yoga school kailas

ジャータカ・マーラー(17)「忍辱論者」

 ジャータカ・マーラー 第十七話「忍辱論者」

 世尊がかつてまだ菩薩だったあるとき、戒・学問・平静さ・礼節・制御された心を持つ出家修行者だったことがありました。彼は中断せずに心を集中し続け、忍耐について法を説きました。そこで人々は彼のことを、クシャーンティヴァーディン(忍辱論者)と呼んでいました。

 その偉大なる魂は、美しい蓮華が咲く池があり、果実が豊富な森に住み、修行していました。彼はそこに住む神々に尊敬され、また徳を愛する人々に訪問されては、忍辱のすばらしさについて法を説いていました。

 さて、ある年の暑い季節、その国の王は、避暑地を求めて、美しい池があるその森へと、多くの妃や女官たちを伴ってやってきました。
 王はその素晴らしい森で、妃たちと共にしばらく遊びほうけた後、遊び疲れ、また酒の酔いが回ったために、眠り込んでしまいました。
 王が眠ったのを知って、妃たちは、王の相手をする必要がなくなったので、この美しい森で、歩き回ったりおしゃべりをしたりしながら楽しんでいました。
 そして妃たちは森を歩き回ったあげく、忍辱論者と呼ばれる修行者の住居を見つけました。彼は静かで優しい顔をしていましたが、優れた威厳のために近寄りがたく、苦行の力によって光り輝いているようであり、瞑想に集中している故に心は静まっており、神々しく美しく、樹の根本に蓮華座を組んで座っていました。
 そのとき彼女たちは、彼の威徳によって心を支配され、彼を見ただけで、愛欲の戯れや傲慢さを捨て、慎み深い態度になって、その聖者を囲んで敬意を表して座りました。彼は「ようこそ」と言って彼女たちを歓迎し、女性たちにもわかりやすいようないろいろな法の話をしました。

「非難されることのない人間の生を受けて、また、健全な諸々の感覚器官を持ち、何の欠損のない状態を得ても、人は死を免れることはない。安逸を貪って日々善行をなさぬ人は、惑わされている。
 家柄・容姿をもってしても、優れた力や財産によっても、誰も来世の幸福を勝ち取ることはできない。布施・戒などの徳によって清められることがなければ。
 たとえ家柄が劣っていても、悪を慎み、布施・戒等の徳をそなえた人には、来世において必ず諸々の幸福が訪れてくる。河の水が必ず海に注ぐように。
 家柄や容姿が優れた人にとっても、力や財産を持つ人にとっても、この世においてさえ、功徳の尊重こそが法である。
 樹木は花で飾られ、雲は稲妻に飾られ、池は蓮華によって飾られる。そして人は、諸々の卓越した功徳をもって飾られる。
 健康・寿命・財産・容姿・生まれ等について、上・中・下の区別の種々相がある。それらの区別は、決して人間の本性上あるのではないし、他の条件によるのでもない。ただ自分のカルマによるのである。
 この世のならいはこのように定められたものであり、生命ははかなく滅しやすいと知って、人は善行を志して悪を捨てるべきである。この道こそが、人を幸福に導く。
 しかし、怒りの心は、まるで火のように、自他の利益を焼き尽くす。それゆえ、悪を恐れる人は、注意深く、自己の怒りの心の治療に専心して、怒りの心を除去すべきである。
 大河のような忍耐によって、人は悪を遮る。故に彼は、怨みの心を生ずることはない。慈愛の心を依りどころとするが故に。それゆえに彼は人々から愛され、崇拝される人となる。そしてそれゆえに彼はまさに幸福を得た人である。死後、彼は自分の家に帰るように天界へ赴く。
 さらに、あなた方よ、忍耐は、最高の繁栄をもたらす。水などを使わずに自己を浄化する方法である。
 他人の妨害など常に感知しない勇気ある人たちの堅固さは快い。忍耐は、世間に利益を与えるものである。
 忍耐は、怒りの山火事に対する大雨であって、この世でも来世でも、忍耐は不幸をなくするものである。
 善き人々の忍耐の鎧に、悪人たちの悪しき言葉の矢は鈍る。
 忍耐は、法に対する欺瞞と、解脱に対する欺瞞を、容易に滅ぼす。それゆえ、忍耐についての努力をひたすらなすべきなのである。」 

