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安らぎを見つけるための三部作 パート1「心」(13)「ダルマタ―と、真実在の開示」①

第十三章 ダルマタ―と、真実在の開示

 このようにして、方便と智慧が究極に達したとき、
 法身の活動と純粋意識は、ありのままに始まるでしょう。

 すべてのものとすべての根拠と共に、心と心の事象は、
 純粋な経験の連続体に入り、完全に停止するでしょう。

 そしてその連続体と純粋意識は、
 二つではなく一味へと変わっていくでしょう。

 こうしてそのような純粋性の中で
 すべての事柄が停止するのです。

 このいかなる起源も持たない透明な光輝による推力の領域は、
 空に現われる月のようです。
 その繊細な純粋意識は、宇宙のような連続体の中に巻き込まれました。

 無分別の叡智が遍満し、寂静が確立されていたとき、
 そのまさに最初からずっと純粋であり、
 そして、まだ客観化されていず、それ自身から外れていず、
 ずっとそれ以外の何かに変化することがない、
 分別が生じる以前の心の様相に、
 「ヴァジュラカーヤ(金剛身)」の名前が与えられました。

 それは、分別が生じる以前の経験の意味の根本であり、
 そしてその連続こそがすべてなのです。

 もしあなたが、「放棄」と「本質的な理解力」の可能性の究極に達し、
 それによって、存在の真実在は、その偶発的な不明瞭さを捨て去り、
 全智の大海に到達し、
 そして超越的な力が生じたならば、
 その様相は、「ボーディカーヤ(覚醒身)」と呼ばれます。
 これは、明らかなブッダの特質が生起する本源なのです。

 認識される対象の存在の中で、知性はそれと関係がなくなるけれども、
 そして認識する知性の中で、主観的な活動は確立されなくなるけれども、
 この至高なものは存続します。
 けれども、潜在的である間は破壊されない、内側の光輝のような、微細な純粋意識は、
 空に現われた月のようです。
 ――そしてそれは、あらゆるものに対する感受性により、すべてのものの事実の源なのです。
 
 それからは、法身が感受性の機能を与えられたので
 そしてそれは、他者のように見えるようになる性質という宝なので
 完全に寂静であるその最も微細な純粋意識を考慮して、
 それは「寂静の法身」と呼ばれます。

 それらの身体は、外側の世界の対象としての存在にはならないでしょう。
 そしてまだそれらは、非存在ではありません。
 ――それどころか、それらの微妙さにより、
 それらは、存在でも非存在でもないのでもなく、
 存在でありかつ非存在であるというわけでもないのです。

 この四つの境界の向こうにあるものの、
 言葉が見つからないこの領域については、
 たとえそれについて話そうとしたとしても、
 それは空性であり、そしてすべての客観的に見る傾向が停止しているのです。
 ――それは、勝者でない者たちの領域ではありません。

 存在物として一度として出現したことのない純粋な経験の連続体の砦の中で、
 過去・現在・未来のブッダは、永遠に存在するのですが、
 それぞれが、分別が生じる以前の経験の心なので、
 ブッダは、他のブッダを見れないのです。
 ――これは、「ありのままの深遠、寂静に属している」と呼ばれています。

 かつて生じた空間か、
 または未来に生じるであろう空間であるかにかかわらず、
 空間は空間であることと同様に、
 勝者は勝者なのです。

 これは、分別が生じる以前の心であり、
 空の次元、完全なる叡智、そして純粋意識の集積であり、
 完成のステージがその究極に到達したのです。

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