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解説「菩薩の生き方」第四回(4)

【解説】

 そしてこの菩提心の意味合いというのは、はかりしれないほどの多くの人々を、偉大なる安楽へと、救い上げるんだと。
 この、【菩提心が多くの人々を救う】という教えは、二つの意味があると思いますね。
 一つは、菩薩が菩提心を持つことによって、当然、その菩薩は、自分の解脱だけではなく、人々を救うために修行し、実際に多くの人に教えを説き、修行させ、解脱させるかもしれない。そういう意味ですね。
 そしてもう一つは、この【菩提心】という教えが広まり、人々が少しでもそれを学び、考え、瞑想し、実践するようになれば、どんな修行よりも、それは効果があり、カルマの多少悪い人や、おろかな人々でも、速やかに偉大なる境地に引き上げられる、ということですね。
 そして私は、後者の意味のほうが大事だと思うし、この経典も、後者の意味のほうを重視しているように思うのです。
 というのは、たとえば私は、なんていうか、【人々に、現世的な意味で幸福になってほしい】とは、あまり思わないんです。【人々が、解脱してほしい】とは、少し思います。でも一番思うのは、【人々が、菩提心や慈悲、四無量心などを持ち、育て、確定させてほしい】ということなんですね。なぜなら、それのみが、つまり菩提心を持つことが、その菩提心を持ったその人自身を、最高の安楽、最高の幸福へといざなうからなんです。
 だから繰り返しますが、【菩提心が多くの人々を救う】というのは、菩提心を持つ誰かが、多くの人々を救ってくれるという他力的な考えではなくて、この菩提心という教えが広まれば、それを学んだ多くの人々が速やかに救われるという意味のほうが強いと思うんですね。

 はい。これはわかりますね。菩提心が多くの人を救うと。この言葉の意味ね。それはまあ、一応論理的に言うと二つ考えられますと。一つは、菩提心っていう教えがあって、当然それをやる菩薩がいるわけだから、その菩薩によって多くの人が救われますよと。これは一つのわかりやすい意味だね。
 で、もっと大事なのはもう一つの意味。つまりこの菩提心っていう教え自体が、その菩提心を持った人を救うわけですね。つまり――これはさ、前から言ってるけど、「救うってなんだ?」っていう話がありますよね。もちろんそれは段階的ですよ。段階的に――前から言ってるけど、もう一回繰り返すね。わたし、前に一人で何度かインドを旅したときに――まあインドに行ったことある人はだいたい同じような感覚になったことがあると思いますが――つまり貧富の差が非常に激しいと。で、下の方の人っていうのは――皆さんは知ってるだろうけど、インドの階級制度があって、一番下の階級は、まあ言ってみればシュードラ、つまり直訳すると奴隷です。奴隷階級。奴隷階級っていうのがある。で、さらにその下があるんだね。つまりアウトカーストっていわれる、カーストにすら入れない、つまり英語でいうとアンタッチャブルっていう、つまり不可触民ですね。もう「触れることすらけがれだ」みたいにいわれてる人たちもいると。で、かと思うとインドっていうのはかなり貧富の差があって、上の方の人っていうのはもうすごい大金持ちだったりするわけですね。貧富の差があって、で、下の方の人たちは、われわれの、なんていうかな、経済社会の観念から言うと、非常に不幸なっていうかな、貧しい生活を送ってると。あるいはもちろん病気もいろいろあるだろうし、まあ、あるいはよくいわれるように――これは実際にあるみたいですけどね――乞食の子供とかは、哀れみを受けるように小さいころに親が腕を切り落とすとかね。そういうことも実際にあるらしいと。
