解説「菩薩の生き方」第十三回(6)

【本文】
第三章 菩提心を受け保つこと
すべての衆生の作った、悪道の苦しみを静める浄善を、私は歓喜して喜ぶ。苦しめる者たちに安楽あれ。
私は、衆生が輪廻の苦しみから解脱するのを喜ぶ。また救済者たちがお説きになる菩薩の境地とブッダの境地とを喜ぶ。
すべての衆生に利益をもたらし、すべての衆生に善福を授ける教示者の、発心の大海を喜ぶ。
私は合掌をささげて、一切の方角にまします正覚者に懇願する。――無智のために苦しみに沈める人々に、法の灯火を作りたまえ。
また、ニルヴァーナに入ろうとする勝者(ブッダ)に対し、合掌をささげて私は懇請する。――無限カルパの間、この世にとどまりたまえ。この世界を闇とし給うなかれ。
かようにこれら一切を行なって、私が得た浄善――それによって、すべての衆生のすべての苦しみを滅ぼしたい。
【解説】
大乗仏教や密教には「七支の供養」という修行があります。
それは礼拝(らいはい)・供養・懺悔・随喜(ずいき)・懇願・祈願・回向(えこう)という七つの修行によって、功徳を積むというものです。
そういう意味では、この論書の第一章は礼拝、第二章は供養と懺悔を表現していました。
そしてこの第三章で、まず随喜・懇願・祈願の表現が出てきます。
まずすべての善、解脱、発心といったものへの随喜、すなわち喜びと称賛の表現があります。
そして正覚者たちに対して、どうか教えをお説きくださいという懇願の祈りのプロセス。
そして、ニルヴァーナに入る資格を持った仏陀に対して、どうかニルヴァーナに入らずに、無限の間この世におとどまりくださいと祈る祈願。
このようなプロセスの修行によって、この菩薩は大きな功徳を積むことになるわけですが、そうして積み上げられた功徳を、自分の現世的楽しみや、自分だけの解脱のために使うのではなく、「すべての魂のすべての苦しみを滅ぼす」ことにすべて注ぐ――これが回向です。
そうしてここからは、シャーンティデーヴァの、心からの慈悲の思いの表現が始まります。ここからの部分は、この「入菩提行論」の中でも最も美しくすばらしい部分の一つですね。もっとも、この「入菩提行論」には、「最も美しくすばらしい部分」が他にもたくさんあるのですが(笑)。
はい。この第三章――第一章はまず菩提心の賛嘆。つまり菩提心がいかに素晴らしいかっていうことを説き、第二章において、今言った懺悔の話があって、そして第三章において、ついに菩提心を受け保つと。つまり実際に菩提心の道に入っていくことが説かれるわけですけども、その冒頭でこの七支の供養の――ここに書いてあるとおり、第一章において礼拝が説かれ、そして第二章において供養と懺悔が説かれたので、その続きの随喜・懇願・祈願・回向の祈りによってここが始まってるわけだね。
この七支の供養に関しては皆さん、加行とかやってる人はちょっとずつもらってる人もいると思うので分かると思うけども、大乗仏教における、なんていうかな、基礎的な、菩薩としての徳を積んでくプロセスだね。だからこの考え方っていうのは、もちろん加行として詞章を唱えるとかもいいんですけども、それだけではなくて、日々心構えっていうかな、心の考え方として日々思っていくといいんですね。
礼拝、つまりこれはもちろん五体投地等のかたちのある礼拝だけではなくて、帰依の修行ですね。常にグルや仏陀、あるいは至高者に対する礼拝する気持ち、称える気持ち、帰依の気持ちを持ち続けると。
