解説「安らぎを見つけるための三部作」第一回(2)

友よ。人間の生という稀な機会を得、貴重な人間の身体を得、そして真理と巡り合えたこと――
この六道輪廻の中で、これだけの条件がそろうのは、非常に難しいことです。
それは例えるなら、盲人が道でつまずいて、偶然、貴重な宝物を見つけたかのようなものです。
繁栄(功徳を積み、悪を滅することによる幸福)と至福(解脱)を得るためにこそ、この身体を使わなければなりません。
はい、まあ、この今読んだところが、今回のテーマになるわけです。「人間の生という稀な機会を得、貴重な人間の身体を得、そして真理と巡り合える――これだけの条件をそろえるのは、非常に難しい」と。
で、これは面白い例えだけども、「盲人が道でつまずいて、偶然、貴重な宝物を見つけた」――つまり、われわれはめくらなわけだね。つまり無智だと。目が見えない。つまり心の目が開いていない。で、盲人が道を歩いていて、偶然つまづいて転んじゃった。バーンって転んじゃって、ああ転んじゃったって思って手をついたら、そこにダイヤモンドがあったと。こんなことは普通はなかなかあり得ないわけだけど、でもそれぐらいのものだっていうことですね。それぐらいの貴重さでわれわれは今人間として生まれ、そして真理というものを前にしてるんだと。
そして「繁栄と至福」――まあ、繁栄と至福っていうのはよく言われるんだけど、繁栄っていうのは現世的な幸福ですね。ただそれは、なんていうかな、正しい、つまり徳を積み悪を滅することによって得る現世的幸福。で、もう一つは解脱ですね、至福って書いてあるけども、「至福(解脱)」っていうのは、そうじゃないこの現世を超えた悟り、あるいは解脱の完全な喜びだね。で、この二つがわれわれが得なきゃいけないものだと。
つまり、一時的な煩悩を追いかけて徳を減らし悪業を積んで得る喜びではなくて、功徳を積み悪を滅することによって得る、まず解脱ではないんだけどこの世での豊かな心、それから功徳からくる幸福。そしてそれらを超えた解脱、悟りの喜び。これを得るためにこそ、この身体ね、人間の体を使わなきゃいけないんだと。
まあシャーンティデーヴァの『入菩提行論』でも「行き来にそれを使用するがゆえに、この肉体を船と考えるべきである」っていうような一節があるね。つまりどういうことかっていうと、まさにこの肉体は船なんです。あるいは乗り物なんですね。乗り物っていう意味はどういう意味だろうか。魂の乗り物ですか?――もちろん魂の乗り物っていう意味でもある。しかし単にそれだけではなくて、乗り物っていうことはどこかに行くわけです。われわれの魂がどこかに行くための乗り物なんです。つまりこれに乗っちゃったからには、どこかに行かなきゃいけないんです。つまりわれわれがある正しい生き方をするならば、この乗り物はわれわれを天や解脱に連れて行く。もしくは来世も人間として生まれ、正しい修行や正しい生き方をさせてくれる。しかしわれわれが間違った生き方、つまり間違った操縦をするならば、この乗り物はわれわれを地獄やあるいは苦しみの世界に連れて行く。だったら意味がないっていう話なんだね。つまり人間という乗り物を得て、グーッと行って、着きました、地獄ですと。何をやってるんですかと(笑)。
でももちろんこういう発想っていうのは普通の人にはない。つまり分からないわけだね。この肉体が乗り物って知らない。知らないからただ目の前に現われた欲望だけを追い求める。目の前に現われた自分の嫌なものを嫌悪する。この繰り返しでただ生きてるから、そのうちに知らぬ間に肉体はわれわれをどんどんどんどん地獄や悪趣の方へと導いてるんだね。
よって、ここに書いてあるように、功徳を積むことによる幸福、それからすべてを超えた解脱の喜び、それを得るためにこそ、この身体を使わなきゃいけない。――この部分は大事だね。つまりこのわれわれの体っていうのはそのためにこそあるんだと。そのための道具なんだと。