 このような言葉で、偉大なる魂は、彼女たちに法を説いたのでした。

 さて、かの王は眠りから目覚め、また愛欲の喜びを思い出して、「妃たちはどこか?」と、寝床付きの女官に尋ねました。「お妃様たちは、森の中をあちこちと見ていらっしゃいます」と聞いて、王は、妃たちが遊び戯れるのを見たいと思い、彼女たちを探しに行きました。
 そして王は森の中で、かの忍辱論者と呼ばれる聖者が、王妃たちに囲まれているのを見たのです。王は過去の怨みの煩悩の結果として、心が欲情に乱され、また嫉妬に心を征服され、極度に腹を立てました。そして怒りの悪魔に心を征服されて、そこへ近づくと、こう言いました。

「聖者の衣をつけつつ、私の妃を罠にかけようとしているこの者は、いったい誰か?」

 これを聞いて妃たちは慌てて王にこう言いました。

「いえいえ、王様、そのようなことをおっしゃってはなりません。長い間積んだ戒・誓い・苦行によって修行を成就したこの聖者は、忍辱論者と呼ばれるお方です。」

 しかし王は怒りによって素直な心を失っていたので、彼女たちの言葉を受け入れずに、こう言いました。

「ああ、ひどいことだ。
 この男は偽善でよこしまであるのに、卑しからざる修行者のふりをして、長いことこの世間を欺いている。
 それゆえ、この私は、彼の修行者の衣装に覆われた、幻惑と詐欺に満ちた、偽善の本性を顕わにしよう。」

 そう言うと王は、剣を手にして、その聖者を殺すために、近づいていきました。
 妃たちはそれを阻止して、
「王様、どうか、決して乱暴はしないでください。このお方は尊者、忍辱論者です。」
と言いました。しかし王は怒りに心を支配されていたので、妃たちは皆、この修行者に夢中にさせられてしまったのだと思い、いっそう腹を立て、こう言いました。

「この男は忍耐について説くだけで、それを実行しない。なぜなら、この男はこのように、女性と交わりたいという渇愛を辛抱できなかったではないか。
 この男は言葉と行動が全く別々であり、心には悪意があり、苦行林において虚偽の誓戒を保つ、傲慢な者である。」

 そして王は、聖者を脅しながら、近づいていきました。しかしかの偉大なる魂は、脅されても変わりなく平静で動揺することなく安らかでいました。それを見て王はいっそう怒り、彼に言いました。

「虚偽の威風を身につけて、聖者のふりをして私を眺めるとは、この男は何と、聖者のふりをすることに卓越しているのだろうか。」

 そのとき菩薩は、その堅固な意志の故に、そのような侮辱の言葉を聞いても、ただ王を哀れみつつ、なだめつつ、ハッキリと次のように言いました。

「無礼に出会うことは、過去の悪業によるものだが、この世ではよく見られることである。それゆえ、これについて私は憂うことはない。しかし、日頃やってくる人々に対する歓待を、私があなたにできないとしたら、それこそが私には苦痛です。
 大王よ、さらにまた、悪人たちを正道につかせるべきである、また世間の人々に利益を与えるべきである、あなたのようなお方にとって、軽率に振る舞うことはふさわしくありません。それゆえ、まさに正しく熟慮すべきです。
 自己の行為を熟慮して、真実に理解した上で、正しく政治を成し遂げるならば、大いなる法・財・楽を得、また民衆にも利益を与えることとなるでしょう。
 あまりにも軽率な行為は捨てて、まさに自己の名声を高める行為を、どうぞあなたはなしてください。
 私の苦行林にたまたまあなたの妃たちがやってきただけで、私には罪はない。しかし仮に私に罪があるとしても、その場合でも、王よ、忍耐こそが、あなたにふさわしいであろう。なぜなら忍耐こそが、力ある者の最高の飾りであるから。それは徳を守るに巧みなることを示すものであるから。
 青く輝く耳飾りも、王冠の宝石の輝きも、忍耐と比べると、それほど王を飾るに十分ではありません。忍耐を軽視してはなりません。
 常に依りどころたり得ない、怒りを捨てなさい。国土を守るごとく、あなたは自己の忍耐を守るべきです。」

