解説「菩薩の生き方」第三十回(3)

はい、そして、今度は「功徳を為す者を見ては、褒め言葉をもって鼓舞せよ」と。
はい、今度は鼓舞という意味での称賛ね。つまりこれはかなり意図的な、鼓舞という意味での称賛。つまり、ここでいう功徳っていうのはもちろん広い意味ね。つまり修行全般と言ってもいい。ある人は頑張って修行していると。あるいはなんか奉仕をしていると。まあ布施をしているでもいいし奉仕をしているでもいいし、あるいは人のためにいろいろやっていると。こういう場面を見たら、鼓舞してあげると。あるいは褒め言葉ね。「素晴らしいね」と言ってあげると。これは、繰り返すけど、意図的なものです。意図的っていうのはつまり、それによってその人がよりいっそうそのような善の実践をしたくなるだろうし、あるいは肯定感を相手に植え付けることになるよね。
ここもだから嫉妬心があって、否定的な態度に出るとさ、相手に対してももちろんマイナスになる場合もあるよね。皆さん、もしかするとあるかもしれない。例えばある人が、そうだな、なんでもいいけど、頑張って――例えばじゃあ蓮華座を五分しか組めなかったのが、十五分組めたと。「やったー!」って言っているときに、「ふんっ」と(笑)。
(一同笑)
「そんなの自慢にならないよ」とか(笑)。まあ、そんな人いないだろうけど(笑)。そんな人いないだろうけど、「まだまだだな」とかね(笑)。ちょっと嫉妬によって――もちろん性格によってはさ、相手の性格によっては、そう言われて「くそー!」って思って頑張る人もいるかもしれないけど、ある人は例えば「頑張ったー!」って思ったのに「まだまだ」とか言われちゃってもうやる気なくす人いるかもしれない。その場合は「ああ、本当に素晴らしいね」と。だって実際素晴らしいからね。だって五分が十五分になったって、これはとても素晴らしい。あるいはこの間までできなかった奉仕が、心から奉仕ができるようになったとしたら、とても素晴らしい。だからそれをさ、例えばネチネチとね、「やっとできるようになったの? おまえ」(笑)。「おまえ遅れてるね!」みたいに言われたらもう嫌になっちゃうよね。だからそれは、もちろん相手のためを考えて、ちょっとでも相手が進歩する、あるいはちょっとでもいいことをやってたら「いやあ、本当に素晴らしいね」と。
これはいつも言っているように、随喜の拡大版ですよね。つまり自分のこともそうだけど、周りのこともよーく見て――つまりさ、いつも言うように、われわれは今、ヨーガとか仏教とかの教え、ダルマに巡り合って、そしてある意味で素晴らしい環境の中にいられるから、ちょっとそのありがたみを忘れているかもしれないけど。魂がダルマとか、あるいは神の道とか神の教えとか、ね、あるいは菩薩の教えとか、そういったものに巡り合うことは非常に難しい。そして巡り合ったとしても、その人に良いカルマがなかったら、ちょっとも、法の、つまり真理の実践はできません。だからちょっとでも法の実践ができるっていうのは、すごく素晴らしいことなんです。
例えばある人がすごく人に対する嫉妬心が強かったのが、教えによって頑張って自分を変えて、ちょっとだけ人を称賛することができたと。これはこの間も同じ例を挙げたけど、ねえ、例えば、実際ここに来てたアメリカ人の人が、それまでは自分が剥いたオレンジを、ねえ、自分が剥いたんだからっていうアメリカ人的な発想で、奥さんにちっちゃい方をいつもあげていたと。それがだいぶ心が変わって、「心から相手に大きい方をあげられるようになりました」ってわたしに報告してきた人がいて。で、わたしは、「おお、それはすごいね」と言ったわけだけど。これもさ、だから、もともと大きい方を人にあげるような性質の人から見たら、「え、そんなの当たり前じゃん」って思うかもしれないけど、やはりそのような合理性、つまり「おれが剥いたんだから」っていう合理性、あるいは貪りの心があって、どうしても小さい方しかあげられなかった人が、大きい方をあげられるようにチェンジしたっていうのは、ものすごいことなんです、これは。もう、なんていうの、世界がぶっ飛ぶくらいの(笑)。もう神々がすごい花の雨を降らすくらいの、すごいことなんです。「すごいことが起きたぞ!」と。もし彼の守護者とか守護神がいたら、もう大喜びします。つまりそういう守護神とかいるからね。守護神が――ちょっと冗談みたいに言うけどさ、守護神が、「おい! 見ろ!」と。「あいつが大きいオレンジを人にあげた!」と。「こんな素晴らしいことがあるだろうか! お祝いだ!」とか言って神がお祝いしているかもしれない(笑)。
