yoga school kailas

2006・9・3「解説・入菩提行論」読書会 その⑥

ヨーガスクール・カイラス 勉強会より
2006年9月3日 「解説・入菩提行論」読書会 その⑥

※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。

 …はい。ここで第一章はまぁ、終わりになりますが、なんか最後にこう、質問ありますか? ちょっと今日はもう時間が、あの、えー、来たので、あとは質問があったら質問だけとって終わりたいと思いますが、今日の話と関係があっても全く関係がなくてもどちらでもいいです。…はい、なんかありますか。」

Cさん「あ…アラハン」

先生「うん」

Cさん「アラハンが解脱していて、・・・で、智慧があって、菩薩の素晴らしさも、もちろん分かるんですよね。」

先生「いやいやいや、それは分かる人と分からない人がいる。つまりアラハンっていうのは、あのー、ニルヴァーナへの資格があればいいんです。でニルヴァーナの資格があるっていうのは、あの、輪廻を発動させる、あのー、煩悩の動きが止まっていればいいんです。だから不完全なんだ。だからそれしか条件がないっていうか。

 もちろんだから、アラハンっていう存在には、ピンからキリまでいるわけだ。高い智慧を持ったアラハンもいるだろうし。
 だからアラハンっていうと、その、幅広すぎるんだけども、だからお釈迦様の弟子でもね、あの、まぁ、誰にも教えを説かずに、例えばだよ、お釈迦様の弟子って色んな一人一人エピソードがあってね、例えば何とか第一、例えばアヌルッダ、天眼第一と。あのー、心の目によって、あらゆることを見抜くことに一番長けていましたと。あるいは、マハーモッガッラーナ、神通第一と。色んな超能力を使って、人々を救うことが一番優れていたと。サーリプッタ、智慧第一と。真理を見抜く目が一番優れていた。で、そん中でねぇ、バークラっていう弟子がいて、バークラのエピソードは、あの、生涯、一度も説法をしなかったってある(笑)。全く人に教えを説くことに関心がなかったという(笑)。
 それはそれでいいんです、彼らにとっては。別にそういう人がいてもいいっていうか(笑)。
 だからそういう人、全く菩提心であるとか、そんなんに、目覚めてない人もいるんだね。んー、それでもニルヴァーナへのパスポートはあると。だからピンからキリまでいるね、うん。」

U君「アラハンになってから菩薩に目覚める場合もあるんですか」

先生「もちろんあると思う。それはやっぱり縁だろうね。
 だからアラハンっていう言葉を使うとあれなんだけど、あのー、本当の意味での菩薩道は、やっぱり解脱してから始まるのかなって思うね。んー。っていうのは汚れがあるうちっていうのは、あのー、やっぱりさっきも言ったけどね、志があっても、あの、実質が伴わなかったり、あるいは、あのー、そうだな、ちゃんとした智慧が備わっていない限り、あのー、志があっても、本当に相手にとって正しいことをやってあげられなかったりする。だから、本当は一番いいのは、自分は解脱しましたと。はい、そして私はありのままに全てを見ることができますと。入りたければニルヴァーナに入れますと。しかし、ぐっとこらえて、皆のために生きましょうと。これが一番いいんだね。
 あの、それはあの、なんだっけ、ラーマクリシュナの話でもあって、これも前にも言ったけど、あのー、解脱の境地っていうのは、こういうもんだと。比喩だけどね。あのー、一生懸命階段を上がって、階段の向こう側が解脱だと。で、その壁の向こう側を見てしまったら、あまりの、想像を絶する、予想以上の、素晴らしい世界に、我を忘れて、普通飛び込んじゃうんだよね(笑)。普通はね。 ほとんど十中八苦飛び込んじゃうんだね。でもそん中でも慈悲の強い者は、『すげーー!!』って思いつつ、ぐっとこらえて(笑)、うぅっとこらえて(笑)、こう降りるんだね、階段を(笑)。で、皆を呼びに行くと(笑)。

