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4.精進の完成--智慧の光


4.精進の完成--智慧の光

 菩薩の修行の第四番目は精進。そしてそれと対応するのは、智慧の光、または智慧の炎と呼ばれる段階です。
 
 忍耐の段階でも光という要素が出てきましたが、ところで仏教やヨーガでいうところの光とは、一体何なのでしょうか?
 
 まあ実際は、さまざまなタイプの光がありますので、一くくりでいうことは出来ないのですが、単に観念的なものでないことは確かです。しかし単に視覚的なものでないことも確かです。
 
 さて、これも私の体験の話になりますが、忍耐から精進への修行の移行のプロセスの話をしましょう。
 精進。もちろん、修行においても、他のいろいろな分野においても、精進、努力というのは大切なことであるし、皆さんそれぞれの分野で精進されている人はたくさんいらっしゃることでしょう。

 ところで修行を志し、特に菩薩の修行を志し、がんばって修行をしていると、忍耐のプロセスでも書きましたが、自然にカルマの浄化のための苦しみの時期というのがやってきます。
 それはカルマを浄化するという意味でもありますし、強い心を作るという意味もあるかもしれません。
 そしてもう一つは、【覚悟を決める】ためのプロセスでもあるという感じがします。 それはどういうことでしょうか?
 私の場合、私はもともと楽天的な性格でしたので、あまり日々、苦しいとかつらいとか感じることはそんなにありませんでした。
 それは修行においてもそうで・・・というより修行は私にとっては趣味みたいなものでもありましたから(笑)、傍目に厳しい修行と思えるものでも、楽しくやっていました。
 しかしある時期、まあそれは一年くらいの期間だったのですが、ものすごい苦悩の中に放り込まれたことがありました。
 それは実際に、さまざまなトラブルが起こり、自分を苦しめる現象が起こり・・・ということもそうなのですが、それだけではなく、自分の心も、なんというか心の皮をはがされて肉がむき出しにされたような感じで、ちょっとしたことでも死ぬほどの苦しみを感じるような精神状態になっていました。
 あまりの苦しみに、死ぬのではないかと思ったほどです(笑)。冗談ではなく、人は精神的苦しみによって死ぬことはありうるな、と思いました。
 しかし修行というものに対して、あるいは仏陀やヨーガやその真理というものに対して、あるいは自分が歩いている道に対して、確信があった私は、逃げずにじっとその環境に耐えていました。
 しかしその【耐えている】というのは、実際は、「しょうがないから逃げないで耐えるけど、早く通り過ぎてくれないかな」という感じですね(笑)。当たり前ですけど、普通そうですよね(笑)。
 それは言い換えれば、常に逃げ道を用意しながら、耐えているフリをしているようなものです。修行の初期ではそれでもごまかせますが、本当に自分の心のステージを上げていかなければならない時期になると、逃げが許されなくなります。その逃げ道を一つ一つつぶされるように、その自分のエゴの部分に対して、これでもかとこれでもかと、苦しみがぶつけられます。本当に、誰が見ているわけでもないのに、こういうことが自然に起きるのですから、修行というのは面白いものです。 
 で、そういうふうに追い込まれて、でも自分はこの道を歩いていきたい、というこの矛盾というかギャップが極限に来ると、「ええい、もういいや!」となります(笑)。
 ここで「ええい、もういいや!」と言って逃げていく人もいるかもしれませんが(笑)、もちろんそれではだめです。そうではなくて、「ええい、もういいや!」という感じで、立ち上がり、その苦悩に対して、「じっと耐える」ではなくて、その苦悩に向かって自分から喜んで突き進んでいくような精神状態になります。
 私はこれこそが「忍耐」から「精進」への移行の、一つの意味ではないかと思いました。忍耐の段階では、苦しいけどじっと耐える、という感じですが、精進は、喜んでその自分のカルマ、課題を、全力で生きるようになります。そしてこれはヨーガでいうと、カルマ・ヨーガと非常に近いと思われます。
 カルマ・ヨーガにはいろいろな意味があるのですが、今書いたようなものも、その意味の一つです。自分にやってくる苦しみは全部自分のカルマです。逃げると、また新たなカルマが生じます。ですから逃げずに喜んで、その環境や苦悩を全部引き受け、喜んで、やるべきことをやるのです。進むべき道を進むのです。衆生のために解脱を目指すのです。 
 繰り返しますが、それは、「まあ、しょうがないから耐えるか」ではなく、「よし、一年分の苦しみを一ヶ月で全部経験してやるぞ」くらいの、積極的な、攻めの姿勢なわけです。
 私がこのような精神状態になったとき、そのときにあった苦しみは瞬間的にすべて消えました。なぜならそれまで逃げていないと思いつつも実は逃げていた心、その心が、苦しみの感覚を増大させていたわけです。
 しかし逆にこちらから苦悩を追い求めるような感じになると、逆に極端に苦しみに強くなります。 
 私はこのころ、「極限的に自分の心を苦しめよう」と思いました。理想ではなく、心からそう欲求したのです。そうすると、逆にそれまで苦しいと感じていた環境が物足りなく感じました。なんだかんだいっても、「極限的な苦しみ」というのはそうそうあるものではありませんから。
 といっても、本当にあらゆる苦しみに耐えられるようになったわけではありません(笑)。調子に乗ってどんどん苦悩へ飛び込んでいたら、最後のほうはさすがに苦しくなりました(笑)。信じられないような過酷な精神状態に追い込まれたりしました。本当に、私がヨーガをやっていなかったら、精神が崩壊していたかもしれません。というか、ヨーガをやっていなかったら、こういう激しいカルマの浄化も生じなかったかもしれませんが(笑)。

