解説「菩薩の生き方」第十八回(3)

はい、そして、この最後の後半のところ、
「『かくなそう』と誓言しながら、行為によって私がそれを成就しなかったならば、一切の者を欺くこととなり、その結果、私はどこへ向かわなくてはならなくなるだろうか(悪趣に向かう他はない)。」
はい。これは恐ろしい話だね。つまり、もう皆さんは逃げられないですよ(笑)。ここにいるほとんどの人は(笑)。つまり、もう誓言してしまったと。ある人はもちろん、さっきから言ってるように、本当に心から、わたしは菩薩になるぞ、みんなを救うぞと思ったと。あるいは、神の道具としてみんなを救う道具になるぞと。あるいは、みんなを救うために仏陀になるぞと思ったと。ある人はそこまで深くは考えてないが、ああ、素晴らしいと。よし、わたしは菩薩になろうと思ったと。で、ある人は、詞章とか歌で発願させられた(笑)。
(一同笑)
まあ、それはちょっと冗談としても、そういう道に入って、なんとなくそっちのフィーリングに心を向けさせられたと。でもなんにせよ、皆さんはそういう思い、発願をしてしまったと。で、それは、もう言ってみれば――何度もこういう話してるけどね――皆さんと縁のある衆生との契約なわけですね。皆さんを救いますよと。多くの衆生はまだまだ――もちろんね、みんながみんなしっかり修行して自ら覚醒していくと。これは一番楽だし、一番いいことですよね。でもやはりカルマ的にまだまだ、そこまでみんながいってないと。よって、みんなの進化のスピードを進めるために、早く自分が修行を進め、あるいは実際に物理的ないろんな救済活動を将来において行なえるように、早く早く自分が覚醒しなきゃいけないんだと。そしてできる範囲で、今からそのような救済のお手伝いをしていくんだと。それをしますと。この発願をした段階でもちろん、意識的には誰も気付かないが、縁という意味では多くの衆生と契約を結び、その衆生の、潜在意識っていうか潜在意識よりより深い、心の奥底の意識は、それをみんな喜んでると。「ああ、ようやくわたしも救われる」と。「わたしと縁のある彼がやっと本気で修行してくれる」と。こういう感じでみんなをある意味で喜ばせてるわけだね。「ああ、そうか」と。「君がやってくれるのか」と。「本当にうれしい」と。「わたしのカルマではまだまだ、この地獄から救われないんだ」と。「でも縁のあるあなたがやってくれて、救ってくれるのか」と。「本当にうれしい」という魂がたくさんいると。
そこまで契約をしておきながら、つまり喜ばせておきながら、「やーめた」と言ってしまったら(笑)、これは、もうとんでもない話だと。つまり現世的な、例えば金銭的な詐欺とか、そんなものとは比べものにならない。それはもう本当に大いなる詐欺であり、大いなる責任放棄であると。だからそんなことをしてしまったら、悪趣、つまり地獄・動物・餓鬼に行っちゃいますよと。これは恐ろしい話だね。
でもこれはさ、別に、これが事実なのかどうかっていうのはどうでもいい話。それは別に考える必要はない。つまりシステムとして、菩薩が修行をやめたり発願を捨てたら悪趣に行くのか?――これはどうでもいい。そういう話ではなくて、ここら辺はもちろん、自分を鼓舞する話として使ったらいいね。つまり、わたしはもう、一度は決意したんだと。あるいは発願したんだと。菩薩の道を行くんだと。だから責任が生じてるんだと。だからそのわたしがもしここで修行を諦めたり、菩薩道を諦めたり、みんなを救うことを諦めたりしたならば、それはもう地獄に行くしかないんじゃないか?と。こういう自分を鼓舞する厳しい意識としてここはとらえたらいいね。
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