 で、そういうのを見てると、もちろん非常に、なんていうかな、かわいそうになるっていうか、かわいそうっていうのもあるんだけど、ちょっと、「どう考えたらいいのかな?」っていう気持ちになるんですね。「これ、どう考えたらいいのかな?」と。単純に西洋的な、ね、つまりわれわれの価値観では計れないところがある。われわれが勝手に「かわいそう」とか言ったって、本人たちがそう思ってない場合もあるからね。単純には計れないんだけども、まあ明らかに不幸な人もたくさんいると。これはいったい、どうしたらいいんだろうと。で、わたしもいろいろ考えたわけだけども、その考えた途中はちょっとすっ飛ばして、結論から言うと、みんな解脱させるしかないと(笑)。ちょっと論理の飛躍があるような感じがするかもしれないけど、でも、一応もう結論はそこにしかいかないんだね。
 途中段階でなんだかんだ言ったって――例えばわたしもよく、一人でインドを旅してたときにね、わたしも子供好きだから、乞食の子供ににお金を渡すと、だいたい後ろからお母さんが出てきて取っちゃうんだけど(笑)。で、わたしが乞食の子供と遊んでるときに、お菓子とかあげたりするんだね。最初はなんか、すごい人懐っこかったりするんだけど、でも例えば一人の子供にお菓子あげると、パッと取って逃走するんです(笑)。ウワーッて逃走したりして。で、ほかの子は追っかけてって、で、捕まえて、奪い合いが始まるんだね。で、例えば、もう、もらった子がね――まあわたしももちろん「みんなに」って意味であげたわけだけど、最初にもらった子が、「おれがもらったんだ」みたいな感じで。で、ある場合は殴り合いとかも始まったりして。もちろんそれは貧しさゆえのものがあるわけだけども。そういうの見てると、なんていうかな――まあ、もちろん物質的な救済も必要なわけだけども、それと同時に彼らが今陥ってる、心の貪りっていうかな、心の問題とかもなんとかしてあげなきゃいけない。でもそのためにはもちろん、まずは物質的なところから始めなきゃいけないのかもしれない――っていう、ちょっといろんなジレンマが出てくるんだね。何からすればいいのかと。で、もちろんそのために、まずは物質を整えなきゃいけないっていう発想もそれはそれでいいと思うんですよ。そのために例えばいろんな、ボランティア的なね、ことをやってる人はたくさんいると。それはそれで素晴らしいと思う。でもわたしは、わたしとしてはちょっと、その道ではないなって思った。わたし個人はね。わたしが今からなんかボランティアの組織をつくるとか、なんかそれはちょっと違うような気がするし(笑)。で、いろいろ考えると、さっき言ったように、「みんな解脱させるしかない」と(笑)。
 で、みんな解脱させるって言っても、また深くリアリティをもって考えると、いろんな問題が生じると。まず言葉通じないと。ね。現実問題としてね。まあ、それはもちろんインドの人だけじゃなくて、いろいろ世界で苦しんでいる人たちがいると。彼らはもう――例えば彼らを一時的にどうこうしたって、どっかで行き詰まります。健康にしたって、次の煩悩が出てくる。物理的に豊かにしたって、次の精神的問題が出てくる。きりがないわけだね。
 はっきり言うと、修行においては、不幸な方が条件はいいです、本当はね。いろんな苦悩があった方が、修行においては条件はいいです。しかしもちろん、そもそも修行っていう発想がないと、発想がなくてただ苦悩だけあったら、それはただ本当にかわいそうなだけだから――っていうジレンマがあるわけだね。で、いろいろ考えるともうよくわかんなくなってきて、最終的には、「おれが完全なるブッダになるしかない」と(笑)。
 つまりこれは、なんていうかな、理想論ですけども。もう細かいことはちょっとやってらんないから(笑)、「わたしが触れただけで相手が解脱するくらいの存在にわたしがなるしかない」と。だって、そうじゃないと、なんていうかな、今言ったように、非常にジレンマが多過ぎると。実際問題としてね。だからああだこうだやることを考えるより、まずはわたしが完全なるブッダになろうと。もちろんそれでも、できること・できないことの、なんていうかな、枠組みはあるだろうけども。でもそれでもブッダじゃないよりはましだよね(笑)。まずわたしが、ブッダ、あるいは完全なる聖者になれば、この今、なんの智恵もない、なんの力もない状態でああだこうだ考えてるよりは、よほどみんなのためになるだろうと、ね(笑)、思ったわけだね。だったらわたしはまずはひたすら修行しようと。