(一同笑)
でも本当にそれくらいのことなんです。本当に、ちょっとでもわれわれの心が善に向かうとかっていうのは――つまりこの間も同じ話したけど、つまりわれわれはカルマに支配されているからさ、普通だったらグルグルグルグルとその中を回ってるだけなんだね。貪りのカルマがある人はずーっと貪りの世界しか生きられない。だからこれに変化を与えることができるのは、ダルマとか神の慈愛とかがそこに入ってこないと無理なんですね。で、それらが入ってきて、で、自分もそれを努力してなんとか自分の習性をいい方に変えられたと。ちょっとかもしれないよ。一ミリかもしれない。でもそれは最高に素晴らしい。
もちろんさ、自分のこともそうだけども、周りのこと、人のこともそれはとても素晴らしい。で、もちろんそのような純粋な心もそうだし、それプラス、さっきから言っている意図的な、つまり相手の成長を願って、相手がもっともっと素晴らしい状態になれるように、相手の素晴らしいところを称賛してあげるわけですね。それによって鼓舞すると。
はい、これが、人が例えばいいことをやっていた、あるいは何か素晴らしい進歩があったことに対する対処法っていうことですね。
はい、それから、「(他人の徳をその人の前で誰かがたたえる場合には)喜んで唱和せよ。」と。
これは最初に言っていることと同じだけども、まず前提として、誰かが誰かを讃えていると。それは、同調してね、「いや、本当だね」と。「素晴らしいね」と。これは一つあります。で、さっき言ったように、相手を鼓舞するっていう目的がある場合は、相手本人に対して、「素晴らしいね」と。「ああ、本当にそれは素晴らしい」と言って、相手を、なんというかな、相手に肯定感を与える。あるいは相手がよりいっそうそのような素晴らしい道を歩けるように後押ししてあげるというのがある。でもそうじゃなくて別のケースにおいては、「他人の徳をたたえるのは、その人のいないときにせよ。」――つまりこれは今言った意図的な、相手を鼓舞するっていう目的ではないときにね、単純にまず讃えるっていう状況があるときには、相手がいないときにしなさいと。それは、細かくはこの本文には書いてないわけだけど、この解説でちょっと踏み込んで類推しているのは、「利害関係を入り込ませないための処置ではないか」と。つまりこれは実際そういうケースってありますよね。相手に良く思われたいから相手を褒めると。あるいは、それによって生じるなんらかのメリット、見返りを期待して褒めると。これは一般的にはおべっかであるとか、さまざまなそういうケースってありますよね。だからそれは良くないと。心からの相手への称賛の気持ちが素晴らしいと。実際に称賛することも素晴らしい。で、そこに利害関係が入り込んでしまったらいけないと。よって、陰でというか、つまり相手が、本人がいない場所で褒めるのが素晴らしい。でも繰り返すけど、相手を引き上げる、鼓舞するっていう目的の場合はもちろん相手に直接言うと。でも特にそういう目的がなく、ただ心からの称賛をしたい場合は、自分のエゴや利害関係が入り込まないように。
だからと言って絶対に相手の前で言っちゃいけないってわけじゃないけどね。だからその場合は、そのようなエゴが入り込んでいないか。うん。相手に良く思われたいとか、なんらかのメリットを期待しているところはないだろうかということをチェックしたら別にいいと思うけど。でも原則として、人を褒めるときはその本人がいないところで褒めましょう、みたいな教えがここにあるわけですね。
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