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解説「菩薩の生き方」第三十二回(2)

【本文】

 正法に奉仕すべき身を、他のために苦しめるなかれ。かくして、まさに衆生の望みを速やかに満たせよ。

 同じ理由で、慈悲の決意がまだ不純の状態にある者のためには、むざむざ生命を捨てるなかれ。しかし、その決意が彼と等しい者のためには、生命を捨てよ。かくすれば、何も失われない。

【解説】

 私たちの肉体、人生、時間、これは正法に奉仕することに、一〇〇%使われるべきだということです。つまり正法に奉仕するとは、衆生の真の幸福のために奉仕するということと同じです。もちろんそれは具体的には、自己の修行を進めることであったり、実際に衆生に真理を伝えることであったり、いろいろするわけですが、そのために使うべき身体や時間を、煩悩のためとか、あるいは煩悩ではなくても正法とは関係のないことのために使うなということですね。
 もちろんこれは、現代的にいうと、社会で働くなというわけではありません。現代の私たちは社会で働かないと生きていけず、自分の修行も他者の救済もできません。だからすべては正法への奉仕と考えて仕事に励むなら、仕事そのものを修行にすることができるでしょう。
 まあしかしこういうことは、まだ「自分は菩薩の道を歩こう」と決意した人以外には、関係のないことです。普通はもちろん、好きなように、自分が良いと思うように生きていいと思います。たとえば自分に何か一般的な夢があるなら、その夢をかなえるために努力するのもいいでしょう。そしてその中で好きなだけ、できるだけ、教えの実践をしていけばいいでしょう。しかしもし菩薩の道を歩こうと真剣に決意したなら、あらゆる時間を正法への奉仕に関することのみに使えということですね。

 そしてさらに次の部分は、考えさせられる部分です。これはつまり「他人のために命を捨てるべきか」ということですね。たとえば極端な例を挙げれば、「俺は借金があるので、君に保険金をかけて死んでもらってもいいかい?」と頼まれて、「わかりました。あなたがそれで幸福ならそうしましょう」と言って死んでも、それは誰のためにもならないからやめなさいということですね。
 しかしお釈迦様の過去世物語(ジャータカ)などを見ると、過去世のお釈迦様は、たとえ真理と関係ない願いでも、衆生の要望を満たそうとして我が身を捨てたりしている場面が見られます。まあジャータカが本当にお釈迦様の教えかどうかという問題もありますが、そのように、状況に関わらず衆生に奉仕するというのも真理といえるかもしれません。
 しかしこの辺は前回の話と通じることで、そのような衆生の要望を満たしたとして、本当に衆生のためになるのかという問題がありますね。
 たとえば無智な外道が現われて、お釈迦様に「あなたは私たちにとって邪魔だから死んでください」などと言ったとしたら、お釈迦様は死んだでしょうか? もちろん、死ななかったでしょう。お釈迦様は外道も含めた多くの衆生の無智を破壊し、真理の道へ導きいれるという強い使命のもとに行動した人だったからです。
 だから、優しいだけの無智な菩薩では駄目なのです。智慧の目と、確固たる菩薩の意志を持って、自分のなすべきことを吟味しなくてはなりません。
しかし仮に、本当に慈悲に満ちた菩薩のために、自分の命を捨てるチャンスが来たならば、喜んで捨てるべきです。