 もう一回言うけども、いろんな役割があると思うよ。こういう修行とかじゃなくて、ボランティアとかで社会に貢献する人はそれはそれでいいと思う。で、わたしは修行者だと。ああだこうだ考えるよりも、ひたすら修行して、で、仏教でいうブッダ、あるいはヨーガでいうバガヴァーンの境地まで至り、つまり自分の可能性を最大限まで引き上げて、で、つまり最大限、みんなのためになれる可能性のある存在になろうと、思い至ったわけだね。で、これを菩提心っていうんです。つまり菩提心っていうのは、いつも言ってるけども、単純なる慈悲じゃないんだね。慈悲っていうのは、「みんな幸せになってほしいなあ。みんな苦悩から解放されてほしいなあ。そのためには自分はどうなってもいい」――これは慈悲です。で、この慈悲の、さらにその現実的な進化形として菩提心があるんだね。そのためには、わたしが修行して、まずは偉大な達成をするしかないじゃないかと。それが一番いいんだっていう考えね。
 だから菩提心っていうのは、単純なる愛情とか優しさとかではない。勇猛なる決意なんだね。つまり、「みんなの責任をわたしが負います」と。
 ラーマクリシュナの話でもよく出てきたけども、ラーマクリシュナの弟子たちもそういうパターンが多かったね。つまり、「みんながやんないんなら、おれがやる」っていう、そういう発想なんだね。「みんながやらないならわたしがみんなの分修行するから、安心しなさい」と。こういう勇者的な心っていうかな。
 だからね、菩提心っていうのは実は、菩提心っていう言葉を直訳するとね、ボーディチッタっていって、単純に「ボーディ」っていうのは覚醒とか悟りのことなので、「チッタ」っていうのは心のことなので、直訳しちゃうとね、ただ「悟りの心」っていう意味しかないんだね。でもその菩提心っていう、実際使われ方としては、今言ったような、修行者が「みんなのためにブッダになるぞ!」っていう決意をして、その心を菩提心っていうわけですね。だからチベットでは、菩提心のことを意訳してるんですね。表面的な訳じゃなくて意訳して、「チャンチュプセム」っていうんですけども。この意味っていうのが、単純なる「悟りの心」ではなくて、「悟りを目指す勇猛な心」っていう意味なんだね。勇猛な心。つまり今言ったように、自分だけの悟りではなくて、みんなの悟りを達成するために、そのためにわたしはみんなの荷を背負いましょうと。ね。みんなまだ目覚めてなくてあんまりやらないだろうから、わたしが――もちろんみんなも気付いたらみんなもやってほしいわけだけども、まずはわたしが、全力でブッダになりましょうと。それはつらい道だけども、みんなのためならわたしはやりますよと。何があってもわたしはこれを早く早く達成しますよと。だってわたしがどれだけ早く達成するか、あるいはどれだけ高い達成をするかによって、わたしと縁のある人がどれだけ救われるかが決まってくるんだから。
 だから、ここにはなんの人任せな態度もない。あるいはなんの言い訳もない。だって――もう一回繰り返すけど、わたしの前には今、道が示されてると。修行っていう道が示されてると。で、わたしの周りには、苦しんでいる縁ある魂がいっぱいいると。ね。で、その多くの縁ある魂は、修行っていう道がまだ示されていないと。口でわたしが「修行」とか「解脱」とか言っても、誰もピンときてくれないと。でもわたしの場合にはあるんです。だったら「みんな修行しろ」とか言うよりも、おれがするしかないじゃないかと(笑)。まずはおれがやるんだと。まずはおれがやって、何度も言うけども――例えば仏典とか見ると、あるいはヨーガ経典とか見ると、ブッダっていうのは全智者だといわれてる。