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解説「シクシャーサムッチャヤ」第一回(9)

 はい、そして、「素晴らしき友に会うことは難しい。真実の師に会うことは難しい。」――これは読んだとおりですね。
 本当に自分と縁があって、かつ真実を悟っている師に出会うことは難しいし、同じような道を歩める法友に出会うことも非常に稀なんだと。

 「理の如くに正しいダルマを受けることは難しい。」
 まあこれもさっき、輪廻を信じないお坊さんがいるって言ったけども、例えば仏教とかヨーガと名のつくものに出合っても、全然変なことを教えられるかもしれない。世には本当にいろんな本が出てるから、間違った教えに導かれるかもしれない。じゃなくて、本当にありのままの真理というものに出合えるっていうのは非常に難しいと。

 そして、「真理に励む人生を得ることは難しい。」
 これはまあ皆さんの気持ちの問題でもあるけども、つまり、よし、わたしはこの人生――まあもちろん仕事はあるでしょうし、いろんなしがらみもあるけども、一生懸命この人生を使ってね、修行していこうと――いうふうに、曲りなりにでも、少しでも思えることっていうのは、素晴らしいことなんだと。そういうふうに思えること自体が難しいんだ、ということですね。
 皆さんがまだそんなに真理に縁がなかったら、「ああ、へー、素晴らしい教えですね」と。「まあわたしもちょっと頭にとめておきますよ」ぐらいで終わってたかもしれない。でもちょっとだけ皆さんは、「いや、ちょっと人生を使って修行を一生懸命頑張ってみようかな」と思っている。これは素晴らしいことであり、稀なことだっていうことですね。
 
 はい。で、これだけな稀なチャンスを、すべてわれわれは今クリアしてるんだ――ということを、何度も言うけども、まず自分に言い聞かせて自分を鼓舞しなきゃいけない。で、さらにここでは、これは菩薩の教えなので、もう一つ加えるわけですね。

 「私も他人もともに、恐怖と苦しみとを喜ばない。ならばなぜ、私だけを恐怖と苦しみから守り、他人のことは守らないでよいといえようか。自分のためだけになす真理の実践に、何の価値があろうか。」

