「ヴィヴェーカーナンダとの対話」より 「スワミ・ヴィヴェーカーナンダを通じて働くマーの力」(2)

その後すぐに、弟子は話題を変えて、こう言った。
「われわれの東ベンガルをどう思いましたか?」
スワミジ「すべてにおいて気に入ったよ。田畑には作物が豊富に実っていたし、気候も良い。そして、丘の方の景色は魅力的だ。ブラフマプットラの谷は、美しさにおいて比類がない。東ベンガルの人々は、ここの地域の人々よりも若干逞しく、活動的だ。魚と肉をたっぷり食べているからかもしれない。何をやるにももの凄い根気強さだ。彼らは食事に大量の油と脂質を使っているが、それは良くない。なぜなら、油と脂質を取り過ぎると、体に脂肪がつくからだ。」
弟子「彼らの宗教的意識についてはどう思われましたか?」
スワミジ「宗教的見解については非常に保守的であり、また、多くの人々が、宗教において自由主義であろうとしているために、狂信者になってしまっていることに気づいた。ある日、ある若者たちが、ダッカのモーヒニ・バーブの家にいるわたしのところに一枚の写真を持ってきて、『彼が誰なのか、わたしに教えてください。彼はアヴァターラなのですか?』と言った。わたしは何度も優しく、『それはわたしにはまったくわからない』と言った。わたしが三度も四度も同じように答えているのに、その若者たちは粘り強くその質問をし続けたのだ。わたしは遂に、やむを得ずこう言った――『なあ、今後は少し栄養のある食べ物を食べたらいい。そうしたら、君たちの脳みそは発達するよ。栄養のある食べ物を食べていないから、君たちの脳みそは干乾びてしまったようだ。』――この言葉を聞いて、その若者たちは非常に不機嫌になってしまった。だが、わたしに何ができたというのだ? わたしがそう言わなかったら、彼らは次第に、向こう見ずで無責任で衝動的な人間になってしまっていただろう。」
弟子「われわれの東ベンガルでは、近年、たくさんのアヴァターラが登場しています。」
スワミジ「皆が自分のグルをアヴァターラだと言っているのだろう。しかし、神の化身は、いつでも所かまわず生まれて来ることはない。ダッカには三、四人のアヴァターラ(と言われた人)が存在したと聞いた。」
弟子「女性に関してはどう思われましたか?」
スワミジ「女性はどこでもほとんど同じだ。ダッカでは、ヴァイシュナヴィズム(ヴァイシュナヴァ派)が力を持っているように感じた。H氏の妻は非常に聡明そうだ。彼女は丁寧に食事を準備し、わたしに運んできてくれた。」
弟子「あなたがナーグ・マハーシャヤのところへ行かれたと聞いたのですが。」
スワミジ「ああ。あそこまで行っておいて、あの偉大な魂の生誕地を訪ねない手はないだろう? 彼の妻が、たくさんの手作りの料理でもてなしてくれたよ。家は、平穏な隠遁所のように魅力的だった。わたしはその村の池で沐浴した。その後、午後二時半まで熟睡してしまったよ。わたしが人生の中で熟睡できたのは数回しかないが、その中の一回がナーグ・マハーシャヤの家でなのだ。眠りから覚めると、食事をたくさんいただいた。そしてナーグ・マハーシャヤの妻から、ターバン用に頭に巻く布をいただいて、ダッカへと出発した。ダッカでは、ナーグ・マハーシャヤの写真が礼拝されていたよ。彼の遺物が残されている地は、しっかりと保護されるべきだ。今はまだ、そのような体制ができていない。」
弟子「その地域の人々は、ナーグ・マハーシャヤの素晴らしさを認めることができなかったようです。」
スワミジ「一般民が、あのような偉人を認められるわけがないだろう。彼と親交のあった人たちは、本当に祝福されているよ。」
弟子「カマッキャでは、何を見ましたか?」
スワミジ「シロンの丘は非常に美しかった。そこで、アッサムの理事長であるヘンリー・コットン氏にお会いした。彼は私にこう聞いてきた。――『スワミジ、ヨーロッパとアメリカを旅した後に、このような遠方の丘にやってきて、何を見るというのですか?』――ヘンリー・コットン氏のような心温かい善人は、めったにお目にかかれない。わたしの病気のことを聞くと、彼はわたしに民間の医師を送り、朝と晩にわたしを見舞ってくれた。体調はすこぶる悪かったから、そこでは講演が十分にできなかった。帰り道の道中では、ニタイが几帳面に、私の看病をしてくれた。」
