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2015 マハーシヴァラートリ講話より(1)

20150218 マハーシヴァラートリ

 今日はシヴァラートリね。シヴァラートリというのは、シヴァの祝福の日ということで、まあ毎月あるわけですが、その中でも最も大きな――一年でね、一番のシヴァの祭典がこのマハーシヴァラートリですね。で、まあインドの一応、暦では、正確には昨日がそうだったんですが、まあちょうど今日水曜日なんで、まあカイラスでは今日このマハーシヴァラートリの祭典を行ないましょうと。それから偶然と言ったらあれだけど、チベットとかの暦では、今日が大晦日なんだね。明日がチベット暦の新年であると。まあですから、このマハーシヴァラートリの供養とその他儀式によって、またね、しっかりと浄化して、まあチベット暦で明日正月ですので、またしっかり生まれ変わるというための会にしたいと思います。

 はい、今日はシヴァの祝福の日ですが、シヴァはまあ皆さんもご存知のようにね、破壊神であり、まあ非常に厳しいイメージがあるわけですが、まあ同時に、まあ優しいというかその、まあ歌にもあるようにね、陰からわれわれを大変な慈愛で見守り、導いてくださる神であると。で、もちろんその優しさとか慈愛っていうのは表面的なものではなく、われわれをね、本質的に導くものですね。
 わたしもそうだけど、例えばわたしは皆さんに、まあなんていうかな、本当の意味で幸せになってほしいと思う。でも、一般的な意味では幸せになってほしいとは別に思わない(笑)。本当の意味で、つまり――まあ言い方を換えれば、菩薩になってほしいと。あるいは真の意味でのバクタになってほしいと。
 もちろんそれはシヴァの願いでもあり、もちろん、ね、ヴィシュヌ神やブッダ、あらゆる至高者の願いでもあるわけですけども。特にそのシヴァっていうのは、激しいかたちでわれわれをしっかりと導いてくれる。
 シヴァは破壊神といわれるその意味は、いろんな意味があるわけだけど、まあ修行者の観点から言うならば、われわれのね、その間違った心、あるいは間違った方向性を常に破壊してくれる。だから今日のこのマハーシヴァラートリを境にまた、われわれはね、自分を省みて、心を入れ替えなきゃいけない。
 例えば、われわれはすぐに間違う。自分のエゴを破壊することが修行であるにも関わらず、がんばってエゴを守る。あるいはいかに自分よりも他者のために生きるかというのが菩薩の理想であるにも関わらず、他者を嫌悪し、あるいは他者と自分の比較の中で、いかに自分の優位性を保つかという心に落ち込むと。あるいはいかに謙虚に、グルや神に自分を明け渡すかっていうのが理想だったにも関わらず、気を抜くとすぐに小さなことで慢心に陥り、まるで自分が神やグルより偉いかのような傲慢に陥ると。このような迷妄の中にいるわれわれに対して、このシヴァは常に鉄槌を落とし(笑)、修正のための、なんていうかな、まあ苦しみというよりは、まあまさに鉄槌を落としてくれるわけですね。
 まあ「月光」の歌にもあるように「我執を破壊する歓喜のダンス」ってあるけど、当然これは、シヴァ、というよりは本質的な目から見たら、まさに歓喜のダンスです。つまりわれわれの間違った心を本当の意味での幸せになれるための、道に引き戻してくれるためのダンスなんだね。このダンスっていうイメージはつまり、シヴァがわれわれのエゴを破壊し、あるいは心を修正するために、まあまさに踊ってるイメージですね。うん。超偉大なシヴァが踊るわけだから、もうめちゃくちゃになります(笑)。シヴァの踊りによって、われわれのこの世界はめちゃくちゃになる。しかしそれは、もう一回言うけども、大変嬉しいことであると。われわれの間違った心、あるいは間違った方向性を破壊してくれる。
 でもこのね、あの、基本的な自分への厳しさっていうかな――あの、何度も言ってるけどさ、例えばバクティヨーガっていうのは、まあ表面だけ見ると、大変――まあよく浄土系の仏教とかにも似てて、よく「易行」と言うわけですね。易行っていうのはその、易しい行と。表面だけ見ると大変易しい修行に見えるわけだけど、でもそれは大前提があるんだね。大前提っていうのはまさに、誠実で、そして自分に厳しい修行者としての姿勢っていうのがまず大前提としてあって。で、その上に乗っかってくるのがバクティだからね。一切をお任せし、ただ何もする必要はないと。ただ神がすべてやってくださるっていう発想ね。で、そのベースには、常に自分に厳しく、常に自分の理想から一ミリでも離れることを許さないっていう意識ね。これが必要であると。
 ヴィヴェーカーナンダの言葉で、あの、「利己性――つまりエゴが強ければ強いほどシヴァから離れてる」っていうのがあるね。われわれが利他、つまり自分よりも他の幸福を願う心が強ければ強いほど、それはシヴァに近いんだと。そうじゃなくてわれわれの心が利己、利己性に満ち、エゴに満ちている人が例えばいくら、ねえ、シヴァの格好しようが、あるいはシヴァの聖地を訪ねようが、ねえ、あるいはシヴァの教えを学ぼうが、その人はね、シヴァから遠いんだと。