 まあ、とにかく、この精進の段階は、初めて、真理に対して本当の意味で覚悟ができる段階ではないかと思います。誤解を恐れずに言えば、菩薩の修行のために、たとえ死んでも、仮に地獄に落ちても、心身を八つ裂きにされてもいい、というような心に近づいていきます。もちろん、私自身はそのような心を完璧に身につけたわけではありませんが、そういう心を完璧に身につけるための扉が開かれたような感覚があります。 
 だから「忍耐」から「精進」への移行は、徐々にではなく、はっきりとした移行の扉があります。その扉の先は、たとえれば何も無い崖にエイッと飛び込むようなものではありません。崖に飛び込むのは、ある意味、簡単です。瞬間だけ勇気を出せばいいわけですから。そうではなく、恒常的に襲ってくる矢の雨の中を、喜んで一歩一歩、着実に進んでいくようなものです。だからそれはごまかしや逃げではその道は歩けません。修行や真理、菩薩の道に対する本当の信がないと難しいものです。
 
 さて、長くなってしまいましたので、これについてはこの辺にして、もう少し説明を先に進めましょう。

 この段階では、智慧の光、あるいは智慧の炎と呼ばれるような菩薩の段階が生じるとされています。
 智慧の炎っていうのは、言葉としてはかっこいいですね。精進という段階にぴったりですね。侵略すること火のごとく、という言葉もありますが、炎のように、修行の道を進むのです。しかもそれは、無鉄砲ではありません。
 人間は、知性があるから恐怖を感じる、という言葉があります。これは正しいと思います。無智な者は、無鉄砲な勇気を持ちます。しかしこの者が少し知性を身につけ、対象の恐ろしさを少し知ると、恐怖の感覚が生じます。
 しかしさらに菩薩が智慧を身につけると、今度は無智の無鉄砲ではなく、智慧による勇気が身につくわけです。自分の歩く道の正しさに確信があるわけですから、その勇気は確固としたものです。智慧から生じる勇気を持って、炎のように菩薩の道を進むのです。

 そして智慧の光とはなんでしょうか?

 最初に書いたように、修行における光というのは、さまざまな意味、あるいは段階があります。ここでいう智慧の光というのが、どの段階のものを指しているのかはハッキリとしませんが、ここは最初に書いたように学術的な探求はせず、私の経験から来るフィーリングと理解のままに、私見を書かせていただきます。

 仏教でもヨーガでも、神通力(シッディ)は不可欠です。なぜならその神通力を使って、真実を探求していくからです。
 ここでいう神通力とは、もちろん、スプーンを曲げるとかいうレベルの超能力のことではありませんし、あるいは霊を見るとかオーラを見るとかいう霊能力でもありません。
 たとえば死と来世の秘密を知る。神と会話をする。自分の遥かな過去世を知る。相手の心の光を見る。そして究極の真実を見極める。これらが、仏教でいうところの代表的な神通力です。 
 よく無明という言葉を使いますが、この無明というのは明が無いということですが、この明というのはヴィディヤーという言葉で、これはヨーガでは神秘的な超能力という意味で訳されています。

 この「智慧の光」の段階では、実際に仏陀や菩薩や聖者方を視覚的に見、教えを受けるとも言われています。

 つまり智慧というのは観念的なものではなくて、積極的なそういう能力が必要なんですね。そしてそういったものの源となる光があります。だから「明」なんです。
 この光は、我々の内側にあります。何度もいいますが、それにもさまざまなレベルがあります。