 で、大乗仏教においては、もちろんこれは理想なんだけど、大乗仏教ではやっぱり同じこと考えているんだね。あの、準備なしに解脱しちゃうと、行っちゃうんです。よって、解脱する前に、発願をいっぱいさせるんです。例えば、菩薩の、えー、詩章とかね。つまりその、あの、……まぁ、じゃあCさん、発菩提心の詩章、言ってみて。」

Cさん「ホー、水に映る月のような、様々な虚像に引きずられ、輪廻の鎖の輪を浮沈する生き物たち。彼ら全てが、リクパに光り輝く法界に安らうことができるよう、四無量心込めて菩提心を発こします。」

先生「はい、このような一つの宣言があるんだね。これはまぁバーーーっと言ってみると分かりにくいけども、言葉で、あ、心を込めて考えるならば、つまりその、まぁちょっと言い方を変えるとね、全ての衆生が、リクパに輝く法界、まぁこれは解脱の境地と考えていいです。つまり全ての衆生が解脱するまで、私は、菩提心、つまり、あのー、えー、衆生のために働きますよと。四無量心を持って働くでしょうと。そのような誓いをまず出しているんです、簡単に言うと。
 衆生が、完全に解脱するまでは、私は自分一人では、あの、あっちに行っちゃいませんよと。そのような誓いを繰り返し繰り返し最初にさせるんです。あるいは、いっつもやってる慈悲の瞑想とか、色んな形で繰り返しその、ものを、ぐーーーっと植え付けておいて、解脱した時には、さっき言ったみたいに、ぐっとこらえられるんです。『おぉすげぇ!』って思うんだけど、『いや!俺は菩薩だ』と(笑)。ちょっと辛いけど、辛いけどっていうか、あの、なんっていうかな、まぁだからねぇ、逆に言うと、ちょっと、あの、それはちょっと深い話というか、ぶっ飛んだ話になるけども、あの、その、段階に入って、衆生を救う道を選んだ人こそを、本当の菩薩と言ってもいいかもしれない。なんでかって言うと、まだ我々は、知らないんです。その素晴らしい世界を。で、もう一つ言えるのは、その素晴らしい世界と対比して、この輪廻の苦っていうのを本当は知らないんです。
 解脱するイコール何かっていうと、輪廻の苦っていうのが本当に分かるんです。これはもう、触れたくもない(笑)。
 触れたくもないこんな世界。で、もう、早く行っちゃいたいあっちの世界(笑)。これが心から分かった上で、でも、皆のためにこっちに行きましょうと、こうなって始めて菩薩なんだね。でも我々はまだ、あの、中途半端なんだね。あんまり、この世が苦なんですよとか口では言いながら、まぁでも結構いいじゃないかとか思ってて(笑)、で、ニルヴァーナの素晴らしさもまだそんなには分かってないと。頭でしか分かってない。この段階で、よし、衆生のために生きましょうとか言っても、まだなんか真実味がないんだよね。だから本当に自分が悟りを得た段階で、でも私は菩薩道を行きましょうっていうのが、まぁ本当の意味での菩薩行なんだよね。だからそういう意味ではまだ我々は、真似事の菩薩行なんですね。だからそれはそれでもちろん素晴らしい。それがないと、さっきから言うように、本当の菩薩の世界に入れない。

………はい、も…、うん?あ、どうぞ。」

Cさん「自利の大成なしに、利他を願おうとしても、お笑い種である」

先生「アッハッハッハッハ(笑)。そうだね、うん、そうだね。

 まぁ、それはまた、色んな意味があるけどね。よく言われるように、その、あのー、自分が泳げない者に、あのー、溺れている人を救えないっていうのと同じで、そういう、その、智慧っていうか、能力的な意味もあるけどね。…………はい、他にありますか。…………じゃああと一つだけ何か、質問で終わりにしますかねぇ。