 はい。まず、「正法に奉仕すべき身を、他のために苦しめるなかれ。かくして、まさに衆生の望みを速やかに満たすべきである」と。
 はい。この解説はもちろん、昔ね、最初ブログとかに書いたやつなので、当然、一般のっていうかな、つまり普通の、修行をそんなにしてないとか、全くしてないとか、そういう人も読むのを前提として書いてるものですから。これはあくまでも菩薩、特にまあ、世を捨てて菩薩道を歩くっていう人向けの教えなんだね。だから一般的にはもちろん、例えばここに書いてあるように、「いやあ、正法に奉仕するためだけにしか人生使ってはいけないんですか?」と。「わたしにはこういう夢があるんです」と。いや、それはいいですよと。うん。あるいはもちろん、まだそんなに真剣に修行してない人はもちろん、自分のエゴのために、欲望のために人生を使っても、それはその人の自由だと。で、そのような人が、少しでもですよ、人生の一パーセントでも十パーセントでも、菩薩道とかバクタの修行に入れたら、それは素晴らしいよね。その人にいきなり、別に百パーセントそれだけじゃないと駄目だとは言わない。今まで自分のためだけに生きてた人が、少し菩薩道とか、神の道のために生きたいって思いだしたら、それは十パーセントだろうが五パーセントだろうが素晴らしいから。それは素晴らしいと。
 でも、わたしは菩薩であると。あるいは、バクタであると。そのような覚悟っていうかな、その道を歩こうって思った人は、理想ですけども、それ以外に人生を使うなと。
 さっきも言ったように昨日でカイラス十六周年になりましたけど。十六周年っていってももちろん、わたしがカイラス始めて、そうですね、一年ぐらいは生徒もほとんどいないような感じで、それから徐々に増えていったっていう感じですけども。カイラスはもちろん皆さんご存じのように、いわゆる一般的なビジネス的なヴィジョンや、あるいはビジネス的な展開等は一切していない。よくそういうメールが来ますけどね。「あなたのビジネスモデルにこういうのどうでしょうか?」みたいに来るけど(笑)、そういうのは一切していないと。それよりもできるだけ、真剣に法を求める人たちが増えたらいいなと。そういう感じですよね。
 もちろんそうじゃなくてビジネス的なヨーガ教室とかいっぱいあるわけだけど、それはそれで別に悪いとは思わないよ。それはそれで、いつも言うように、裾野が広がるっていうかな。ビジネスとしてヨーガ教室を――というかほとんどはそうでしょうけども――やって、それで裾野が広がって多くの人がヨーガにちょっとでも足を踏み入れると。で、そこからカイラスに来るかもしれないからね(笑)。それはいいんですけども。でもカイラスはそうじゃなくて――もちろん普通に、普通のアーサナ中心のヨーガ教室としてカイラスに来てる人たちもいますけども。でも割合としては、かなり多くの人っていうか、パーセンテージでいったらかなりの人が、それぞれのレベルにおいて真剣に修行してると。これはとても素晴らしいことだね。で、それで十六年っていうのはとても素晴らしいと思う。うん。つまり、ビジネス的に、あるいは浅く広く十六年じゃなくてね、これだけの真剣な人たちが修行し、まあ十六年続いてると。もちろんこれからさらにね、何十年も続けばそれは素晴らしいと思うけど、この中身の濃さでこれだけ続いてるっていうのはとても素晴らしいことだと思うね。
 はい。だから、ちょっと話戻すけども、それぞれの今の段階の心持ちっていうかな、志でいいんですけども――繰り返すけども、「さあ、わたしは真剣に菩薩の道を行こう」と。まあバクタでもいいけども。「バクタの道を行こう」と。そのように思ったならば、そのためだけに人生を使えと。それ以外のことに使うなと。
 ちょっとずれるかもしれないけど、例えばチャイタニヤの話で、チャイタニヤのある弟子が、すごい苦しいっていうか、痛みを伴う皮膚病かなんかにかかっちゃって、もうあまりにも苦しいと。だから自殺しようとしたんですね。もう苦しみに耐えられなくて。で、そのためにあのプリーの、いわゆるジャガンナートの山車が行なわれるわけだけど。山車。山車っていうのはつまり巨大な山車だから、巨大な車輪に重い山車が乗ってジャガンナートが乗ってるわけですけども。つまりジャガンナートに轢かれて死んだらもうそれは本望だと思って、彼は自殺しようとしたんだね。ジャガンナートの山車をやるときに、そこに身を投げて、その山車に轢かれて自殺しようとしたんだけど、それをチャイタニヤが止めるんですね。で、止めて、「おまえはわたしにすべて差し出したんじゃないのか?」と。つまり、「おまえの体はもうわたしのものだ」と。「それなのに何勝手に」(笑)、ね、「おまえには自殺する自由もないのだ」と。「おまえはわたしに全部差し出したんだから」。で、そう言ってチャイタニヤは、まあ使命を与えるんだね。「自殺してる暇なんかないぞ」と。「おまえはみんなを救わなきゃいけない。今からここに行ってみんなを救ってこい!」と。それと同時にそこでチャイタニヤは彼を抱きしめて、その病気も治してあげるんだけど。