弟子「あの地域の宗教的思想は何であると思いましたか?」
スワミジ「あそこはタントラの地域だ。そこでアヴァターラとして礼拝されている『ハンカル・デーヴァ』という人がいるということを聞いた。彼の一派は、非常に広く広まっているそうだ。わたしはその『ハンカル・デーヴァ』は、シャンカラーチャーリヤが別の名をとって現われたのだろうかと思ったが、それを突き止めることはできなかった。彼らは出家修行者だった。――おそらくタントラのサンニャーシンであった。あるいはシャンカラの宗派の中の一派だったのかもしれない。」
弟子「東ベンガルの人々は、ナーグ・マハーシャヤに対してと同じように、あなたの素晴らしさも認めておりません。」
スワミジ「わたしを認めていようと認めていまいと、東ベンガルの人々はこの地域の人々よりも、活動的でエネルギッシュだ。時が経てば、あそこはもっと発展するよ。近年に洗練された方法、あるいは文明化された方法は、まだあの地域には完全には入ってきていない。徐々に入ってくるだろう。礼儀作法や流行は、常に都市から地方に向かって広がっている。そして、それが東ベンガルにも起こっている。ナーグ・マハーシャヤのような偉大な魂を輩出した土地は、祝福されており、その未来には希望がある。彼の存在の光によって、東ベンガルは輝いているのだ。」
弟子「しかし、一般民衆は彼が偉大な魂であることをわかっていません。彼は完全に、自分を隠しておられましたから。」
スワミジ「あそこの民衆は、わたしの食事のことに大騒ぎして、『なぜその食事を召し上がるのですか? 誰々の手から受け取った食事を食べるのですか?』などと言っていたよ。わたしはこう答えねばならなかった。――『わたしはサンニャーシンであり、托鉢修行者だ。そんなに外面的に、食べ物などに気を遣う必要があるだろうか?』――聖典にはこう書かれていないか?――『家々を回って食事を乞うべし。当然、不可触民の家からも。』――しかしもちろん、聖典の真理を人生において実現するために、神の内なる悟りを得るために、形式的外面的なかたちも、最初には必要だ。シュリー・ラーマクリシュナの『※暦から水を絞り出す』という話を聞いたことがないか? 外面的なかたちや儀式は、人の大いなる内なる力を顕現させるためにあるに過ぎないのだ。すべての聖典の目的は、それらの内なる力を目覚めさせ、人にその真の本性を理解させ、悟らせるためだ。手段の本質は、勧戒と禁戒である。おまえが理想を見失って、手段のことを言い争っているだけならば、それが何の役に立とうか? わたしは、訪れたすべての国で、その手段のことについて言い争い続けているということが起こっていることに気づいた。人々は理想には眼を向けていないのだ。シュリー・ラーマクリシュナは、この真実を示しにやって来られた。真実の悟りは、絶対的に必要なものだ。千年の間ガンガーで沐浴しても、ベジタリアンで生きても、それが真我を顕現させる助けになっていない限り、まったく何の役にも立っていないのだと理解しなさい。一方で、外面的な儀式などをせずとも、真我を悟ることができるのならば、形式にこだわらないということが最高の手段となる。しかし、真我を悟った後は、人々に手本を示すために、ある程度は外的な形式を守ったほうがよい。
要は、心を何かに確固として固定しなければならないのだ。一つの対象に心が確固として固定されれば、集中状態に達する。――つまり、他のすべての付加されていたものが消滅して、一方向に一定の流れができる。多くの者たちが、外面的な形式に完全にとらわれて、ただ単に儀式を行なうだけになってしまっていて、真我の思考に心を向けるという事をしていないのだ! もし、しきたりや規制という狭い溝の中に昼夜はまっていたら、どうやって真我を現わすというのだ? 真我の悟りにおいて前進すれば前進するほど、外面的な儀式への依存は減少する。