 シヴァっていうのは――今日はあんまり長く話しませんが、まあいつも言っているように、仏教的にいう観音様、アヴァローキテーシュワラの名前のもとになっているイーシュワラ、あるいはね、実はあの仏教における世界観でいうと、色界、つまりアストラル的な世界の最高の世界、これをアカニシタ天ね、アカニシタもしくは色究竟天といいますが、ここの主、これは実はマヘーシュワラ、つまりシヴァ神なんです。仏教でも色界の最高の存在をシヴァと言ってる。ね(笑)。で、この色界っていうのはつまり報身――いわゆるその、本来は形も姿もない絶対者が、われわれを救うために形を持って現われた世界の最高の世界です。ここの最高の存在として、シヴァをおいてる。で、この色界は別の言い方すると、四無量心の世界なんだね。つまり慈悲喜捨の四無量心。その最高の完成状態の世界がアカニシタです。で、そこの神が、神っていうかな、主神が、シヴァであると仏教でも言ってる。つまりそういうイメージがあるんだね。つまりその、大変な、まあ慈愛というかな、慈悲の持ち主であると。で、常にわれわれをいかに救うかということで頭がいっぱいであると。しかもそのやり方は非常にストレートであると。非常にそのストレートにわれわれの間違いを打ち砕き、正しく導いてくれる。
 しかしわれわれの側が迷妄なので、あるいはすぐに初心を忘れるので、そのシヴァの愛が分からない。まるでシヴァがわれわれに苦しみを与えてくれてるかのように――まあつまりその、かっこよく言ったりするよね、「シヴァがわれわれに苦しみを与えてくださってる」と。でもそれは、もちろん苦しみじゃないんです、本当は(笑)。苦しみって感じること自体が、われわれの迷妄であってね。しかしもちろん当然、ねえ、迷妄から脱せないうちは、その神の導きによる厳しい道が実際に苦しく思えるかもしれない。でもそれはね、あの、覚悟をもって挑まなきゃいけない。
 最初の話にちょっと戻るけども――あの、まあこういうこと言うとちょっと厳しく感じるかもしれないけど、ちょっとストレートに言うとね――まあこれは深い意味としてとらえてほしいんですが、――修行者が、自分の幸せを願ったら終わりです(笑)。
 厳しいね(笑)。うん。カイラスは深く入れば入るほど厳しくなってくる。もちろんみんな、幸せを求めてヨーガを始めるわけだけど。だんだん、教えが深くなってくると、「幸せを求めたら終わりだ」とか言われて(笑)。
 でもそうなんです。でもこの意味分かるよね? さっきから言ってる話でいうと、もちろん、実際には皆さん、この道を行くならば、本当に幸せになります。本当の意味で幸せになる。でもそれは、じゃあ、ね――で、皆さんだったらもちろん、知性によっても分かると思う。知性によって分かるっていうのは、皆さんのエゴが求めてる幸せは、絶対幸せにはなりません。それは必ず一時的には錯覚による幸せがあるけども、それはすぐ終わるし、すぐ終わるしそのあとそれは余計に皆さんを苦しみに結び付ける。
 じゃあ本当に本当に本当に幸せになるにはどうしたらいいのか?――幸せを求めるなと。ね。そして当然それから一歩進んで、皆さんの場合は素晴らしい菩薩やバクタのカルマがあるわけだから、もうなんていうかな、そこに――いつも言うけども、ちょっとでも、あるいは一度でも心が惹かれたならば、あるいはちょっとでも発願をしたなら――あるいは皆さんカルマいいから、あの、いつのまにか歌とか歌ってるうちに発願しちゃってると(笑)。その、それを、なんていうかな、貫く心が必要だね。何があっても貫く。
 チベットのね、チベットの、チベット仏教のことわざで――ちょっとね、あの、正確じゃなんかもしれないけど、「真理のダルマをわが心の究極の安らぎとする」と。そして、「激しい修行をダルマの究極の安らぎとする」っていうその、まあいうような言葉がある。つまり安らぎなんです。
 あの、まず、われわれにとっての安らぎっていうのは、まず真理のダルマしかない。うん。すべての、ね、幻のようなこの世のさまざまな安らぎっぽいものっていうのは、全部、魔の誘惑であって。
 真理のダルマといわれる――まあ逆に言うとわれわれはその、真の安らぎの真理のダルマというものに出会ってる。これをまず喜ばなきゃいけない。そしてその真理のダルマの見地における、最高の安らぎ――これはまさに激しい修行であると。
 あの、シヴァはよく苦行をお喜びになるっていうけども、ここでいう苦行っていうのは、まあ『バガヴァッド・ギーター』とかでも言われてるように、簡潔に言うと、全力で妥協なく理想通り生きるっていうことです。教え通り、あるいは自分の理想通りに生きる――当然これは苦行になります。
 だってそれは皆さん、自分自身見てれば分かるでしょ? つまりその、さっきも言ったけども、例えばある理想を持つと。で、一ヶ月後にはもうエゴがものすごい大暴れしてると。大暴れしてて、もう全然理想通りいっていないと。うん。で、これをですよ――つまり、理想を持ちました、輝かしい理想を持って歩き始めました、でも、すぐにもうめちゃくちゃにダメになっちゃう。これを、ダメになるな!――っていうことです(笑)。ダメになるなと。そのまま行けと。「いや、苦しいです!」――いいから行けと。これ、苦行でしょ(笑)? これこそ最高の苦行。片足でずっと立ち続けたってなんの意味もない。断食をね、一ヶ月ぐらいしたってなんの意味もない。あるいは、体中を針で刺して血だらけになりながら瞑想したってなんの意味もない。そうじゃなくて、いかに自分が一度でも立てた理想を、どんなカルマの障害があっても、どんな魔の誘惑があっても、貫き通せるか。これが本当の意味での価値ある苦行ですね。そしてそれを当然シヴァはお喜びになる。もちろんシヴァだけじゃないけどね。至高者あるいは菩薩方、あるいは神々は、当然そのような皆さんの姿勢をお喜びになる。

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