情も与えてあげなきゃいけない場合もあるよね。だからあらゆる場合において執着を絶てとは言わないよ(笑)。すごく心が屈折している子供がいて、「執着は苦だから」とか言ってお母さんがすべての愛着を断ってしまったらね、より屈折して真理から外れていってしまうかもしれない。だから一時的には愛情を与えなきゃいけない場合もある。でも例えば――まあそうだな、例えばS君みたいにね、「もう修行だ、クリシュナだ!」とか言っている子に関しては、もう別に親の愛情いらない(笑)。こういうこと言うとMさんが怒っちゃうかもしれないけど(笑)。余計な執着は別にもう持たせる必要はないと。ただ――親としてはですよ――これは例えばの話だけどね――「S君が、もうクリシュナで頭がいっぱいになるようにしてあげたい」と。で、例えばの例だけど――もしお母さんがそこでS君に接しすぎたら、S君がちょっと愛情がお母さんに移っちゃうという危険性があるとしたら、お母さんとしては接しすぎないということを考える。それが愛だと。ね。これは例だけどね(笑)。でもそういうことなんだね。だから自分の今生の観念を全部捨てて――だからこれは教えが必要ですけどね。教えと智慧が必要だけど――教えと智慧と愛をもって、それが動物であろうが人間であろうが――どうするのがこの、縁があったこの人にとって一番、この人を引き上げることになるのか。あるいは逆にどうすると引き下げることになってしまうのか。これを考えて接するっていうことだね。だからそれは完全にケースバイケースだけども、今言ったその寂しがらせるとかね、それは全く考える必要がない。今のケースにおいてはね。

(T)罪悪感……

 罪悪感? だから今の教えが入ってれば罪悪感ないでしょ? 教えが入っていば逆に喜びに変わる。だから罪悪感はその情の部分だから。自分のね。それは間違いなんだって考えて。今のケースはですよ。今のケースに関しては逆に――あの、だからちょっとね、なんていうかな、もうちょっと高度な智慧と高度な愛を持つと、罪悪感も消えます。例えばどうなるかっていうと、例えば「じゃあね、クロズ」とやって、「クーンクーン」とかこう寂しそうになっていたとしたら、喜びが湧いてきます。「おお、こいつ寂しがってる」と(笑)。ね(笑)。つまりこれによって――「わたしを勉強会に送り出した。送り出し、かつ自分は寂しがっているっていうこれによって、クロズの魂はどんどん浄化されるだろう」と。だってもし自分以外の飼い主だったら――自分以外の飼い主でも寂しがるかもしれないけど、何の利益もない寂しさですよね、それはね。でも「ああ、クロズ。今生わたしの元に生まれてきてよかったね」と。「ここでわたしはただ真理だけを求めて生きます」と。「それによって、あなたが寂しいことがあるとしたら、それはあなたの最高の利益だ」と。で、「それによってわたしの修行を助けてくれることになるし、逆にそこで悲しむことによって真理の手助けをした」――これは消極的にですけどね――消極的に、ご主人さまの修行の手助けをして自分は悲しむという、最高のシチュエーションが展開されてると。で、これをなんかこう、ウーッて感じで思うんじゃなくて、喜びになるんです。「良かったなあ、クロズ」と。クロズは「クーンクーン」とか言っているんだけど(笑)。こっちとしては笑いがこみあげてくる。「やったなクロズ」と。「なに泣いてんだ、お前」と(笑)。「それ最高なんだよ」と(笑)。「もうバカだなお前、泣いて」ってね。(笑)。「おまえの魂は本当はそれを望んでるんだ」と。「良かったね」って感じで――もう一回言うけども、センチメンタルにならないんですよ。途中段階ではセンチメンタルなときもあるかもしれないけど、それを乗り越えるとセンチメンタルも消えます。喜びだけになります。「ああ、良かったな」と。
 だいたい密教とか、あるいはいろんな話で出てくる聖者っていうのも、当然弟子の成長だけを願って、表面的にはちょっと苦しみを与えたりするわけですよね。で、それはもう心からそれが分かっているんだね、それが相手の幸福っていうか相手の進化につながるっていうのが分かっているから、だから何もそこには迷いがないっていうか。
 もう一回言うけども、それだけが自分と相手の縁を肯定するただ一つの方法なんです。もしそれをしなかったならば、はっきり言うとわたしから言わせると、「なにペット飼ってんの?」ってなってしまう、例えばね(笑)。つまり全くそれは――「え、ペットのおかげで勉強会来れない?」あるいは、「え、勉強会来れないし、しかも執着が増すし、あるいはいつも一緒に寝てたりしたらエネルギー的にもどうかと思うし(笑)。それ何なの?」ってなるけども、でも今言ったような愛をクロズに向けるとしたならば、この縁が全肯定されるわけだね。だからそのためにこの縁はあったと。お互いに修行進むねと。良かったねと。だからそういう意味でクロズを――まあ別の言い方すればクロズも法友と見てあげたらいい。法友であって、あるいは救済の相手であってね。――って見れば、今言ったようなね、そのセンチメンタル的なのも越えられると。いいですか? 

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