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愚者の慈悲

 「愚者の慈悲」というものがあります。
 この典型的な例としては、たとえば、手先の不器用な泥棒がいて、なかなか盗みがうまくいかないでいるのを見たとき、それを哀れに思い、手伝ってあげる場合などです(笑)。

 ここまで極端でなくても、似たようなパターンは、日常において多々見受けられます。つまり「かわいそうだ」と思って手助けしたとしても、それが本当にその人のためにはなっていない場合があるということです。

 そしてその原因は、こちら側の心に愛着・怒り・無智の三毒が強くあることに起因しているといえるでしょう。

 無智によって、何がその人を本当に幸福にし、何が不幸にするのか、何がその人を成長させ、何が堕落させるのか、それを見間違ってしまいます。

 愛着が強いと、いろいろな問題があります。
 そのひとつは、愛着によって正しい判断を見誤るというパターンです。
 もうひとつは、正しい判断はわかっているのだけれど、愛着によって、わかっていながら間違った手助けをしてしまうというパターンです。

 怒りは愛着の裏側ですので、愛着と同様のパターンになります。
 つまりそこに嫌いな人、怒りの対象が絡む場合、判断を見誤るパターン。
 もうひとつは、正しい判断はわかっているのだけれど、怒りの対象がそこに絡む場合、わかっていながら間違った手助けをしてしまうパターンです。

 よって仏教等のシステムにおいては、大乗の土台として小乗の修行があるのです。
 つまり自分の中の愛着・怒り・無智を滅する、あるいは弱めておかない限り、本当に相手を利益する慈悲の行為は不可能になるので、まず愛着から自分の心を自由にし、怒りを静めて心の慈愛や平等心を強め、そして無智を超えて、現象を正しく見つめる智慧を磨くこと。これらをまずは土台として進めるのです。

 私の知る限り、日本にも、世界にも、「いい人」は多いです。愛の重要性を説く人も多いです。しかし自分の愛着・怒り・無智をそのままにしているがゆえに、そのような愛の心が空回りし、余計な闘争を呼んだり、逆にすべてを堕落させたり、不幸な要素をお互いに強めさせてる場合が多々あるように思います。

 だからといってもちろん、解脱し悟るまでは慈悲の行為の実践をしてはいけないということではありません。慈悲を行なおうとする人こそ、同時に、自分の愛着・怒り・無智を弱め、心の自由・愛・平等心・智慧を強める努力をすべきだということです。

 そのための土台として、ヨーガの修行、あるいはヨーガや仏教の瞑想等は、大変役に立ちます。

 自分と他者の幸福と成長のために。志ある方はぜひ、そのような道を歩いてほしいと思います。

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