シャンカラーチャーリヤはこう言っている。――『心が常にグナの戯れを超越している者にとって、しきたりや規制というものはどこにあるというのだ?』――したがって、絶対不可欠な真理は、悟りなのだ。それが目的であると理解しなさい。それぞれの宗派はすべて、真理に至るための道に過ぎない。進化の度合いを測るものは、放棄の総量だ。愛欲とお金への愛著が相当に減ってきている人がいたら、その人がどの宗派に属していようが、その人は内なる精神が目覚めているのだと思いなさい。真我の悟りの扉は、その人には間違いなく開かれている。それどころか、例えばおまえが、千の外面的な規則を守り、千の聖典の言葉を引用していても、おまえの中に放棄の精神が目覚めていなかったら、おまえの命は無駄骨に終わると思え。この認識に関して忠実であれ。そしてそれを念頭に置きなさい。
おまえは聖典を十分に読んできたのであろうが、なあ、それが何かの役に立っているか? お金のことをずっと考えてきた者は百万長者になるかもしれないが、おまえは聖典のことばかりを考えてきて、パンディットになった。しかし、この二つとも束縛だ。至高なる叡智に達し、ヴィディヤーとアヴィディヤー、相対的智慧と無智を超えてゆけ。」
※ベンガルの暦は、年間の降水量の予報が書かれているが、その本を搾っても水は出てこない。それと同様に、聖典の真理は、人生の中で悟られなければならない。
弟子「先生、あなたの恩寵によって、その意味がはっきりと理解できましたが、わたしの過去のカルマが、これらの教えを吸収させてくれないのです。」
スワミジ「カルマなどというようなガラクタはすべて捨ててしまえ。過去の行為によっておまえがこの肉体を得たということが真実ならば、善なる活動によって悪行の果報を無効化して、生きているうちにジーヴァーンムクタ(生前解脱者)となればよいだけではないか? 自由、つまり真我の叡智は、己の手の内にあるのだということを理解しなさい。真の叡智には、一つまみの活動すら存在していない。しかし、ジーヴァーンムクタ(生前解脱者)となってから活動する者たちは、他者のために活動する。彼らは行為の結果を気にしない。欲求の種子は、彼らの心の中に居場所を見出せないのだ。厳密に言えば、在家のポジションでそのように世界の幸福のために働くことは、ほとんど不可能だ。ヒンドゥーの聖典全体に目を通してみても この点においては、前例がジャナカ王しか存在していない。しかし、おまえは今、いろんな家で毎年子供をもうけて、ジャナカ(ジャナカ【父親】とジャナカ王を掛けている)を気取りたがっている。だがジャナカ王は、肉体の感覚がなかったのだぞ!」
弟子「どうか、今生のうちに真我の悟りを得ることができるよう、わたしを祝福してください。」
スワミジ「何を恐れている? 教えてやろう。心の誠実さがあれば、間違いなく、おまえは今生でその目的を達成する。しかし、男らしい努力が必要だ。『男らしい努力』が何だかわかるか? 『絶対に真我の叡智を獲得してやる。どんな障害がやってこようとも、絶対に乗り越えてみせる!』――このような確固たる決意が『男らしさ』だ。『母が、父が、友が、兄弟が、妻が、子供が、生きようと死のうと、この肉体が生き延びようと滅びようと、真我のヴィジョンに達するまでは、絶対に踵を返さないぞ!』――他のものには一切目もくれずに、一つの目的に向かって進んでゆくこの断固たる努力を『男らしい努力』というのだ。そのほかの、肉体的な快適さを求めるための努力などは、獣や鳥でもしている。人間はただ、真我の叡智を悟るためだけにこの肉体を得たのだ。
もし、この世俗に生きる凡人たちに従い、世間一般の動向に流されるのならば、おまえの『男らしさ』はどこにいったというのだ? なあ、普通に生きる人々は、死の入り口に向かっている! だが、おまえはそれを征服するためにやってきたのだぞ! 英雄のように進め。何にも阻止されるな。あと何日、幸福と不幸と共にあるこの肉体は存続するであろうか? 人間の肉体を得たのだから、内に真我を呼び覚まして、『わたしは恐れなき境地に達したぞ!』と言うのだ。『わたしは真我である――わたしの低次のエゴは永久にその中に溶け込んだのだ』と言いなさい。この思考において完璧でありなさい。そして肉体が続く限り、『汝はそれなり』『立ち上がれ、目覚めよ。そして目的に達するまで進み続けよ!』という恐れなきメッセージを他者に語り続けるのだ。もしおまえがこれを成し遂げることができたら、おまえが本当に東ベンガルの不屈の男だということを認めてやろう。」