 このように聖者になだめられながらも、王はこう言いました。

「もしおまえが聖者の仮面をつけているのではなくて、自らの規律・戒を守っているというのであれば、忍耐と教えるという口実で、どうして私に命乞いをするのか。」

 菩薩は答えて言いました。

「大王様、私が努力してあなたを説得しようとしているわけをお聞きください。
 私は、『罪もない修行者を王が殺した』という非難によって、あなたの名声が朽ち果てることのないように、あなたを説得しているのです。
 必ず死なねばならぬことは、あらゆるものの決まった掟です。したがって、私には死への恐れはありません。
 しかし私は、至福をもたらす法である忍耐を、あなたのために説いたのです。
 忍耐は諸々の功徳の源であり、また諸々の悪業を防止するので、私は最上の贈り物を捧げる喜びをもって、忍耐を称えるのです。」

 こう言われても王は怒りを捨てることなく、
「それでは今、おまえの忍耐を見てやろう。」
と言うと、剣を振り上げました。そして王の行為を阻止するために聖者が少し伸ばした右手に剣を振り落とし、聖者の右手首をスパッと切り落としてしまいました。
 しかし聖者は、自分の右手首を切り落とされつつも、王に、悪業による恐るべき苦痛が近づいているのを心配し、自己の苦痛はそれほど感じませんでした。
 そして菩薩は、
「哀れなことだ。この男は、自利の徳の因果律の限界を超えてしまった。諫めを受け入れる器ではなくなってしまった。」
と、医者に見放された病人を悲しむように彼のことを悲しみながら、沈黙しました。

 しかし王は、彼を脅しながら、さらにこう言いました。

「おまえの体はこのように何度も切断されつつ、最後は死に至るであろう。おまえの虚偽と欺瞞を捨てよ。」

 しかし菩薩は、もはや王を諫めることは不可能だと悟り、沈黙し続けました。すると王は、その偉大なる魂の左の手首を切り落とし、さらに両腕を切り落とし、さらには両耳と鼻を切り落とし、そして両足をも切り落としました。
 そのように次々と自分の身体が切り落とされていっても、聖者は憂うことも、怒ることもありませんでした。彼の心は忍耐に満たされていて、また、身体が無常であることをよく知っていたからです。
 そして悪業をなしている王への哀れみのために、苦痛はありませんでしたが、心は痛みました。
 かの慈悲深い聖者たちは、他人の苦痛に心を悩まし、自分の苦痛にはそれほど悩むことはないのです。
 
 さて、王は聖者に対してこのような大悪業をなしたがために、即座に火のような苦痛に襲われました。そしてその苦行林を出、聖者の哀れみのまなざしが届かないところに行った瞬間に、大地が裂け、王はその中に落ちてしまいました。

 さて、王の大臣たちは事の次第を知り、この聖者の怒りによってこの全国土が焼き尽くされてしまうことを恐れ、その聖者に近づいて、王の行いを謝罪し、許しを乞い、国土を焼き尽くさないように懇願しました。

 それを聞いて菩薩は、彼らを勇気づけながらこう言いました。

「皆さん、恐れる必要はありません。
 あの王は、罪のない私の手足も、耳も鼻も切り落としたような人だけれど、
 そんな人にさえ、私のような者がどうして苦しみをもたらそうと考えたりしようか。
 あの王が長生きしますように。
 そして、彼に悪の力が及びませんように。
 死と病の苦しみに悩み、愛著と怒りに支配され、諸々の悪行に焼かれた人は、まさに哀れむべきであって、どうして彼に対して怒ることができようか。
 もし許されるならば、彼の積んだ悪業の果報の苦痛が、私のみにやってきますように。なぜなら、快楽になれたあの王のような人には、苦しみに縛られるのは、短い時間でも耐え難いほどつらいものであろうから。
 しかし、王はあのように自ら自利を焼き尽くしてしまったので、もはや私には彼を救うことはできない。このような私自身の無能力を顧みずに、どうして私があの哀れむべき王を怒ることができようか。
 王が殺そうが殺すまいが、私は久しからずして死ぬ者である。忍耐を説く私が、どうして怒りを好むであろうか。だから心配はいらない。
 あなたたちに幸せがありますように。さあ、行きなさい。」

 このように聖者は彼らを教化した後、忍耐の心ゆえにその肉体の苦痛の中にあっても心乱すことなく、やがて肉体を去り、天界に昇っていきました。

 このように、忍耐を本性とする人々、平静な思惟の力が偉大である人々には、耐えられないものは何もありません。
 忍耐の徳を称える際には、この物語を例に引いて説くべきであるといわれます。
 また、軽率さと怒りの過失を示す際に、また愛欲のデメリットを説く際にも、この王を例に引いて説くべきであるといわれます。
 

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする