yoga school kailas

10月1日 合宿勉強会2 「質疑応答」その4

ヨーガスクール・カイラス 勉強会より

10月1日 合宿勉強会2 「質疑応答」その4

※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。

………はい、他は何かありますか?」

C「懺悔をする時って、昨日やったように、最後に、神様とかが、自分と一体なんだ、みたいなとこまで、やらないといけないんですか?」

先生「いや、まあ、あれは一つのテクニックだから、それはやってもやらなくてもいいけど、一つ重要なことは、懺悔が、後悔では駄目なんです。つまり、ああ、私は、小さい頃、こんなことをやってしまったと、あんなことをやってしまったと。あぁぁ…、俺は駄目だあ…と(笑)。これじゃあどんどん修行が遠のくだけで。じゃなくて、あの、私は浄化されたっていう確信が必要なんです。で、浄化されてなくてもいいんです。あの、その場では、ちゃんと確信するんです。つまり、その前には前段階として、懺悔の対象に対する絶対的な信が必要。
 つまりこのシヴァ神でも仏陀でもいいけど、例えば仏陀だったら、お釈迦様というのは完璧であると。よって、このお釈迦様にさえ懺悔すれば、私の罪は清められるんだと、いう強い信を持って懺悔すると。
 で、ここで、まだ仮に何かあったとしても、もう思い込むんです。今、今こそ、これは浄化されたと。で、そのイメージのテクニックとして、一体化するって使っているだけで、それはやんなくても、その浄化されたっていう確信があればいい。
 で、問題はですよ、だからと言って、その罪は本当に浄化されたのかっていう問題がある。それは、はっきり言うとまだ浄化されていない。よって、もう一回次の日懺悔すればいい。で、懺悔のポイントっていうのは、あの、例えばある罪に対して、何度もこういうことをやっていると、多分最初はそんなに心がこもらない。でもだんだん心がこもってきます。で、何度も何度も毎日同じこと懺悔しているうちに、物凄く心がこもってきて、本当に悪かったって思うようになってきます。でもそん時もね、あの、一応は、確信を持って終わらせるんです。ああ、悪かったなと。で、また、しかしこれで浄化されたんだって思って、終わらせると。でも次の日にまた同じことを懺悔する。また、あー、悪かったなと。また、でも今浄化されたと。これを繰り返していると、ある日を境に、そのことを考えても、全く、--いい意味でだよ--罪悪感が沸かなくなります。こうしたらそれに対しては、ついてはもう懺悔しなくていい。

 しかしですよ、そこに至るには絶対に、多分、現実的な何らかのカルマ落としがあります(笑)。だから、大変なんだけどね。
 例えば、まあ、昔殺生しましたと。それが本当に心に引っかかっていると。で、ああ、本当にもう、毎日毎日懺悔しても、それが心から消えないと。でも、例えば、蓮華座組んで凄い苦しんだりとか、あるいは誰かから殴られたとか、なんかそういう暴力的なカルマ落としがあって、で、しばらくしたら、本当にそのことは心に残らなくなったと。あの、もちろんそれ自体は悪いと思うけども、引っかかりが無くなったっていう感覚がある。こうなったらもう、それは懺悔しなくていい。だから、それはテクニックなんだね。ただし一回一回ごとにはそういう確信っていうか、それはしなきゃいけない。
 懺悔っていうのは非常に本当に重要なので、本当はだから、毎日やった方がいいね。あの、夜寝る前に。今まで生きてきた時の懺悔、だけじゃなくて、今日一日の懺悔、今日一日を振り返って、心、言葉、あるいは行ないにおいて、何か悪いことはなかっただろうかと。まあ、仏教にしろヨーガにしろ、基準は非常に厳しいので、あの、ありとあらゆることが出てくるわけです(笑)。厳しく言えばね。」

