クンサン・ラマの教え 第一部 第一章「自由と縁を得ることの難しさ」(11)
3.人間に生まれることの難しさ
仏陀の教えによると、人間としての生を得ることは、亀が大海の底から上がってきたときに、波に揺られて水面を漂っている木のくびきに、亀の首が偶然はまることよりも難しい。
百万の銀河がある大宇宙を、大海だと想像しなさい。そこに、穴の開いた木片である、牛のくびきが浮かんでいる。このくびきは、波によってあちこちに運ばれて、一瞬も同じところにとどまっていない。海の深い底に住む目の見えない亀は、百年にたった一度だけ水面に上がってくる。そのとき、くびきと亀が出合うことは極めてまれである。くびき自体は物であり、亀も意図的にくびきを見つけたわけではない。亀は目が見えないため、くびきがどこにあるかわからなかった。くびきと亀が出合う可能性はとても小さい。しかし稀有なる確率で、亀はくびきに首を入れることになった。経典の説くところによると、人間の生を得て、自由と条件を得ることは、さらに難しいことである。
ナーガールジュナは、次のように説いている。
亀が浮かび上がって、大海原の海面に漂っていたくびきから偶然にも首を出すことは、ほとんどあり得ないことである。
人間に生まれることは、これよりもさらにまれなことである。したがって、王よ、真のダルマを修行して、自分の運命を意義あるものにしなさい。
人間に生まれることの難しさは、つるつるした壁に投げた乾いた豆が貼りつくことや、針の上にうまく豆を積み上げることなどの比喩でも述べられる。『マハー・パリニルヴァーナ・スートラ』その他の経典に書かれているこれらの比喩を知っておくことは重要である。
生き物の相対的な数を考えれば、人間に生まれることがめったにないことであるとよくわかるだろう。地獄の住人を夜空の星と同じ数いるとすれば、低級霊の数は昼間に見える星と同じくらいである。低級霊の数が夜空の星の数と同じであれば、動物の数は昼間に見える星と同じである、動物の数が夜空の星と同じであれば、人間や神々の数は昼間に見える星と同じである。
三善趣(人間界、阿修羅界、天界)に生まれること自体が十分まれであるが、自由と条件をすべてそなえた人間に生まれることはさらにまれである。
人間の数が動物と比較してどれほど少ないかはすぐに理解できるだろう。夏の土の中にどれほど多くの虫がいるか、一つのアリの巣にどれだけ多くのアリがいるか考えてみなさい。世界中の人間はこれほど多くない。さらに、人間の中でも、教えがまだ広まっていない辺境に生まれた人に比べて、ダルマが広まった地域に生まれた人は、極めてまれである。その中でも、自由と条件をすべてそなえている人は本当に少ない。このように考え、今自分が自由と条件をすべてそなえていることを喜びなさい。
人間の命は、自由と条件をすべてそなえて初めて「貴重な人間の命」となり、真の意味で貴重なものとなる。しかし自由と条件を完全にそなえていなければ、世俗的な意味でどれだけ多くの知識、学識、才能を持っていたとしても、貴重な人間の命を持っているとはいえない。いわゆる普通の人間の命、ただの人間の命、不運な人間の命、意味のない人間の命、無に帰する人間の命と呼ばれるものにすぎない。すべての望みをかなえる如意宝珠を手にしながら使うことができなかった、あるいは貴重な黄金の国に行きながら手ぶらで帰ってくるようなものである。
どんな貴重な宝石も
この貴重な人間の命を得ることに比べることはできない。
よく見なさい、輪廻を悲しまない者が、
命をどれだけ無駄にしているかを!
すべての王国を手中にしたとしても、
完全な師に出会うことに比べることはできない。
よく見なさい、信仰心なき者が、
いかに師と自分を同等であると見なしているかを!
国の命令を受けることも、
菩薩の戒を受けることに比べることはできない。
よく見なさい、慈悲なき者が、
戒をどれほど破っているかを!
宇宙を支配することも、
タントラのアビシェーカを受けることに比べることはできない。
よく見なさい、サマヤを破る者が、
誓約をどれほど放棄するかを!
仏陀を目にすることも、
心の本性を見ることと比べることはできない。
よく見なさい、決意なき者が、
誤った考えにどれほど沈み込んでいくかを!
これらの自由と条件を、偶然得ることはない。多くのカルパにおいて功徳と智慧を集積した結果である。
人間の命を得たにもかかわらず悪しきおこないにふけり、ダルマを知らないことは、三悪趣に落ちるよりもさらに悪いことである。ジェツン・ミラレーパは、猟師であるゴンポ・ドルジェに次のように説いた。
自由であることと、人間に生まれるという幸運を得ることは
貴重であるとよく言われている。
しかし、あなたのような人は、貴重でもなんでもない。
貴重な人間の命を得ても、悪しき生き方をするならば、簡単に三悪趣に引きずりおろされてしまう。今この瞬間に、人間として生まれることで何をするかは、あなた自身が決めることである。
善き使い方をすれば、この身体は解脱へのいかだとなり
悪しき使い方をすれば、この身体は輪廻への錨となる。
この身体は、善きものでも悪しきものでも両方の命令を受ける。
過去世において積んだすべての功徳の力によって、18の自由と条件を完全にそなえた人間の生を得ることができた。ダルマというたった一つの優れた本質を顧みず、食料や衣服を得ることに人生を費やし、俗事にのみかまけていると、自由と条件を無駄にしてしまう。死がやって来てから後悔で胸を痛めても、まったく意味のないことである。誤った選択をしないように、『入菩提行論』では次のように説かれている。
(人間界に生を受けるという貴重な)機会に恵まれながら、
もしわたしが繰り返し善を修習しなかったならば、
これにまさる欺瞞はなく、
またこれにまさる愚かさはない。
それゆえ今生は、善と悪の分岐点である。今すぐに、今生のうちに、心の本性を悟らなければ、来生において今の自由を再び得ることはとても難しい。どのようなかたちであってもいったん三悪趣に生まれ変わってしまうと、ダルマのことを考えることはできず、混乱し、何をすればよいのか何をしてはいけないのかを判断することができなくなり。際限なくさらに下の世界へと落ちて行ってしまう。それゆえ、今こそ、努力して何度も何度も瞑想し、優れた三つの方法を用いるべきときだと、自分に言い聞かせなさい。三つの方法とは、菩提心を起こし、概念化することなく菩提心そのものを修行し、最後に回向することである。
チェンガワのようにあるべきである。彼は常に修行し、眠らなかった。ゲシェー・トンパは彼にこう言った。
「息子よ、休んだほうがいい。病気になってしまうよ。」
チェンガワは答えて言った。
「ええ、それはわかっているのですが、今ある自由と条件を得ることがどれだけ難しいか考えると、休んでいられないのです。」
チェンガワは夜も眠ることなく修行し続け、不動明王のマントラは九億回も唱えたという。
まさにこのような確信が心に生まれるまで、瞑想すべきである。
十の自由を得たとしても、ダルマには無知である。
ダルマに入門しても、他のことをして時間を浪費する。
わたしとわたしのような愚か者をお守りください。
自由と条件の、その本質そのものに到達できますように。