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随筆マハーバーラタ(1)「言葉の重さ」

 さて、「マハーバーラタ」というのは本当に、深遠な秘儀や教訓が多く含まれた物語であると思います。

 しかしそれらは多角的・複合的にとらえられるものであるため、それぞれの心の段階・智慧の段階によって、様々な教訓を読み取ればいいと思います。

 ですからこの「マハーバーラタ」への解説というのは本来は必要ないのですが、解説というよりは、あくまでも私が「マハーバーラタ」の各エピソードを読んで感じたことや思ったことを、ざっくばらんにつらつらと書いていくというかたちで、解説の代わりとしたいと思います。

 まずは第一話「デーヴァプラタ」です。

 この「マハーバーラタ」全体を読んで感じるのは、現代に比べて、「誓い」や「約束」や「言葉」というものが非常に重いということですね。

 このエピソードでも、シャーンタヌ王は、妻のやることに一切口を出さないという約束を守り、子供を7人殺されても、何も言わないわけです。
 8人目でついに口を出してしまうわけですが、それでも7人まで耐えたというのはすごいと思いますよね(笑)。
 
 想像してみてください。あなたが絶世の美女とめぐり合い、プロポーズしたところ、
「私が何をしても、邪魔をしてはいけませんし、私のことを怒ってもいけません。その条件が守れるなら、結婚しましょう」
と言われ、その美しさに負けて、条件を飲んで結婚したとします。

 でも「何をしても」ということで想像できる範囲というのは、普通はたかが知れてるでしょう。贅沢をするとか、浮気をするとか。
 まさか、二人の間に生まれた子供を川に捨てるとは、思わないでしょう(笑)。
 もしあなたとその約束をした妻が、二人の間に生まれたかわいい子供を、川に捨てたらどうしますか?
 いろいろ言い訳をつけて、妻を叱ったり、あるいは警察に突き出すかもしれませんね。
 「何をしても邪魔も怒りもしない」といっても、限度はある、これは別だ、と自分に言い聞かせるかもしれません。
 しかしそうだとしたら、最初からそんな約束などしなければいいのです。
 
 「マハーバーラタ」全体を読むと、明らかに、「社会的・道徳的な善悪」よりも、誓いや約束や、口に出した言葉への誠実さのほうが、上におかれているようです。

 そもそもわれわれは、何が善で何が悪か、本当にわかっているのでしょうか?
 ただエゴを守る言い訳の道具として、善悪の観念を使っている場合はないでしょうか?

 善悪の観念よりも「誠実さ」が優位に来る社会。その背景には、善悪という観念に対する、現代よりも深く柔軟な理解があるような気がします。

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