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10月4日 勉強会 七科三十七道品① 「四念処」その4

ヨーガスクール・カイラス 勉強会より

10月4日 勉強会 七科三十七道品① 「四念処」その4

※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。

 あるいはね、もうちょっと別のパターンで言うと、--まあ仏教って面倒くさいんだね、色々あってね(笑)。--例えば、これは仏典に繰り返し出てくるパターンですが、無常、苦、空。まあ、無我と言ってもいいんですけども。
 肉体は無常であると。
 無常なるが故に苦であると。
 苦なるが故に、空であると。我々の本質はそこには存在しないと。
 で、そこからさらに進んで、ニルヴァーナこそ完全な寂静の世界であると、言ったりもするわけですが、こういった分析でもいい。
 さっき言ったような、まあ、だから、どういう角度で分析するかなんだけど、あんまりだからこの辺は固く考えなくてもいいかもしれない。
 例えば、さっき言ったことも全部ひっくるめてね、本当に肉体は無常だなと。こんなに老いるし、病に至るし、あるいは醜くなるかもしれないと。

 あるいは無常ってね、ちょっと、今日はいろんなところに話が飛んでいるけど、無常ってさあ、色んな意味があると思うんだよね。時間的無常ってあるよね。時間的無常。つまり、移り変わると。
 もう一つは、認識的無常ってあると思うんだね。認識的無常っていうのは、例えば、ある人を好きだったんだけど、その人が王子様のように見えていたと。で、その人の例えばオナラをする場面を見たら、もうげんなりしたと(笑)、ね。まるで、乞食のように今度は見えたと。それはちょっと極端な例だけど(笑)。
 それは相手は全く変わってないのに、認識が変わってしまうと。
 あるいは例えば、その人は同じなのに、心の持ち方が違う人達で全く違うように見えると。これも一つの無常だね。つまり全ての物の見え方は、常ではないと。
 結局この世には、時間的にも、あるいは、物の見え方としても、あらゆる意味で常なる物はないわけだね。それをいろんな形で例えば、肉体面においても、こう探っていくと。

(K)その、一つの見方が常じゃないっていうのは、無我っていうこととほとんど同じ…

(松川)いや、まあ、無我っていうのは結論だね。

 で、無常なるが故に苦であると。もちろんこれは、無常プラス、実際はそこに執着していることっていう条件がある。私はさっきも言ったように、無常自体は苦じゃないと思うね。
 それは、私はヨーガ、ヒンドゥー教とか仏教とか、あまり偏見なく色々こう勉強してきたので、ヒンドゥー教が言っている本質と仏教が言っている本質って非常に近いっていうか、同じだと思うんだけども。
 ヒンドゥー教でよく言うのは、カーリー女神、まあ例えばシヴァっていうのは完全なる寂静の絶対的真理と。で、そこから、カーリーというこの宇宙の無常の世界を作り出す、エネルギーが生じると。で、このカーリーが現す、無常のこの宇宙の動きを楽しめ、というのがあるんだね。そういうような表現、まあリーラって言うわけだけど、この世の遊戯を楽しめと。

 で、それは、我々が例えば、いろいろなことが成功したり失敗したり、あるいは美しくなったり醜くなったり、あるいはいわゆるとこの、この世における苦しみを感じたり、あるいは喜びを感じたり。その全体が、悟った者にとっては、悟った者っていうのはもう、大乗の悟りとか、高度な悟りだけども、悟った者にとってはとても楽しいわけだね、それそのものが。
 だから、これっていうのは、例えば、見方によっては、執着している人にとっては苦しいし、ある種の悟りを得た人にとっては全くなんでもないと。当たり前のことと。より高度な悟りを得た人にとっては楽しいと、言えるもんじゃないかと思う。
 で、この無常っていうこと自体は、実際にその、当たり前のこととして存在すると。で、それに我々はとらわれている状態、これは非常に苦しいと。

 はい、そしてそこから、全ては実体がないんだよという理解がどんどん進んでいく。そして、さっき言いましたが、全てのそういった無常なる物に対するとらわれを捨てた境地、ニルヴァーナの境地こそ我々が求めるべき寂静の境地だよと。苦悩を全部乗り越えた境地だよと。っていう思索ね。これもまあ一つのパターンです。

 でもこれじゃなくてもいい。いろいろな方法で、つまり、この肉体に関するとらわれを外していけばいい。だからもしかすると人間の心っていろんな人がいるから、特に現代人ってのはいろんな人がいるから、全然別のパターンの方ができる人がいるかもしれない。だって、ちょっと変態的な人がいたら、肉体?不浄?いいねえっていう人がいるかもしれない(笑)。

 あまりに情が強過ぎて、そういった不浄な部分まで好きだっていうパターンもある。だからそれはまたいろんな角度からやらなきゃいけない。

(K)あの、その、無我っていうのも、例えば昔、当時のヒンドゥー教がその、有我っていうか、我が有る、有る、って言っていたから、それにぶつける意味で出したみたいなそういう感じで、その不浄っていうのも、不浄、不浄、って考えるんじゃなくて、不浄でもいいっていう人には逆の考えをぶつけるとか、そういう効果のものなんですか。

(松川)いや、そうじゃなくて、オーソドックスにはこれでいいと思うよ。不浄で。さっき言ったのはだから、そうじゃない人もいるってことね。
 オーソドックスにはその、実際の人間の体の観察、そこから不浄というのを導き出して、って感じでいいと思う。で、それプラスαとして、効果的にもし自分が身体に対するとらわれから離れられるものがあるんだとしたら、あるいはさっき言った中で、自分が凄くピンと来るポイントがあるとしたらね、そこだけを、そこだけをっていうか、そこを集中的にやるとか。
 例えば物凄く女性とかってやっぱりその、不潔なものを嫌うから。だから、女性の方って--、女性の方ってのも変だけど(笑)。変に気を遣っているけど(笑)。

(一同笑)

(松川)この不浄っていう認識を、潜在意識が多分嫌がると思うんですよ。自分を汚いって思いたくないってとか、あると思うんだよね。でもそれはもう、徹底的にそれは、逆にやった方がいい。
 だからそういうその、自分に効果的なのを探せばいいということだね。

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