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「楽空無差別の維持」

◎楽空無差別の維持

【本文】

 好き・嫌いの分別を断じて一味平等にしていくためには、空性の見解を十分に理解したうえで、サハジャの歓喜と合一させ、瞑想においてそれを味わうことが、主なる方法となる。
 これをよく維持したならば、瞑想から立ち上がって現実生活に戻った時に、目の前にあらわれるすべての現象は、「幻」として認識される。

 また、生起次第のプロセスにおいて説明したように、日常生活において現われるすべての顕現を、すべてはイダムとその宮殿であると見て、その本質として現われる堅固なサマーディを生じさせ、すべてのあらわれを浄化していく、ということを修習するならば、自分自身は実体のないイダムであるという認識が、自然に生ずる。

 これは非常にさらっと書いてあるけども、実際はとても大変な話なんだね。つまり具体的な、すべては幻であるっていうことを悟る修行が書いてあるわけですが、簡単にいうと、「空性の見解を十分に理解したうえで」って書いてあるね。つまりこの一行、一行っていうか十数文字のこの文字、これが非常に大変なわけです(笑)。
 一切は空であるという教えを、まず十分に理解する。ここでいう理解っていうのは、本を読んで理解すればいいわけではない。つまりいろんな修行をして、実際はここでさっき言ったマハームドラーとかが使われたりするわけですが――一切は空であると。実体がないと。あるいは、すべては縁起の流れに過ぎないとか、いろんな言い方がされるけども、とにかく日々いろんな修行を進めることで、さまざまなこの二元の世界への執着を捨てていって、一切は空であるっていう見解を深めていく。これが一つ。 
 それと同時に、サハジャの歓喜。ね。サハジャの歓喜っていうのは、このあいだまでの熱のヨーガの修行の説明で出てきたわけだけど、つまりクンダリニー・ヨーガ的な修行を進めてね、そして甘露が落ちてきて、歓喜を経験しますよと。その歓喜が四段階あるわけだね。四段階の最高の歓喜、これをサハジャの歓喜といいます。つまり、クンダリニー・ヨーガとかであらわされる至福感の最高の状態を経験しましょうと。
 その最高の至福感と、それから今言った「一切は空である」っていう悟り、この二つを混ぜ合わせる。これを楽空無差別とかいうわけですが――つまりものすごい至福と、一切は空であるっていうのが、一つであるっていうことを悟るんだね。
 これはだから相当高い境地なわけだね(笑)。それを十分に味わい、そこで、その味わった人が現実生活に戻りましたと。そのときにこの世は、さっき言ったように、すべては幻であったと、苦も楽も、あるいは好きも嫌いも、すべては一つであった――ということを、ありのままに悟るんだね。
 だからこれは今日明日できるもんじゃない(笑)。ね。みなさんが日々クンダリニー・ヨーガの修行、それから精神的な悟りのプロセス、この両方を日々進めていくしかない。

◎すべてはマンダラ

 で、もう一つのパターンとして、「日常生活において現われるすべての顕現を、すべてはイダムとその宮殿であると見て、その本質として現われる堅固なサマーディを生じさせ、すべてのあらわれを浄化していく、ということを修習するならば」云々。
 これも熱のヨーガの説明でもちょっと出ましたが、すべては曼荼羅であると――これはダライラマ七世もそういうことを言ってますが――すべて、この現実世界のすべては、ブッダ方と菩薩たちが演じている曼荼羅のお芝居であると。
 これは非常にバクティ・ヨーガの見解と近い。すべては神のお遊戯ですよ、リーラーですよっていう言い方をするわけだけど。一切はブッダと菩薩とそして曼荼羅なんだと。曼荼羅世界がこの世界のすべてなんだと。この世界には、ブッダとその清浄なるブッダの曼荼羅の世界しかないんだという見方をするんだね。
 これはいろんな言い方がある。バクティ・ヨーガでみなさん慣れてるだろうから、バクティ・ヨーガの場合はもっと単純にね、すべては神の愛ですよ、すべては神なんですよ、例えばすべてはクリシュナなんですよって言い方をする。これでもいい。
 つまり、多様性って表面的なものなんだけど、それはあくまでも表面であって、本質的に多様性があると思っちゃいけない。
 例えばTさんがいて、Mさんがいて、Rさんがいますねと。Nさんもいますねと。この人はこうでああでこうで、こういう多様性っていうのは、表面的にはもちろんその多様性を駆使しないとコミュニケーションも取れないし生きていけないから、それは表面的には駆使するんだけど、より深い見解としては、「でも全部クリシュナなんだよね」とかね。あるいは例えば、「全部、実際はすべてはブッダの曼荼羅なんだよな」っていう見方をする。これを日々練習するんです。日々何を見てても、「この世界はブッダの曼荼羅である」、あるいは、「この世界はクリシュナのお遊戯である」。
 だから、いろんな起きる現象に関してもね、こういう見方をすると、まあ、あまり悩んだりはしなくなるね。例えば何かをして大失敗したとしても、「ああ、これもなんか曼荼羅だな」と(笑)。あるいは「至高者のリーラーだな、遊戯だな」っていう感じで、あまりそこで落ち込まなくなる。あるいは例えばいきなりひどい人がやってきて、そのひどい人に何かをめちゃくゃにされたとしても、そこでもうあんまり悩まない。逆に笑えてくるかもしれない。「ああ、クリシュナがひどい男の格好をしてやってきてめちゃくちゃにした」と(笑)。「いや、クリシュナは本当に完璧だな」と。ね。こういう見方をいろんなことに適用していくんだね。
 これを日々やってると、ここに書いてあるように、「自分自身は実体のないイダムであるという認識が、自然に生ずる」と。
 だから、実際われわれがやるべきことっていうのは、ここの部分だけを取り出すとね、この二つの教えだけを取り出すと、まず第一の教えとしては、さっき言った、空を悟り、そしてサハジャの歓喜を味わうというのは、それはまだちょっと先の話なので、まずわれわれがやるべきことは、この結果として書いてある苦楽一味平等、あるいは好き嫌い一味平等、これを徹底的にまず考える。考えて実践することをやるといいと思います。