そして供養もそうですね。徹底的に日々、もちろんマンダラ供養等のかたちある供養だけではなくて、もちろん食事のときの供養も含め、まあ、あるいは実際のお布施とかも含め、さまざまなかたちで供養の気持ちを持ち続けると。
はい、そして日々懺悔を行なうと。これもかたちある懺悔を時間を決めてやるだけではなくて、日々慚愧の念を持ち、あるいは念正智をして、しっかりと自分の悪業を慚愧すると共に、自分はまた新たな悪業を犯してないだろうかと、それをちゃんとチェックして、悪業をいい意味で恐怖し、あるいはさっき言ったように過去に対する徹底的な懺悔の心によって、今からやって来るいろんな苦しみを喜んで耐えると。このプロセスね。
はい、そして随喜のプロセス。これはまあ、いつも「供養と懺悔の会」のときにやってますけども、あのような心を日々持つと。つまり、わたしは――まあ、いろんなパターンがあるけども、まず、わたしは真理のダルマという素晴らしいものに巡り合えたと。なんて恵まれてるんだと。この、明るい、徹底的な喜びの心で常に心を満たすと。なんか日々いろんな小さな、いろんな嫌なことがあるかもしれないけど、そんなことは話にならないと。ね。比較にならないほどの喜びの中にわたしは今いるんだと。人間っていうのはほんとにバカだから、ねえ、神々から見たら皆さんはほんとに、とんでもないラッキーな素晴らしい真理の喜びの中にいるはずなんだけど。で、それはね、皆さんがほんとに過去世からひたすら求めてきたものです。
多分、ね、皆さん過去世で、いろんなときあったと思うよ。あるときは「もうわたしはこれさえあればほかに何もいりません」と。「貧乏でも、顔が変でも(笑)、体が不健康でも、人間関係悪くても、そんなことはどうでもいいです、ダルマをください」と。あるいは「至高者との縁をください」と。こう願った生いっぱいあると思うよ。でも「よーし、分かった」ってそれを与えられると、いろいろ文句が出る。「この状況なんですか?」と(笑)。「この人間関係なんですか?」と。「神よ、なんでわたしはこんな不健康なんですか?」と。「なんであんまりかっこ良くないんですか?」と(笑)。「なんであんまり能力がないんですか?」と。「あの人はこういう能力もあってかっこ良くてこうなのに、なんでわたしはこうなの」――ブツブツブツブツと始まると。これが人間の馬鹿なところなんだね(笑)。この自分が与えられてる、そんなものはもう比較にならない、自分がほんとに求めてきた最も素晴らしいダルマ、真理との縁っていうのに気付かないと。
だからそれを、普段から初心に返って――ほんとにだから「初心に返る」っていうのはすごくいい言葉ですよね。ほんとの意味で初心に返る。魂の初心に返るんだよ。魂の初心に返ると。これこそがわたしの求めていたものであると。そしてプラス、日々の小さな進歩、あるいは小さな、これは自分も他人も含めてね、自分や他人の小さな修行の進歩、あるいは心の成熟、あるいはまあかたちある修行の達成も含めてね、心から喜ぶと。それこそがわれわれの、なんていうかな、喜びなんだと。自分が、例えば以前よりも怒りが減ったと。もう、ほんとに冗談じゃなくてね、「あっ!」て気付いたら、「あれっ、怒り減ってるじゃん!」と。「ウワーッ!」と(笑)。「ウワッ!ウワッ!ウワッ!」と。
最近っていうか、フェイスブックとかでYouTubeとかいろんな映像が上がってくるじゃないですか。あれで、なんかオーバーアクションの映像がよくありますよね。例えばなんか子供がお父さんに、サプライズでプレゼントをもらったと。すごく欲しかったのが、そこで子供が「ウワッ! ウワッ!