Cさん「今日一日の懺悔は、またそれも次の日になったら懺悔しないと駄目なんですか?」

先生「いやいや、あの、そういう小さな懺悔に関しては、まずはもう、今日のをすればいいです。でも昨日のことでもし、まだ出てくるような…、それだったら強いものだから、それはもう、やればいいけども。

 何度も言っているけどねえ、懺悔っていうのはちょうど、あの、絨毯にこぼした醤油を、すぐ拭くようなものなんです(笑)。
 悪業の怖さって二つあるんです。一つは、悪いことをしたことによって、将来カルマが返ってくるっていう怖さ。もう一つは、悪いことをしたことによって、それが心に浸透するっていう怖さ。実はこっちの方が怖いんです。なんでかって言うと、悪いことをして返ってくるっていうのは、返ってきたら終わりじゃないですか。しかし心に浸透するっていうのは、もう心そのものが変えられてしまう。
 例えば優しい心だった人が、一度、人を怒ってしまったりとか、人を殴ってしまったがゆえに、それが心に浸透して、一年後には怒りっぽい人になっていると。こっちの方が怖いんだね。

 これはまあ、薫習(くんじゅう)とか言うわけだけど。だからそれは、ちょうど醤油が染み渡り、絨毯がもう、ガビガビになって取れなくなるように(笑)、放っておくとそうなるんだね。だから、ちょっとでも悪いことがあったら、すぐ、あ、悪かったと、パッと拭くわけです。そうすればねえ、あの、入り込まない。それはもう、理論的に分かると思うんだよね。つまりその、自分がそれを、これは、私にとって、罪であったと。私はこれはいらないって思えば、それは入らないんですよ。でも人間ってバカだから、あの、悪いことは隠したがるから、誤魔化すんだね。まあそれは、良かったんじゃない?とか誤魔化しているうちに、それはジワジワとこう、入り込んでくる。

 だから徹底的に日々、はっきりした自分の態度を示さなきゃいけないね。私は、これは悪業でしたと。申し訳ありませんと。私はこれはしたかったわけじゃないんですと。これからもしませんと。こうすればそれは絶対入ってこない。だから日々の懺悔が必要なんだね。
 だからちっちゃなことって怖いんですよ。仏典にもよく書いてあるけども、あの、「善をなすのを急げ」と。「善を繰り返せ」と。「悪を繰り返すな」っていう話があって、これはどういうことかと言うと、その、ちっちゃいことっていうのは、その時はそうにも思えないんだけども、どんどん増大するんだね、うん。例えば普段から怒ったことがない人がいて、例えば、なんか、人に対してね、ほんの少し、クソっと思ったと。でもそんなのはまあ、その程度だと思って放っといたら、一週間後には、クソォーーーぐらいには思ってるかもしれない(笑)。これはだんだん増大していくんだね。で、気付いたらその人はいっつも怒っている人になっている。で、これは、「あれ? 俺は一年前はそんなに怒ってなかったのにな」と。でも、いきなりね、怒りっぽくなることはありえないんですよ。絶対にちょっとずつ浸透しているんです。
 だから、念正智が必要なんですね。
 だから今、一日一回は懺悔した方がいい、って言ったけども、もちろんもっと理想は、瞬間瞬間自分のチェックをする。ちょっとでも過ちが見付かったら、即懺悔する。あ、やべえと。今ちょっとこういう心を持ってしまいましたと。懺悔致しますと。こういうのは一番本当はいいね。
 まあ、だから、本当に、修行に大切なことってたくさんあるんだけど(笑)、懺悔も非常に重要ですね、うん。で、それは何ていうかな、この入菩提行論でも懺悔の章ってあるけども、あの、懺悔をしっかりしていると、逆に苦しみにも強くなります。つまり自分は、それだけの苦しみを受けなきゃいけないんだと。いや、逆に、受けたいと、浄化したいんだと、いう心構えがしっかりできているから、あの、なんていうかな、何されたって別に平気なんです。でも人間ってねえ、無智だから、俺はそんなことをされるいわれは無いぞっていっつも思っているんだね(笑)。だからちょっとでも何かあると、「おっ、ちょっと何だそれは」。ね。あるいはね、すぐ訴訟に持ち込んだりとか(笑)。で、最近、日本もちょっとアメリカ化してて、ちょっとしたことですぐ訴えたりとか、あとまあ、いろんな、ねえ、事件になったりするけども、結局その、カルマの法則っていうのを信じて、しかも自分の悪業っていうのをしっかり認識してったら、なんていうかな、悪いことがあっても人のせいにはしないようになるね。