前にも何かの話で言ったけども、道具っていう考え方はとても大事なんだね。で、道具っていうのは使い道が大事なんです。これはわたしが小さいころに、まあ学校の先生とか、あとうちのお父さんは家具屋さんだったんだけど、お父さんとか学校の先生とかによく言われてた覚えがある。それは、道具っていうのはすべて使い道があると。で、それはその使い道で使ってこそ意味があるんであって、それをほかのものに使ってはいけないと。つまりどういうことかっていうと、例えば、まあそうだな――じゃあ例えば木を彫るノミがあるとしてね。木を彫るノミがありますと。で、これはもちろん、木をうまく彫るために、そのためだけに作られてる。で、例えば釘を打ちたいと思って、そのノミの例えば柄を使って釘を打つとか、あるいは例えばそうだな、何か、木じゃない何かをちょっと砕きたいと思ってそれで砕くとか。まあいろんなもちろん応用はできる。しかしそれによって、本来のそのノミが持っているその力っていうのは半減するかもしれない。なぜかというと、例えば柄が曲がってしまうかもしれない。あるいはその先っぽが、鋭さがなくなって丸くなってしまうかもしれない。つまりあらゆる道具っていうのはその本来の使い道がある。で、その使い道をまっとうしなきゃいけない。
で、その観点から言って、じゃあ人体、われわれがこの体を持ったっていうことはどういうことなんですかと。それは、ここに書いてある、「徳を積むことによる純粋な幸福」、そして「悟りを得ることによる完全なる至福」――で、まあもう一つ言うならば、菩薩的に言うとね、人々に幸せを与える、あるいは人々を解脱させる、これが菩薩の生き方だね。あるいはバクティヨーガ的に言うと、まあ内容が何であれ、神の意思を遂行すると。そのための道具なんだね。
つまり肉体の快楽、肉体が求める快楽を味わうための道具ではない。あるいはもっと極端に言ってしまえば、生きるための道具でもない。ちょっと変な話になるけども、われわれの目的は生きることじゃない。ある目的のために生きてるんだね。生きることが、なんていうか、目的になってはいけない。本来的には目的のためにわれわれは生きてる。しかしそれを錯覚して、さっき言った、例えば今生植えつけられたいろんな概念、この概念を求めて例えば生きる。例えば「いや、年商一千万なければ、おれは恥ずかしいんだ」と。「さあ、一千万だ一千万だ」――そんなことのために神はあなたに肉体を与えたんじゃないよと。あるいは「さあ、二十代のうちで最高の男をゲットしないと、女友達に恥ずかしい」と。体をいっぱい着飾っていろんな所に行くと。そんなことのためにこの肉体を与えられてるんじゃないと。神があなたに肉体を与えたのは、それによって、さあ修行しなさいと。あるいは徳を積みなさいと。そしてできるならば周りの人々を救いなさいと。それが肉体の意味なんだと。それに気付かなきゃいけないし、あるいはそれを理解できる人は、それを日ごろから自分に言い聞かせなきゃいけない。
まあ皆さんはどれくらい真剣に修行っていうのを考えてるか分からないけど、もし真剣に考えるんだったら、そういうことを日々考えるととてもいいですね。わたしもそういう経験あったけども。例えば何かね、煩悩的なことをすごい追い求めてるとき。あるいは例えば人に対していろんな悪い思いが出るとき。いろんなことを自分がやってしまいそうになるとき。良くないことをね。そういうときにこういうことを考える。「え、この肉体はそんなことのためにあるんだろうか?」と。いや、違うと。わたしのこの身体、この与えられた身体は、そんなことのためにあるんじゃないんだと。わたしはそんなことのために人間界に生を受けたわけではないのだ、ということを日々考えることで、自分のね、生き方を規定する材料にはなるね、こういう考え方っていうのはね。
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