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解説・アーナンダマイー・マーの教え(2)

◎日々の生き方のアドヴァイス

【本文】
日々の生き方のアドヴァイス

 私は、私の父と母であるあなた方すべてに、一つのことを行なうよう嘆願いたします。
 あなたは、あなたが背負っているすべての病から救われたいと考えています。
 あなたは、人が病気のとき、正しい食事と正しい薬の両方を必要とするのをご存知でしょう。
 あなたに必要な薬は、神の名を繰り返し唱えることと、神について熟考することです。
 あなたに必要な食事は、「自己の制御」です。
 できれば毎日、または少なくとも週に一度は、修行をしてください。
 そして次の規則を、できれば毎日、または少なくとも週に一度は、必ず守ってください。

 このアーナンダマイー・マーの教えっていう短いテキストはね、何人かの人には毎日唱えてくださいと加行として与えていますが、是非みなさんも毎日――例えば朝とかね、これを一回唱えるととても良いと思います。
 ヨーガでも、チベット仏教とかでも、もちろん日本仏教とかでもそうなんだけど、よく神秘的なお経を勧める傾向がある。例えば、「このお経を朝毎日唱えると、必ず一日すべてが成功する」とか、「何かを始める前にこのお経を唱えると、祝福が降りてすべてがうまくいく」とか。まあもちろん、そういうのを信仰して実際にそのような系統の祝福が降りるってのは、当然あると思います。ただ、物事の本質はやっぱり本質としてつかまなきゃいけないのは、本当に心を変えてくれるような言葉を繰り返すのが、本当はもちろん一番いいんですね。
 つまり例えば、「これは伝統だから」であるとか、あるいは――もちろん一番ひどいのは、日本語でもない場合があるわけだね(笑)。例えば、中国の漢字で書かれたお経。それが非常に力があるといわれてると。で、唱えると。もちろんその人の信仰の力によって、何かパワーがつくことはあるかもしれない。でも、わたしから言わせると、微々たるもんだと思います。なぜ微々たるもんかっていうと、そんなにわれわれは集中力が無いから。信仰心も無いから。ものすごい信仰心があって、ものすごい集中力がある人がいたら、それは漢字であろうがチベット語であろうがパワーを持ちます。でも、われわれのちょっと困ったときの神頼み的なね、その程度の信仰心で、集中力も非常に弱い状態で、「ああ、これを唱えると祝福があるんだ」って、日本語でも漢字でもチベット語でもね、わーって唱えてると。そんなのに力があるわけがない。
 だからわたしは、もちろんそういう部分も大切なんだけども、それ以前にまずわれわれがやるべきことは、本当に心を変える言葉――だからわたしはね、いつもみなさんに言ってるけども――例えばみなさんが、師匠と決めた人。例えばみなさんにとって、わたしだったらわたしでもいいし、あるいは師匠までいかなくても、この聖者はわたしは大好きであって、この聖者のことは本当に信用してるっていう人。その人の言葉なら別に問題ないんだけど、そうじゃない例えば伝統的なものに対して、あまりにも絶対視する必要はないと思うね。
 例えば、ヒンドゥー教のこの伝統ではこういわれてる。あるいは、チベットのこの伝統ではこういわれてる――でもそれは、その時代のある人々にとって重要だったのかもしれないけど、今のわれわれにとってどれくらい重要なのか分からない。で、それよりも、まず第一番目にわれわれがやらなきゃいけないことは、リアルに――まあ、みなさんにとってこのアーナンダマイー・マーの教えがどれだけ響くか分からないけど――例えば、「ああ、そうだな。ああ、そうだ。こういうふうに生きなきゃいけないんだ」って思うような、日本語の分かりやすい文章を毎日読むと。ね。これが最高の祝福があります。ね。
 だからいろいろ工夫してね、例えばいろんな壁にね、わたしも昔よくやったけど、壁にいろんなそういう言葉を書いて貼っておくと。トイレとかに貼ったり――まあちょっと家族と住んでる場合はやりにくいかもしれないけど。その場合は是非カレンダーを買ってください(笑)。

(一同笑)