全智者っていうのは、まあ『無明を超えて』の「覚醒の虹の宝飾」とかを見るとわかるけども、ブッダの道を進むにつれて、われわれは、例えばだけどね、変化身と呼ばれる分身をいっぱいいろんな世界に飛ばして救済もできるし、あるいはいろんな神通力を使って、非常に効果的にみんなの修行を進めてあげることもできるし、あるいは、そうだな、本当に慈愛が高まれば、いるだけで周りを安らがせたりとか、いるだけで周りの魂を目覚めさせるような存在になれるんだって書いてあると。じゃあ、やりゃあいいじゃないですかと。じゃあ、まずはおれがそれになるしかないんだと。でも、そのための修行ってきついなと。きついけども、わたししかやる人がいないんだったら、やりましょうと。ね。大丈夫ですと。どんな苦悩も来てくださいと。こういう勇猛な心を、菩提心、ボーディチッタっていうんだね。
 で、ちょっと話戻りますよ。――これを、いいですか、みんなが持ってほしいと。これが菩薩の願いなんだね。だから菩薩の願いっていうのは、ここに一応「わたしは」っていうかたちで書いてあるけども、つまり単純に、「ああ、世界中の人たちが現世的に幸福になってほしいな」――これじゃないんです。もちろんこれはこれで素晴らしいよ。素晴らしい慈悲の一つですけども。でもそこには実はフォーカスされてないんだね。――っていうのは、菩薩っていうのは、あるいは修行の経験が多い人っていうのは、実際にはもちろんいろんな経験をしてきてるわけですね。輪廻も含めて、あるいは今生でもいろんな経験をしてきてる。それによって、何が不幸で、何が幸福でっていう基準が、ちょっと普通の人と違うっていうか、普通の人よりもつまり深くなっているわけですね。つまり普通の人が考えているような、例えばお金持ちになるとか、あるいは、まあ単純にいい人間関係に恵まれるとか、あるいはいろんな名誉やプライドを満たすとか、それが、決して、そんなに幸福ではない――どころか、苦の原因にさえなるっていうことがよくわかってる。だから――これはお釈迦様も言ってることですけども――「真理を理解している人と、あるいは現世の普通の人では、見解が全く逆になる」と。ね。
 見解が逆になるって、これは意味わかるよね。例えばある人がね、そうだな――これは有名な話でね、お釈迦様がお城で王子様だったときに、「さあ、家を出て修行しようか。でもお父さんが許してくれないからどうしようか」って悩んでるときに――そのころもうお釈迦様は結婚してたんだけど、奥さんが子供を産んだんですね。その知らせを聞いて、お釈迦様は「障害だ!」って叫んだんだね。障害っていうのは――空の日食とか月食とかを起こす現象をインドでは「ラーフ」とかいうんですけども、それと同じ語源で、そのときお釈迦様は、「障害だ!」っていう意味で「ラーフラ!」って叫んだらしいんだね。それをお付きの人が、「あ、名前付けてくれた」と思って勘違いして(笑)、お釈迦様の子供は障害っていう意味の「ラーフラ」っていう名前になったっていう話があるんだけど(笑)。これなんかはまさにそうだよね。
 例えば結婚しましたと。「ああ、よかったですね」と。普通そうですよね。でも修行の観点から言うと――Mがね、ラーマクリシュナに出会ったときもそうだったけども、「おまえ結婚してるのか!?」と(笑)。「おお、神よ!」って(笑)、ラーマクリシュナがやって、最初はMはラーマクリシュナのことがよくわかんなかったから、すごいドキドキしちゃって(笑)。「えっ、結婚ってそんな悪いのか」と。そしたらラーマクリシュナが、「おまえ、子供はいるのか?」って聞いてきて(笑)。Mは超ドキドキしながら、「います」と。そしたらラーマクリシュナが、「子供までいるとは!」と。お付きの者にね、「おい! 子供もいるそうだ!」みたいな感じで(笑)。
 ただね、これは完全にラーマクリシュナのグルとしての手腕だったんだね。つまりそういうショックを与える一つの、まあ弟子への療法だったんだね。Mのプライドとか、あるいは現世的な心を打ち砕くための一つのテクニックだったんでしょうね。

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