 はい、つまりこれは、さっきまで言ったことによって、今ここでわたしが修行というもの、真理というものを実践できるチャンスに出合っていることは、大変な稀なことなんだっていう鼓舞をしたわけだけども、今度はその方向性ですね。「よし、わたしは今こそ悟ろう」――それはいいんだけども、でもそれは自分だけでいいんですかと。自分だけではなくて――あのさ、ここで書いてあるのは、これね、この言葉ってみんなピンと来ないかもしれない、もしかすると。ピンと来るかどうか分からないけど、つまり、「私も他人もともに、恐怖と苦しみとを喜ばない。ならばなぜ、私だけを守り、他人のことは守らないでよいといえようか」と。例えばさ――わたしは当然苦しみは嫌だと。恐怖は嫌だと。幸せになりたいと思ってる。でもほかの人が違うってことはあり得ないよね(笑)。例えばIさんが、「わたしは幸せになりたいな、苦しいの嫌だな。――でもKさんはそうじゃないんじゃない?」とか(笑)、「Kさんはなんか苦しみ好きそうだ」と(笑)。苦しみ好きっていうか、なんていうかな、苦行が好きとかはあるかもしれないけど、じゃなくて本質的な、地獄に落ちたいとかね、そんな人は普通いない。誰だって地獄は嫌だし、苦しみたくないし、あるいは本質的な幸せを得たいと思ってる。ならばなぜ、わたしだけの幸福への努力をし、他人の人は放っとけようかと。みんな同じように幸福になりたいと思っているし、みんな同じように苦しみから解放されたいと思ってるんだと。
 これはね、ちょっとピンと来ないかもしれません。なぜピンと来ないかというと、つまりそれだけわれわれは、自我意識にすでに縛りつけられてしまってるんです。つまり、「わたし」っていう、なんていうかな、まやかしの幻の思いに縛りつけられてるんだね。本当は「わたし」というものはどこにも存在しない。つまりその個別的な「わたし」っていうのはないんだね。これはちょうど、前になんかでも言ったけども――これは一つの例えだけども、われわれは細胞の一つのようなものだと。細胞ね。つまりこの人間という体があって、その中の細胞なんだね。で、その細胞っていうのは、細胞一つ一つはもちろん個々の細胞だけども、でも全体で人間という一つのまあ自我を形成しているわけだね。で、この細胞たちっていうのは、変な言い方だけども、まあ、ある意味一つなわけです。で、ある意味喜びも苦しみも共にしているわけですね。で、ここでエゴが出るってどういうことかっていうと――いいですか――それぞれの細胞には役割がある。例えば手というのは一番自在であって、いろんなものを取ったり、逆に防御したり、そういう役割がある。はい、例えばですよ、そうだな、顔に向かってボールが飛んできました――「やばい、このままだと顔にボールがぶつかる」と。当然手でパッとブロックする。でもここで手がエゴが強かったら、「顔なんて関係ない」と(笑)。「おれ関係ない」と。「別におれにぶつかろうとしているわけじゃないから」と。バーン!とぶつかる(笑)。これがエゴ(笑)。つまり、この例えば手の細胞がエゴを持っちゃうとこうなるんだね。「おれは、おれ」と。これが今のわれわれの状態なんだね。われわれには本当はそんな区別は何もないです。何もないんだけども、その「おれ」っていう錯覚を持っちゃうんだね。
 だからそれは非常にナンセンスであると。われわれのエゴが緩まってくれば緩まってくるほど、この人生に、ちょっとね、気付きだすんです。「あ、われわれには実はなんの区別もなかったんだな」と。すべては一つというかな、すべてはなんの、どこでどう分けられるとかっていうのが一切ない状態なんだと。だから自分と他人というのは全く変わりがないと。
 で、ここで問題なんだけど、自分と他人は変わりないんだが、しかし役割はあるんです。つまり手には手にしかできない役割がある。だからちょっとこれは例えとして言うけども、菩薩っていうのはそういう意味では、今の例えでいうと、手になったようなものです。手であると。手の役割を与えられた細胞なんです。ほかの臓器とかほかのところにはほかの役割があるわけだけど、今おれに与えられた役割は、一生懸命修行してしっかり力をつけて、ほかのところを障害から守ってやらなきゃいけない。あるいは、この手によってできることをいろいろやらなければいけない。それは誰のためにやるんだと。当然みんなのために、つまりほかの細胞たちのためにやるわけだけど、それは同時に自分のためでもあるんだね。全体が自分なわけだから。
 だから、ちょっとこの感覚を、われわれは取り戻さなきゃいけないんです。つまり、人のためっていうのは同時に自分のためでもある。どこにも「わたし」とか「あなた」とかいう区別はないんだと。逆に、今の話を全く逆に考えるとね、われわれは、仮にですよ、ものを考えているのは頭だとしますよ。でもわれわれは、自分の手とか足のために頑張るでしょ。足をケガしてたら、「ああ!」ってこう、治してあげる。「どうしたんだ」と。ね。それくらいの気持ちを、他っていうかな、ほかの生命体にもやりましょうと。そういうものをね、呼び起こさなきゃいけない。
 ここにいる皆さんはもちろん心が比較的きれいな人が多いだろうから、当然、人の苦しみを自分のことのように思ったりとか、そういう経験はあるでしょう。そういうことをもっともっと高めていくんですね。本当に自分と他人は変わりないんだと。逆に言うと、誰かが心が浄化されていってたりとか、修行が進んでいったりすることっていうのは、まさに自分と同じように喜びなんだ、というような気持ちを持たなきゃいけない。
 だから全体が、なんていうかな、一つなんだね。これは実は真実なんです。真実っていうのは、比喩的に鼓舞するために言ってるんじゃなくて、本当なんです。ということは、これがもし本当だとしたら、われわれは結局は――いつも言うけども、最終的に全員が悟るまで、われわれに本当の平安はない(笑)。だから全員を悟らせるために、われわれはすべての努力をしなきゃいけない。
 で、そこで、いつも言うけども、先に修行とかに出合った者は責任があるわけですね。責任がある。
 これは仏典とかにね、このシクシャ―・サムッチャヤもそうだけど、よくこういうことが書かれている――菩薩を、つまり菩薩っていうのは衆生のために仏陀となろうと願っている者の、その志をやめさせるようなことがあったら、つまり「いや、そんな修行なんてつらいからやめな」とかね、それでやめちゃったりしたら、大悪業であると。それは例えば、まあ、いろんな例えがあるんだけど、この宇宙全体の生き物を殺すよりも、あるいはこの宇宙全体の物を盗むよりも、それよりも一人の菩薩の志をくじけさせるほうが大悪業だって書いてある。それはなぜか分かるよね。つまりこの、「よし、おれはみんなのために仏陀になるぞ。修行するぞ」っていう人がいなかったら、つまりまず最初にそのきっかけを作る人がいなかったら、次に続けないわけですね。言ってる意味分かりますよね? 
 つまり、いつも言うけども、皆さんと縁のある者たちの中で、皆さん自身、つまり修行とかヨーガ、仏教というものを本格的に「よし、やってみようかな」っていう人が頑張んなかったら、その人と縁のある人たちっていうのはなかなか救われない。ほかの人にはその役割はできないんだっていうことだね。例えばKさんだったらKさんにしかできない。Kさんと縁のある人が、例えば日本にね、まあたくさんいる――例えば仮に千人いるとして、Kさんが例えば「ちょっと修行に疲れちゃったから、友達のね、例えば野本さんっていう全く修行していない子がいるとして、「野本さん、わたしの代わりに頑張って」とかいっても、野本さんに全くその縁がなかったらできないわけです、野本さんには。「何を言ってるんだ」と。「わたし全く興味ないから」と。あるいはお母さんとかね。「お母さん、わたしの代わりに頑張って」――いや、全然縁がないから、「わたしそんなのやりたくないよ」と。ね。Kさんは、やる気があればできる。くじければできないけど、やる気があればできる。これはもうまさにKさんがやるしかない(笑)。ね。まずはですよ。だんだんその縁が広がっていけばいいんだけど。
 だからそういう、なんていうかな、ちょっと重いけども、責任みたいなのがあるんだね。それは役割だと。その役割を菩薩の喜びとして、全力で修行すると。
 もちろん、だからといって、皆さんに、多くの人をね、修行させろって言ってるわけではない。もちろんそれができれば一番いいけど、まずはその前に自分が完成しなきゃいけない。完成っていうか、自分の心をどんどん浄化してね、みんなを救えるだけの力と神聖な波動をね、自分の中に作らなきゃいけないわけだけど。だからその動機づけをそういうところにするんだね。「わたしだけではなくて、多くの衆生はこの宇宙で苦しんでいる」と。で、しかもそのほとんどは――ここを読めば分かるように、ほとんどはまだ修行するスタート地点にすら立っていない。つまり、苦しい苦しいと言ってて、そこから逃れるすべを全く知らない魂で満ちていると。でもわたしはそのすべは知ってしまったと。これがちょっとミソなんだけど、「知ってしまった」んです(笑)。もう逃げられない責任があるんだね。「やべえ、仏陀に見つかった」とか言って(笑)。