 たとえば生来的な内側の光を認識していく「光のヨーガ」という修行があります。私はこの修行をまだやったことがないとき、自然にこの修行で体験される光の経験を経験したことがありました。

 私の感覚では、あらゆる神秘的な「真実を見る力」のベースに、この内側の光が必要です。それは智慧の土台となるので、「智慧の光」といってもいいかもしれません。
 
 そしてこれは、最初にも書きましたが、視覚的光でもあるし、かつそれだけではありません。しかし視覚的ではない光の感覚について説明するのは難しいので、視覚的な部分に関して説明をしていきましょう。

 私はよく、薄暗がりの部屋で瞑想すると、眼をあけてボーッとしているよりも、眼をつぶった時のほうが明るい、という面白い経験をすることがあります。そして集中した状態で外の世界を見ると、外の世界もまた、光って見えます。
 あるときには集中しようとしまいと、眼を開けてもつぶっても、世界が光って見えます。特に眼をつぶったほうが光って見えるのですが、これは暗いから余計に光が際立つのでしょう。

 あるいはチャクラに梵字を観想していく瞑想があるのですが、これをやると、その梵字が燃えるようになり、そして光を発します。これは中央管において光が発するので、エネルギーが中央管に入ったときに生じる光ではないかと思います。あとで気づいたのですが、チャクラに梵字をイメージし、そこから光が発されることをイメージする瞑想があります。私はそれを意識的にやったわけではないのですが、本当に光が生じたわけです。

 ところで、こういった段階の光以前にも、修行においてはさまざまな光を経験します。だから気をつけなければいけません。修行体験が少ないと、自分の感じている光がどの程度のものか、わからないからです。たとえば私は昔、瞑想していて、自分の体が光そのものになる経験をしました。それはそのときはすごいと思ったけれど、今考えると、全く初歩的な経験にすぎませんでした。

 プラーナと呼ばれる生命エネルギーは、ヨーガ修行等をすると、実際に見えるようになる人は多いようです。生まれつき見える人も結構います。

 さて、かなりばらついた話になってきましたね(笑)。光については、またいつか機会を改めて、体系的にまとめてもいいかもしれませんが、あまりにも膨大な作業になるでしょうね(笑)。今回はあえてばらついた感じのままにしておきましょう。

 ところで、仏教では我々を苦悩の世界に引きずり込む煩悩を根本まで追求すると、それは貪り・憎しみ・無智の三つに行き着くといわれます。これを三毒といいます。
 そして布施・慈愛の修行によって、このうちの貪りが滅していくでしょう。なぜなら貪りとは「すべてを自分のものしたい。幸福を独り占めしたい」という心であり、布施・慈愛とは、「すべてを他者に与えたい。自分の幸福を他者にささげたい」という心だからです。
 では憎しみへの対抗策は? それは当然、三番目の忍耐・哀れみの実践ですね。忍耐のところで説明したように、憎しみとは言い換えれば「自分の苦悩を人に押し付けたい」という心であり、忍耐・哀れみとは、言い換えれば「他者の苦悩を全部引き受けたい」という心だからです。
 二番目の持戒は、「自分のエゴで他者に不幸を与えない」と考えると、一番目と三番目をそれぞれフォローするものと考えてもいいでしょう。

 さて、そこで次に精進において、「智慧の光」が登場するわけです。この「智慧の光」が「無智の闇」を退治するのは理解できるでしょう。

 つまり慈愛と哀れみと智慧によって、貪りと憎しみと無智という三毒が破壊されるわけですね。
 
 きれいな法則ですね(笑)。

 まあ、これも学術的には誰かが言っているわけでもないし、経典に書いてあるわけでもありません。あくまでも私の私見であることをお断りしておきます。

 
 さて、経典では、この段階では、七科三十七道品をはじめとする、さまざまな修行を余すところなく修めるといわれています。

 かなりばらついてしまいましたが、少しだけまとめますと、この段階の精進というのはカルマ・ヨーガといってもいいと思います。つまりすべてを受け入れ、すべてのはからいや思案を捨て、ただ生きることそのものに、精進そのものに、修行そのものに、喜びを持って精進する段階。そこには理由なく、ただ修行と慈悲に精進するのです。なすべきことに精進するのです。理屈抜きで、精進そのものになるのです。 
 そしてその結果としてすべての真理を明瞭に解き明かす土台としての光が生じ、それがどんどん成長していくのではないかと思います。

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