 いや、逆に、いつも言うけど、「いや! 君は私の恩人である」と。私の浄化、私のカルマを浄化してくれた恩人だって風に思うようになるね。人生におけるいろんな苦痛とかも、あんまり怖がらなくなる。うん。
 なぜかって言うと、それは当たり前のことだし、で、それは苦痛が起きたことによって、また一つ私は浄化が進んだんだと。つまり私の中の、幸福度が増したんだという発想になるね。

 私はねえ、ちょっと話がずれるかもしれないけど、昔よくねえ、こういうことを考えていたんだけど、あの、例えば物事を達成する時とかそうだけど、恐らく自分は、カルマが悪いから、百回失敗するんだろう、と思うんです。ちょっと変な言い方だけどね。よし、百回失敗するかと。もちろん、失敗するためにやるわけじゃないんだけど、全力で成功させようとやるんだけど。で、なんか上手くいかなかったりするじゃないですか。失敗しましたと。そういう時にどう考えるかというと、おっ…あと99回と(笑)。だから最初っからそういう発想でいるんだね(笑)。
 元々カルマ悪いから、苦しみとか来んの当たり前だし、失敗もあるのも当たり前と。そういう発想で、それでね、百回だと思って、十回目くらいで成功したら、超嬉しい(笑)。「え? もういいの?」っていうか(笑)。「えー? もういいんですか?」と(笑)。
 それがだから、全てにおいて言えるんだ、うん。だから人間っていうのはやはり、傲慢っていうか、例えばねえ、よく、こういうことを私はよく考えたけども、まあ、例えば私、十万回唱えたマントラっていっぱいあるわけです。ああ、俺はこんなに唱えたなと。で、例えば、よくね、この中にはいないけどね、よく生徒さんとかで、「いや~先生、このマントラ十万回唱えました」と。「どうでしょうか」と。「でも、なんかあんまり、変わったようには思えない」とかね。まあ、そういう人達がいる。
 で、そういう時に私が話したのは、いや、そのマントラを十万回唱えたのは確かに素晴らしい。それによって当然、そのマントラの恩恵があなたの中に相当、蓄積されただろうと。しかしよく考えてみろと。悪口何回言いましたか、と(笑)。生まれてから今まで悪口何回言いましたかと。嘘何回言いましたかと。小さな嘘も含めてね。綺語何回言いましたかと。あるいはまあ、全部ひっくるめて、そういった言葉の、悪しき言葉をどれくらい語りましたかと。何回、何時間語りましたかと。それはもう、分かんないよね。百万回、一千万回。語っているかもしれない。
 でも人間っていうのはそういう自分の面はあんまり見ないんだね。あの、やったことは、これだけやりましたよー、どうですか、ってやるんだけど(笑)、こんだけ私は悪しきものを積んでしまったってことをあまり見ない。人間の発想としてね。だから懺悔って非常に重要なんだ。そこを認識させてくれるっていうか。
 確かに、まあ、他の面で言ってもね、いや確かに私は、まあ、例えばね、誰かを修行させてね、誰かをカイラスに連れてきて、で、その人が凄く心の悩みが取れて、本当に、幸福になったと。いや、私はいいことをしたと。この人を一人、こういう世界に導いたと、傲慢になっていられるのかと。じゃあ、あなたが悪しき世界に導いた人はどれくらいいるのかと。もちろん、変な宗教とかに入れちゃったとかは、もうストレートだけど、そこまでいかなくてもね、例えばこれはねえ、ちょっと厳しい話だけども、こういう発想があります。例えば、恋愛の映画があって、誰かを恋愛の映画に誘って行ったと。これは恋愛教に誰かを改宗させたのと同じなんだ、厳しい言い方だけどね、これはね。例えばあまり、暴力が好きじゃなかった人に、お前ー、今度プロレス見に行こうぜって言って、見に行ったらその人がハマってしまったと(笑)。これはまさに、暴力の世界に、人を踏み入れさせたのと同じだと。もちろんそん中では、普段は、あんまり重要視されないわけだけど、ただ、まあ厳密に言うと、そうなんだね。うん。その蓄積っていうのが我々にはあるわけです。
 だとしたら、たった一人を、もちろん修行させたのは素晴らしいことだけど、自分の中の逆の悪業と比較させたら、まだ足りないわけですよ、そんなのは。あるいは我々はどんな修行をしようとも、もちろんそれは素晴らしいんだけども、それと対比される悪業のことを考えたら、まだまだもっともっといっぱい修行しなきゃいけない。それは身の行ないにしろそうだし、あるいはマントラにしろそうだし、心の瞑想にしろそうだけどね。
 例えば慈悲の瞑想を、私はもう本当にもう一年くらいやっていますと。でも君が怒りをイメージしたのはどれくらいの時間あるんだと(笑)、ね? 一回五分毎日やったって、365×5分に過ぎないと。怒りをイメージした時間はどれくらいあるんだと。
 前にも私、ちょっと言ったけど、その、凄く私が、こう、経典とか勉強している時があって、でもそん時はちょっとあまりにも仏教の経典が難しくて、嫌々やってたんだね。それ、義務的に、あ、今日もちょっと、あの、一時間ぐらい読むかっていって。で、たまに漫画読みに行くんです。ほんとたまになんです、一週間に一回とか、あ、ジャンプ出たとか(笑)、ドラゴンボールだとかって(笑)、あの、やるんですよ。だから自分としては修行している気持ちなんです。だって、一週間に一回の漫画くらいいいじゃないかと。毎日本当に何時間も経典を読んでいると。で、瞑想に入るとドラゴンボールが出てくる(笑)。」