(一同笑)

 「やべえ、仏陀にちょっと役割を与えられちゃった」と。もちろんそれを喜べば最高なんだけどね。「ああ、わたしはそれがもう本望です」っていう気持ちになればいいんだけど、逆の言い方すると、「知っちゃた」んです(笑)。知っちゃったからにはもう責任があります。変な言い方すれば、目覚めちゃった。「あっ、修行しなきゃいけない」ってことにちょっと気付いちゃった。気付いちゃったと。気付いちゃったっていうことは、責任はわたしにありますねと。で、この責任のボールみたいなものは誰にも渡せない。「あっ、やべえ、あっ、パス」ってはできないんだね。次、ってできないんです。次の人はまだ準備が整ってないから。だからもう自分がやるしかない。ね。そういう気持ちで自分を奮い立たせる。
 これはね、ちょっと逆の言い方すると、自分の修行のためにもなります。わたしもそうだったけど、修行とかいっぱいしてて、その修行自体ももちろん苦しいことがあるし、修行自体だけじゃなくてさ、修行するとどんどんカルマの浄化があるから、なんか人生全体が苦しくなってきて(笑)、精神的にも――つまりさ、心のカルマが浄化されるときって、なんていうかな、本当にね、意味もなく苦しくなったりするんです。意味もなく苦しくなったり、意味もなく暗くなったり、意味もなくちょっと――人によってはね――意味もなく絶望感に襲われたりとか、いろいろするんですね。で、そういうときに、心を鼓舞して頑張んなきゃいけないんだけど、そういうときにね、なんていうかな、自分だけの修行だと、ちょっと限界があるんです。なんでかっていうと、自分だから。自分のことだから別にいいじゃんと。「いやあ、これくらいでもういいや」ってなっちゃうんだけど、「おれには責任がある」と思うと頑張れるんです。もう苦しくてもうすべて放り投げたいけども、「でもわたしがこの道をやめてしまったら、わたしと縁があって、しかし真理とは縁がない人たちはどうなるんだ」という気持ちを自分に奮い立たせるんですね。それによって激しい修行とか激しいカルマの浄化にも耐えられるということだね。

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