………T君、なんかない?」

T君「いや、さっき、相対性の話をしていたじゃないですかぁ」

先生「うん」

T君「喜びと、執着は、相対的なんですか」

先生「ん? 喜びと執着が? 相対する? どういうこと??」

T君「だから一つのことに執着したら、他の喜びを奪ったりするっていう話を、四無量心のところで先生がしてた。」

先生「はいはいはい」

T君「まぁこれは自分で思索しろって先生が、言ってましたよねぇ」

先生「うん」

T君「いや・・」

先生「あぁあぁあぁ。いや、それはそういうことじゃなくて、あの、つまり、執着の正体、執着の正体っていうものが、あの………、まぁこれは仮になんだけども、本当はそういうことじゃないんだけども、仮にそのやっぱり、この宇宙に、さっきの怒りの話と逆で、限定的な喜びのボールがありますよと。ね。
 で、この限定的な喜びのボールを、あの、つまり、あの椅子取りゲームと同じで、あの、限られているから、で、衆生の方が多いわけです。衆生の方が多いから、あの、誰かは持てる、誰かは持てない、っていうその条件があるわけだね。だから私こそが持ちたいと、だからあなたは持つなと。ね。つまり衆生からこの苦しみを奪いたいっていう心の働き、これが執着だっていうことを言いたいんだ。

 で、それは、この間、愛と、あのー、絡めて言ったんで、で、愛というのはそうじゃなくて、いかに自分が持っている喜びのボールを相手に与えるかっていう発想。これが、愛と執着の、えー、二元性だよと。つまり、愛と執着は完全に裏側の発想なんです。愛と執着が同時に発生することはあり得ない。奪おうとする気持ちと与えようとする気持ちだから。そういうことなんだ。
 で、怒りに関しても同じで、あの、怒りと、それから、えっと、憐れみが、憐れみってつまり慈悲ね、同時に発生することはあり得ない。なぜかって言うと、怒りっていうのは、この自分の中にある苦しみを、お前取れと(笑)、これが怒りなんだね。憐れみっていうのは、お前の苦しみをよこせと(笑)、これが慈悲だから、ね、そういうことを言ったんだよこの間は。うん。
 それはちょっと、確かに分かりにくいんだけどね。その辺は、あ、思索しろって言ったのは、その、えーとー、一番最初に言ったその、えーと、この世っていうのは、執着っていうのは結局、喜びのボールの奪い合いですよと。で奪い合いっていうことは、あの、えーと、なんっていうかな、誰かがそれを失うことを良しとしなければならない。で、自分のもとに集めないといけない。そういうもんですよと。で、そこで、それを説明する言葉として、あの、この世は相対的なんですよと。で、ここで相対的って言ったのは、あの、誰かと誰かの、いや誰かと自分の差によって幸福を感じるなっていうことなんです。で、それを思索してみなさいと。

 で、一見ねぇ、そうじゃない気がするんですよ。で、その相対的じゃない絶対的なね、私はこれは絶対的に幸福なだって思うような気がするんだけど、あの、本当は全部相対的なんだね(笑)。まぁ、もうちょっと深く言うと、誰かと自分だけの差ではなくて、過去の自分と今の自分の差。あるいは、今の自分と未来の自分の差、もあります。とにかく差なんです。
 この差によって、自分が、つまり今の自分という存在に対して、喜びを徹底的に集めようとする。これは執着の働きなんです。
 でもこれは、その人自身を、実際は不幸にする。よって、与える実践をしましょうと、いうことだね。

 だから皆さんがやっているあの慈悲の瞑想、皆の苦悩を背負って、自分の幸福を吐き出す、これは皆さんの心にとって、非常に素晴らしい、あの、恩恵を与えます。すぐそれを皆さんができなくとも、このイメージをしたというその、訓練が、心に少しでも根付けば、あの、皆さんがそれをもとにね、将来、大変な幸福を得る素地みたいのができてくる。だからそういう発想っていうかな、訓練はしておいた方がいい。

………はい、じゃあ、この辺で終わりますかね今日は。はい、じゃご苦労様でした。」

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