ウワッ! ウワーッ!」とか、そういうのがYouTubeにあったりする(笑)。
(一同笑)
で、それは確かに、その子にとってはそれだけのものがあったんだと思う。でも、皆さんが得ているもの、例えば修行によって怒りのカルマがちょっと減った――これはすごいことです。もう、とんでもないことです。それくらいの――もちろん表現はしなくていいと思うよ(笑)。表情とかはすましてていいんだけど、心の中では、「ウワーッ! ウワーッ!」とかもう、ロケットがドーンって(笑)、
(一同笑)
花火がパーッてなって(笑)、「ウワーッ!」と。「なんてわたしは幸福なんだ!」と(笑)。うん。
あるいは、例えばね、教学をしてて、以前は「先生何言ってるんだろう? 全然これは分かんねえ」と思ってたのが、「あっ、分かった」と。「意味分かった! ウオー!」(笑)。またロケットが発射して(笑)。こういう感じで、日々の小さなことを――これはもちろん慈愛をもって、他人を見てもそうですよ。他人に関しても、「あれ? 君、蓮華座組めないの? 頑張ろう!」――で、パッと久しぶりに見たら、「組めてる!!」(笑)。
(一同笑)
「組めてる! く、く、く、組めてるじゃないか!!」と(笑)。「すごいじゃないか!」――これね(笑)。もちろんこれも、表現するかはどうかは皆さんに任せるけども(笑)、でもこれだけの思いを持って、自分、そして慈愛を持って他人のことをね、見ると。つまりこれがね、ほんとの称賛の意味なんです。
称賛の意味っていうのは、ちょっと長くなるので短く言うけども、何に価値を置くかなんだね。つまり世俗に価値を置いてる人は、世俗においてこういうこといっぱいあると思う。例えばほんとにマニアックに世俗の何かにはまってる場合ね。もう、はまってない人には理解できないことっていっぱいあるじゃないですか。例えばわたしもよく知らないけどさ、「あのアイドルのあの券が当たった!? ウオー!」ってやってるマニアとかいっぱいいると思うよ(笑)。そんなのわれわれにとってどうでもいいじゃないですか(笑)。どうでもいいけども、つまりわれわれが何に価値を置いてるかによって、その喜びの、何に喜びを持つのか、あるいはそれがどれだけ大きいものなのかっていうのが変わってくる。
だから皆さんがほんとにこのダルマに関するものに価値を見出し、で、それが、ほんとに出合うことすら難しいわけだから、そこにおいて自分の心が変化するっていうことが、あるいは修行がちょっとでも進歩するっていうことがどれだけすごいことなのかっていうことを、皆さんがほんとに納得してたら――もう一回繰り返すけども、少なくともまず自分のことに関しては随喜が出る。ほんとにわたしは――もちろん世俗の人は誰も理解してくれないかもしれないが、例えばクンバカが十秒延びたとかね(笑)。その辺の人に言っても「え?」って感じですよね。あるいは蓮華座が組めたとかさ。もちろん心の問題が一番大事だけども。以前持っていたけがれが少なくなったと。これは心からもうほんとに――なんていうかな、宝くじが当たったどころじゃないよ。あるいは、自分のほんとに愛してる人と結婚できたとか、そんなことどころではない。もう地球がひっくり返るくらいの喜びであると。そしてさらに、そこに慈愛という要素が加わることによって、他者へもその喜びを見出すと。
まあ、もちろんさ、同時に謙虚な心は持たなきゃいけないんだけど。謙虚な心っていうのは、修行っていうのは終わりがないんだと。だから、そこで完全に満足しちゃいけないんだけど、満足はしてはいけないが随喜はしなきゃいけない。もう心から喜ぶと。そして、さあ次だと。これだけのものを達成できたんだから次も達成できるはずだと。そして、これだけのもの、このベクトルが明らかにあるわけだから、将来当然わたしは仏陀になれるはずだと。この喜びを持って一つ一つ進んでいくんだね。
これもだから、かたちある随喜の詞章を唱える、賛嘆の詞章を唱えるのも大事だけども、それプラスその気持ちを常に持ち続ける。だからこの気持ちを持ってる人は、みんな明るいはずです。カイラスの人はもちろん明るい人が多いけども、もっともっと明るくなる。うん。それは表現しなくてもいいんだけども、ほんとに心がもうウキウキであると(笑)。「え、今日もあなたウキウキしてるけどどうしたの?」と。「だって真理に巡り合ったんだもん!」と(笑)。次の日もウキウキしてると。「え、どうしたの?」「だってカイラスに巡り合ったんだもん!」と(笑)。これでオッケーです。もちろん、だからといって表現はしなくていいんだけど、気持ちにおいてね。そして、それによってすべてが吹っ飛ぶ。いろんな嫌なことがあったとしても、そんなこと全然その比較になりませんよと。その気持ちね。
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