みんな (笑)

先生「つまり、漫画の方に喜んで集中しているからだね(笑)。でも自分としては、こんだけ修行をやりましたよ、どうですか、っていう気持ちがあるんだね。でも、実質は全くないっていうか(笑)。だからその、悪しき、なんていうかな、習性っていうかな、それを、それは私は、いけないんだと。うん。それを浄化すべきなんだっていう思いを常にもう持ち続ける。これはそのベースですね。
 で、それによって心をチェックし続ける作業を念正智って言うんです。まあ、そういう意味でも、この入菩提行論って素晴らしいと思うね。あの、この間も、またYさんの話になるけど(笑)、Yさんが、いや、最近いろんなね、仏典とか、いろんなのを興味があって読んでいたけども、また久々に入菩提行論を読んだら、これが一番素晴らしいって(笑)。いや私はねえ、やっぱそう思うね。非常に実質的で、教えのエッセンスがまとめられているというか。うん。
 だからここに書かれている念正智もそうだし、さっきの忍辱の教えもそうだし、あるいは供養とか懺悔とかの考え方もそうだし。これをしっかり頭にバッて入ってたら、相当、この人生そのものが、修行に変わります。だからなかなか一言では言えないところがあるんだね。
 修行するには何をすれば進みますかと。まあ、アレもあるしコレもあるしコレもあると(笑)。うん。
 そういう意味では入菩提行論ってのは、凄くその、必要なことが凄く詰まった経典だと思うんですね。

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