 でもそういう発想、つまりわれわれは――われわれはっていうか、ね、例えばバクタは、神にこの身を捧げたと。あるいは菩薩は、もちろん神とかグルもそうですけど、衆生にもこの身を捧げたと。で、そういうことはさ、よく皆さん、大義名分としてはよく考えたり、あるいは唱えたり、あるいはそういうのを読んで「いいな、おれもそうなりたい」って思ったりするよね。そう思うんだったら現実的にそうしろと。百パーセントそうしなさいと。百パーセント人生を、自分のために使ってはいけないと。正法に――まあ、ここの言葉でいうと「正法への奉仕」って書いてあるけど、具体的には、もちろんグルやブッダや神のために、そのご意思のために、あるいは救済、つまり衆生が一刻も早く救われるために。そしていつも言うようにそのベースとしての自分の修行を進めるために。自分の修行が進んでないとそんなのは机上の空論になってしまうから。早く自分がみんなのためになれるようにっていうのを考えて、そのためだけに人生を使うと。
 つまり、こういうこと言うとほんとに厳しい話になっちゃうんだけどさ。そんな気を抜いてる暇はないよと。繰り返すけど、まだ中途半端な場合は気を抜いてもいいかもしれない。気抜いてもいいっていうのは、「よし、じゃあおれは衆生のために、あるいは神やグルとの約束のために、さあ、この数時間だけ頑張ろう」と。「でも数時間は、ちょっとこれやらしてください」と。ね(笑)。「それでちょっとリラックスしたいんです。」「ああ、いいよいいよ」と。繰り返すけど、全くそのような道に入ってなかった人にとっては、それはもちろん素晴らしいことだからね。「ああ、あなた、今までエゴのためだけに生きてたのに、一日のうちエゴの時間を減らして、三時間も修行するの?」あるいは「三時間も奉仕するの?」「それはすごいね」ってなるよね。でも、繰り返すけど、そうじゃなくて真剣に、「よし、わたしは真剣に菩薩になりたいんです。」あるいは「バクタになりたいんです」という思いを持った人にとっては、いきなりその指針が上がるわけだね。「はい、じゃあ」――バイトじゃないけどさ、「じゃあ二十四時間入ってください」と。ね(笑)。二十四時間、ワンオペ(笑)。つまり二十四時間、交代なしです。二十四時間を、つまり二十四時間三百六十五日、あるいは人生七十年、八十年、全部ですと。うん。あなた自身のために使う時間なしですと。「ちょっとこの欲望が」とか、駄目です。ただ菩薩道、あるいは生涯の奉仕のために使ってくださいと。
 はい。でもこれはもちろん、心構えというか、志です。で、それを現代でどう応用するかはまたそれぞれ考えなきゃいけない。ここにも書いてるように、だからといって、会社で働くなとかじゃない。それはもうわれわれの今の、いつも言うようにカルマとして――つまり繰り返すけど、ここにいるみんなはさ、全員じゃないかもしれないけど、ここにいる何割かは多分、ある時代だったら、ある時代のインドやチベットだったら、多分ね、出家してます。うん。つまりそういうシステムの時代だったらね。でも現代じゃちょっとそうじゃないからね。つまりこの世俗で働きながら修行すると。あるいは救済をすると。この場合はだからそのままはこの話が取り入れられないっていうか、応用しなきゃいけない。ここに書いてある――いつも言ってる話だけど、つまり皆さんがしっかり世俗で働くことによって、それによって稼いだお金を布施したり、あるいはその稼いだお金で修行できるわけだから。それを考えて、つまり仕事そのものが正法への奉仕ととらえて考えると。
 あるいは正法への奉仕以外何もしちゃいけないっていったってさ、それは具体的に言うと、修行と、あるいは例えばビラ配り等の奉仕なり、あるいは、ね、人を導いたり、それ以外しちゃいけないっていうわけじゃないよ。だって、つまり正法への奉仕っていうことはさ、例えば皆さんが家族や友人と接するときに、まあそれぞれケースバイケースだろうけど、修行者としての輝きをもって、あるいは優しさをもって接すると。それは非常に、広い意味でっていうかな、長い時間かかるかもしれないけども、彼らを導く道につながるよね。この間もあったように、まずは自分を信頼してくれる人がいないと、話も聞いてくれないと。だからもちろん別に、世俗的ないろんなものに付き合い過ぎる必要はないけども、でも例えば家族や友人、あるいは会社の人たちとのふれあいによって、少しでも自分の、例えば聖なるヴァイブレーションを彼らにも分け与えたいな、とかね。あるいは今言ったように、つまり法はまだ説けなかったとしても、普通だったらそこで怒るところを優しく返すとか、それらによって、その人のカルマにちょっとでも変化を与えるとか、あるいは将来法を説けるようにそういう関係性を作るとか、いろいろあるよね。そういうのも広い意味でいったら正法への奉仕になるから。
 だから言い方を換えると、そういうことを普段から考えてるかどうかですね。「わたしはいかにして正法に奉仕しようか」と。「いかにしてグルや神のご意思を実践しようか」、あるいは「いかにして衆生のためになる生き方をできるのか」ということを、社会で生きながら――今言ったのはいくつかの例にすぎないけども、今例えば目の前で対峙してるこの人と、どのような会話をすれば、どのような関係性を保てば、将来的にかもしれないけど、この人のためになるのか、あるいは神やグルのご意思どおりになるのか。そういうことを考えて生きるということだね。
 逆に言えばそれ以外の――もしそこで自分で、「あ、これはエゴだな」とかいうのがあったら、それはやらならないと。
 はい。だからこの辺も智慧が必要っていうか、経験値が必要になってくるよね。でもそれが菩薩行だからね。そういうことをやりながらだんだん経験値を上げていくっていうか。

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