解説「菩薩の生き方」第三十一回(4)

はい。そして、「真理への心を確固たるものにし」、あるいは「慈悲の心を強め」とかも同じですけども。つまり、例えば苦しめてくれる人が現われて、そこで、自分の人生結構順調だったのに、なんかぐじゃぐじゃになったとするよ。うん。そこで真理の教えによってなんとか戦ったとするよ。戦って――つまりさ、その苦しめてくれる人もそうだし、あるいは状況もそうだし、そういうのがあってわれわれは真剣に真理と取り組むわけですよね。で、それによって、修行とかあるいは教えによってなんとか乗り越えようとして、で、悪戦苦闘して乗り越えましたと。で、その過程においてその人のさまざまな修行者としてのスキルがアップしていくわけだね。だからこれも同じ。そのような、悪人というか、ね、さまざまな心の乱れを自分に与えてくれる人、あるいは状況の登場によって、本当の意味でわたしは修行できるんだと。
いつも言うように、修行というのは、絵に描いた餅ではしょうがない。あるいはよく出す例えとしては、料理の本を読んでるだけではしょうがない。実際に料理してみなきゃいけなない。つまり、料理の本を何千冊読んだって、偉大な料理人にはなれない。じゃなくて実際に料理をすると。それによって、いろんな失敗をすると。あるいはいろんな、なんていうかな、アクシデントが起きると。そういうのを何度も何度も繰り返して、「あ、本に書いてあったことの意味こういうことだったのか」とかね。あるいは、本にはこう書いてあったけども、実際それはオーソドックスな話であって、実際にこの状況のときにはこういうふうに料理した方がいいな、とかね。いろんなことが分かってくるわけですね。つまり修行においては当然実践が第一であると。しかしその実践っていうのも、繰り返すけど、平凡な、あるいは順風な状況だけだったらだめだと。――だって、それはそうだよね。例えばさ、「自分を苦しめてくれる人を愛しなさい」っていう教えがあったとしてね、そういう人がいなかったらできないですよね。
あるいは、じゃあもっと簡単に、「すべての衆生を愛しなさい」っていう教えがあったとしてね。「『すべての衆生を愛しなさい』か。そうだな。じゃあ愛そうか」と言って、家族のことを考えると。家族みんな優しいと。だから「みんな好きだな」と。友人みんな優しいと。「みんな大好きだなあ。みんな幸せになってほしいなあ」――終わりと。ね(笑)。「学校の先生もすごくみんないい人だった」と。うん。これはこれで素晴らしいですよ。素晴らしいけども、成長はないですよね、それ以上。うん。例えば「じゃあ、あなたは愛の実践をしてますか? どうですか?」「はい、わたしはもう完璧です」と。「わたしの知っている人のことを全員愛しています」と。それはそうかもしんないけど、その人の前に、その人のエゴをグジャグジャにする人が現われたときに愛せるかどうかは分からない。例えばその人が、変な言い方をすれば、修行してね、そうですね、六十歳くらいまでそれで行ったとするよ。六十歳ぐらいまで周りにいい人しかいないと。「ああ、わたしは本当に愛を成就した」と。「わたしは他者に対する愛しかないんだ」って言ってたと。でも六十歳くらいになって、嫌なやつが現われたと。ね(笑)。そこでやっと気付くんです。嫌なやつが現われたときに、「おれの中には、やっぱり嫌悪あった」と(笑)。「今までそれを刺激する人が現われなかっただけで、おれはまだまだだった」と。
あのさ、これは小さな話ではみんなも経験していると思う。わたしもよく聞くからね。よく聞くっていうのは、「わたしまだまだでした」みたいなメールがたまに送られてくる(笑)。「自分は結構修行が進んでいるとは思ったけども、ある人にちょっとこういうふうに心が乱されて、自分はまだまだだと分かりました」と。こういうことはよくある話だね。でも逆に言うと、ということは、そのまだまだだと気付かせてくれたその悪人――悪人っていうのは変ですけど、その自分の敵役みたいな人は、それもまた最大の恩人だということ。気付いてやっと、それに対する取り組みができる。あるいはそのような悪状況の中で――つまり悪状況の方が修行が進みやすいわけだね。鍛えやすいというか。
