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解説・入菩提行論(16)「汚れのない家系」

【本文】

 よるべなき者のよるべ、旅行者の隊長と私はなりたい。彼岸にわたろうと願う人々の船、堤防、橋となりたい。

 すべての生類に対して、灯火を求める者のためには灯火となり、寝台を求める者のためには寝台となり、召使を求める者のためには召使となりたい。

 衆生のために、如意珠、幸福の水瓶、成就のマントラ、大いなる医薬、如意樹、如意牛と私はなりたい。

 あたかも全空間に住する無量の衆生に、地・水・火・風の元素が、様々に役立つように、--一切が(輪廻の苦から解放されて)静安とならない間は、空間に住するすべての衆生が私を享受しうるようになりたい。

 往昔のスガタが菩提心を受持したように、そして菩薩の実践規律を定めの通りに遵守したように、そのように、世界の善福のために、私は菩提心を起こそう。そしてそのように、順序に従って、実践規律を実践しよう。

 かように賢者は、清らかな喜びに満ちた心で菩提心を発して、さらに後に続く心を養い育てるために、次のように喜びの心を起こすべきである。

--「今日、私の生は実を結び、人間としての存在は、得られがいのあるものとなった。今日、私はブッダの家に生まれ、今や私はブッダの子である」と。

 そこで今や、己の家柄にふさわしい行いをなす人たちのなす業を、私はしなければならぬ。汚れのないこの家に、汚点が生じないように。

【解説】

 この部分はまず前からの続きで、シャーンティデーヴァの心から生じる慈悲の思いの表現が続いていますね。

 ところでこの辺の表現のみならず、この入菩提行論全体を通じてもいえることですが、ナーガールジュナ(龍樹)のラトナーヴァリーなどに見られる菩薩の心の表現が、そのベースになっているように思いますね。たとえば、ラトナーヴァリーにはこうあります。

「地・水・火・風・薬草及び樹木を用いるように、常に衆生がすべて欲するままに妨げなく(我を)用いる者となりますように。」

これと入菩提行論の

「あたかも全空間に住する無量の衆生に、地・水・火・風の元素が、様々に役立つように、--一切が(輪廻の苦から解放されて)静安とならない間は、空間に住するすべての衆生が私を享受しうるようになりたい。」

は、ほとんど同じ表現ですね。

 地・水・火・風というのは、この世の一切を構成する元素です。ここに空を加えて五大元素とすることもあります。すべての衆生は、これらの元素で作られているこの世の様々なものを使って生きていたり、喜びを味わったりしているわけですが、私という存在も同様に、皆、好きなように使ってくれと、私の体や存在を使って、みんなが幸せになるなら、好きなように何なりと使ってくれと--前の部分からつながる祈りを続けているわけですね。

 そして、今、ブッダとなっている方々も、その昔、まず菩提心を起こし、そして菩薩の修行を順々に修めていって、ブッダとなったわけですが、この私も同様に、今こそ菩提心を起こし、菩薩の実践規律を順々に修めていこうという、強い発願がここで為されています。

 さあ、いよいよ我々は、菩提心を起こすことができました。それはつまり、「私は衆生を救うために仏陀となろう」という決意であり誓いです。
 エゴのために生きるのではなく、なんとなくぼーっとして生きるのではなく、菩提心という最高の誓いを心に起こすことができたのです。これによってついに、自分の人生は、意味のあるものと相成ったのです。その喜びの心が感じられます。
 
 --そして菩提心を起こして菩薩となったということは、菩薩は「仏陀の子」と呼ばれますので、昨日までとは違い、今日から私は、「仏陀の家」に属する「ブッダの子」として生まれ変わったのです。
 ブッダの家系の一員に、末席といえども名を連ねたということは、大いなる責任が生じたということでもあります。この汚れのない仏陀の家系に、汚点が生じるようなことは、これから二度とできません。気をつけて、このブッダの家系にふさわしい者としての行いをしなければならないのです。そのように自己を鼓舞するのです。

  
【本文】

 あたかも塵芥の堆積の中から、盲人が宝石を得ることがあるように、この菩提心は、偶然に私に出現した。

 これは世界の死をなくするために現われた霊薬であり、世界の貧困を除くための不滅の財宝である。

 世界の病を癒すための最上の薬であり、迷いの存在の道程(輪廻)にさまよい疲れし衆生の休らう大樹である。

 難路を超えるためのすべての旅行者に共通の堤防であり、世界の煩悩の熱を冷やすために昇れる心の月である。

 世界の無智の暗黒を払う偉大なる太陽であり、正法の牛乳を攪拌して生じた新鮮なバターである。

 安楽を受けようと渇望して、迷いの存在の道程をさすらえる衆生の隊商に、この安楽の饗宴はもうけられた。すべてこれに近づく衆生は、満足を得よう。

 今や私は、世の人々を安楽の饗宴に招待している間に、彼らをスガタ(ブッダ)の状態にいざなう。
 実にすべての救済者の面前で、神々と阿修羅等は歓喜せよ。

【解説】

 この最初の部分は、シャーンティデーヴァが謙虚な心を表現していますね。自分は菩薩とは程遠い、徳のない者なのだけれど、まるで偶然のように、菩提心が自分に出現したんだ、と言っているわけですね。

 「世界の死をなくす」というのはつまり、すべての衆生を解脱させるということですね。解脱しない限り、死んでまた生まれ変わり、また死にます。この循環は解脱しない限り終わることがありません。
 「徳がない状態」という貧困をなくし、煩悩という衆生の病を治し、輪廻にさまよう衆生に安らぎを与え、輪廻や修行の難路を越える手助けをし、世界の無智の暗黒を払う!
 --このような菩提心は、正法の牛乳を攪拌して生じた新鮮なバターだといいます。つまりお釈迦様がお説きになった正法は、様々な表現で様々な角度から説かれたわけですが、それらを攪拌して現われた新鮮なエッセンス、それが菩提心だというわけです。菩提心こそはすべての真理のエッセンスなのです。

 そしてこれらの菩提心の与える喜び・安楽が、宴のご馳走にたとえられています。
 多くの衆生は、幸福を求めているのにもかかわらず、逆に苦しみの迷いの輪廻の中をさまよっています。菩薩は彼らをこの菩提心の宴に招待し、単に彼らを喜ばせるだけではなく、彼らが安楽を受けている間に、彼らをブッダの状態にまでいざなおうと。
 --このような壮大な決意と確信と喜びの表現で、この第三章は締めくくられています。

 しかし全く、この入菩提行論には、本来は解説はいりませんね。この本文の美しさには、どんな解説も蛇足となってしまう気がします。
 しかし中には少しは、解説によって理解が深まる方もいるかもしれませんので、解説を書かせていただいています。本文で十分意味が理解できる方は、解説は読まないようにしてください。
 

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