 聖者の言葉がいっぱい書いてあるんで(笑)、カレンダーとして飾っておくと、いい言葉がいっぱい書いてあると(笑)。ね。そういう形でいろいろ工夫する。いろんなところに貼り付けたり、あるいは自分で決めて、例えば一時間に一回それを読むとか決めるとかね。そういう実質的な努力が、まず最初に大事なんだね。
 般若心経を例えば一日十回読んだって、なんの効果もない。はっきり言って。わたし昔やってたんだけどね、実は(笑)。高校生くらいのときかな? 中学かな? 最初修行してたときに、やっぱり最初はよく分かんなかったから、いろんな本を買ってきて、いろんな修行をしてた。そうすると日本人ってやっぱり般若心経好きだから、般若心経勧める本が多いんだね。で、「般若心経、これを毎日唱えなさい」とか書いてあって。で、わたしやってたんです。「観自在菩薩……」――あんまり覚えてないんだけど(笑)。「無眼耳鼻舌身意……」とかね、やってた。で、もちろんそれはね、集中力と一つの瞑想法としてはいいと思う。あと、それに本当に力があるんだっていう――何度も言うけどね――本当に信仰があれば、確かにそれはパワーを持つと思います。でも、そこまでのパワーを引き出せるだけの力がわれわれがあるかっていうと、やっぱり問題がある、それはね。
 だからそれ以前の、実質的な分かりやすい、そして心に響く言葉の日々の修習ね。
 これは前にもみなさんに言ったけども、例えばみなさんがね、いろんな本を読んでて、「ああ、そうだ」――ちょっと心を洗われるような、あるいは「ハッ」っとさせられるような、ちょっと身が引き締まるような文章に出会うことってあると思うんですよ、多分。それは、はっきり言って、みなさんにとっての宝物なんです。なんでかっていうと、その文章を他の人が読んでもハッとしないかもしれない。「え? 何なの、それが」「どうしたのそれが?」と。でも、その人にとって感動したりハッとするってことは、発見なんです。「あ、これがおれにとっては、おれの心を呼び覚ましてくれる素晴らしいものなんだな」と。
 もちろんそれはね、時期によって変わるかもしれないよ。一年前は感動したけど、今は感動しないかもしれない。それはカルマが変わるからね。でも少なくとも、今その教えによってハッとさせられるんだったら――わたしもよく聞くんだけど、例えば、「先生、この部分非常に感動したんです。いやあ、よかったです」――で、しばらく見ないと(笑)。ね(笑)。「あれ? あの感動した本どうしたの?」「いや、もう全然読んでないです」(笑)――それは非常にもったいない。その部分に感動したんだったら、繰り返し読めばいい。
 繰り返し読んでるうちに飽きるかもしれません。飽きてもいいんです。飽きても、一度でも感動した、一度でも心に響いた部分っていうのは、潜在意識に響いています。表層意識が飽きてるだけで、潜在意識は何度も何度もそれによって呼び覚まされています。
 だから、そういうやり方って現代の人は好まないかもしれないけど、もうその本一冊でもいいし、あるいはその本のその章だけでもいい。あるいは、その一ページだけでもいい。あるいは、そのワンフレーズだけでもいい。それを日々繰り返し見たり唱えたりする。これはみなさんにとって、すごく実質的な修行なんだね。
 まあそれはそれとして、ちょっとまた話が戻るけどね、このアーナンダマイー・マーの教えは、わたしが個人的にね、これはみなさんにとって、しっかりと日々読んだら利益が大きいだろうなと思うものをまとめたやつですね。

◎輪廻の病

 はい、じゃあちょっと本文に戻しますが、まず、「あなたが背負っているすべての病から救われたいとあなたは考えているでしょう」と。
 もちろんここでいう病っていうのは、この輪廻の世界における病だね。病っていうのはつまり、本来の状態じゃない状態に陥り苦しんでいる。で、われわれの魂っていうのは、みんなそうなんだね。
 ヒンドゥー教においてはサチダーナンダっていいますが、つまり、われわれの魂の本質は純粋で、非常に自由であって、歓喜に満ちていると。しかし今の状態は何だと。ちょっと変だぞと。これはつまり、病に陥っている。
 で、一般的に病っていうのは、正しい薬と正しい食事が必要ですと。で、それと同じように、この魂の病にかかっているみなさんにとって必要な食事と薬っていうのは、「神の名を繰り返し唱えることと神について熟考すること」――これが、正しい薬ですと。
 そして、必要な正しい食事は、「自己の制御」ね。つまり、放っておいたら悪いカルマによって、いろんな悪いことやっちゃう。悪いこと考えちゃう。あるいは悪い言葉を言ってしまう。このエゴというものをいかにコントロールするか。これが、正しい食事を取るということと同じですよと。

◎できる限りの実践を

 はい、で、「毎日、少なくとも週に一度は修行してください」。これはもちろん一般民衆に対して言ってるので、もちろんみなさんみたいに「さあ、修行やりたいな」って思っている人は、もちろんしっかりと毎日修行しなきゃいけない。
 「そして、次の規則をできれば毎日、少なくとも週に一度は」と。これも同じようにね、もちろん毎日守らなきゃいけない。
 ただもちろん、修行って全部そうなんだけど、例えば戒律、いろんな教え、あるいは考え方の中で、どうしても守れないものがあるときもあるよね。それは例えば仏教の八斎戒とかも同じ考えですが――じゃあ守れないんだったら全然守らないのかと。そうじゃなくて、じゃあ一週間に一回は守ろうと。あるいは月に一度は守ろうとかね。そういうところから始めていくんだね。
 つまり、オールオアナッシングじゃなくて、「完璧に守れないですか?」「毎日できないんですか?」「じゃあ二日に一回ならどうでしょうか」と。「三日に一回ならどうでしょうか」と。「ああ、それも難しいですか」と。「じゃあ、一週間に一回は絶対守ってください」と。つまり、そういうところから攻めないと、実質的にはなかなか進まない。
 だから、この教えの内容だけじゃなくてね、みなさんももし自分の中で、ちょっとここの部分が乗り越えられないっていう部分があるとしたら、まずはできる部分からね――それは完璧には無理かもしれないが、まあ三日に一回くらいそれをバシッとやるくらいはできるとかね、そういうところからやっていくといいと思います。

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