もう一回まとめるよ。周りがみんないい人だったら、それを愛するのは簡単であると。うん。どうしても愛せないような人、ひどい人がいっぱい現われて、やっとわれわれは、愛のキャパシティーを広げることができる。
あるいは、順調で、何も苦しみがない状態だったら、自分の忍辱、つまり心の強さがどれだけあるか分からない。でもそれを邪魔してくれる人が現われてやっと、自分のキャパシティーの限界が見えて、それを鍛えることもできると。
あるいは真理の実践とかも――真理っていうのは例えば帰依とかもそうだね。例えば、「わたしは帰依をしています」と。「信があります」とか言って、でもそれを阻害されるような状況――例えば昔の、ね、これはいろんな伝説とか残っているのは――仏教って、一時期はインド全体を包含し、まあ、つまり王様が仏教徒になったから、一時期インド全員仏教徒になったときがあったんですね。そういう時代もあったんだけど、だんだん、もちろんヒンドゥー教はもともとあるからさ、ヒンドゥー教も勢力を伸ばしてきて、もう一つはイスラム教が、まあ現代のイスラム教も同じようなことやってるけど、武力とかも使ってどんどん仏教とかを弾圧していたときがあったんですね。そのときの話で、ある仏教徒がイスラム教の人たちに捕まって、どんどん殺されていったと。で、ある人が捕まって、「仏教に対する帰依を捨てなさい」と。「捨てたら、おまえの命だけは助けてやる」って言われましたと。そう言われたんだけどもその人は、「わたしは何があっても、何度生まれ変わっても、三宝に帰依いたします」って言って殺されたっていう話がある。つまりそれだけの、なんていうかな、強い帰依、あるいは信。もちろんそれは命だけの問題だから、実際には命ではなくて自分のエゴとか、いろんなものとぶつかっても、信とか帰依を貫けるかとかね。うん。これもそういう状況が来ないとなかなか分からない。あるいはそういった信を強める訓練もなかなか難しいと。
だからそういう意味で、いろんな意味で、つまり忍辱、あるいは慈愛、あるいは真理への確信、帰依、あるいはその他さまざまな修行を本物にしていくためには、悪条件が必要なんだね。だからそれを与えてくれるいろんな意味での、苦しめてくれる人、これはわたしの恩人であるという考えだね。
はい。「慢心を弱めることができる」。
これはこのままですね。つまり、ちょっと慢心が――そうだな、根本的に慢心が強い人はまた勘違いしちゃうかもしれないけど、そうじゃなくて、心の中に少し謙虚さがあれば、自分をバーッて攻撃する人が現われたとき、「ああ、わたしにはきっと慢心があったんだな」と。「わたしはちょっと自惚れていた」と。そういうふうに気付かせてくれるかもしれない。
ものすごく慢心が強いと駄目だけどね。ものすごく慢心が強いと、「なんだこのやろう! おまえが悪いんだろ!」となっちゃうけど(笑)。そうじゃなくて、やはり教えが少し入ってると、いろいろ攻撃されたり苦しめたりされたときに、わたしにはおそらく駄目なところがあったんだと。わたしにもおそらく反省しなきゃいけないところがあるんだと。そのようなかたちで謙虚さを強め、自分の慢心に気付かせてくれるチャンスにもなると。
はい。いろいろ挙げたけども、そのような意味で、その苦しめてくれる人という条件も、さっき言ったブッダや、あるいはお父さんお母さんたちに匹敵するくらいに、自分にとって必要な、恩のある存在なんだということですね。
-
前の記事
解説「菩薩の生き方」第三十一回(3)