◎相対的感情を超える

 つまりもうちょっと具体的にいうと、自分の中で好き嫌いをなくしていく。こうなったらいいな、こうなったら嫌だなっていうこの――つまり仏教的にいうと、よく「八つの現世的風」とかいうわけだけど、得られたらいいな、失ったら嫌だな――これをなくしていく。得てもOK、失ってもOK、平等にしていくんだね。あるいは、褒められたら嬉しいな、でもけなされたら嫌だな、これもなくしていく。どっちでもOKと。褒められるもけなされるのも、全くわたしにとっては平等であるっていうことを、まず瞑想においてやります。
 瞑想っていうか、そうだね、瞑想してもいいし、日々いろんな形で考える。わたしは、わたしにとっては褒められようがけなされようがどちらも平等であると。すべては――まあいろんな考え方があるけどね――すべては空であると考えてもいいし、すべては神のリーラーであると考えてもいいし、あるいはカルマであると考えてもいいし、とにかくそこにおいてわたしは一切心を動かさないぞと。わたしにとってはどちらも同じなんだということを、しっかりと自分で固めた上で、日常生活で訓練します。ね。
 まずはしっかり教えを学び、瞑想して、自分の中でまずは固める。これは例えば懺悔のときにやってもいいよ。夜寝る前に懺悔をして、わたしは今日もいろんなことに心を動かしてしまったと。褒められたら喜び、けなされたら怒ってしまったと。あるいは、あるものを得たら喜び、失ったら悲しんでしまったと。こんなんじゃ駄目だと。わたしは明日こそは、徹底的にすべてを平等に見るぞと。
 で、実際に日常生活でいろんなことがあって、それをすべて平等に見る。あるいはそうだな、何か起きそうなときとか、これは逆にいい訓練になる。つまり、もう来ちゃったものじゃなくて、何か来るとき。期待か恐怖をもつよね、われわれはね。例えば、そうだな。どんなのがあるかな。みんなにとっての日常的な期待って何があるかな。まあじゃあちょっと、みんなっていうより一般的なね、話として言うよ。みんなはもう修行者だから、ちょっと条件が違うだろうから(笑)。一般的な話として、例えばMさんがお菓子が大好きだとしてね(笑)、たとえ話としてね(笑)、お菓子が大好きだとして、ある上司が美味しそうなお菓子を職場に持ってきて、何かこう配り始めた。で、Mさんのところにはまだ来てないんだけど、ここで当然期待が生じるわけだね。「あ、美味しそうだ」と(笑)。「これはあの雰囲気でいくと、絶対わたしにも配られるな」と。「なんか本当に美味しそうで、あれを食べたらわたしは本当に幸せだな」――この気持ちがある。でも何かの手違いか意地悪かで、Mさんにくれなかったとするよ(笑)。そうするとそこで落胆が生じるわけだよね。落胆っていうのは、そのお菓子を食べれなかったっていう落胆と、何でわたしだけくれないのっていう落胆とか(笑)、いろいろ生じるわけだよね。つまりそれは期待があったから、「くれたら嬉しいな」っていうよりも、もうそれが当たり前だと思ってる。だからそこで、そうじゃないときに落胆が生じる。これはもうミスなんだね。
 じゃなくて、そこでMさんが考えなきゃいけないのは、「あ、うまそうだ」と。「しかし、これが来ても来なくても、わたしには関係がないのである」と(笑)。このような訓練をするんだね、いろんなことにおいて。
 これは苦しみにおいてもそうだよ。例えば、苦しいことがやってきそうだ。例えばすごい苦しい作業があるとして、じゃあこれを誰にやってもらおうかな。で、Mさんがそれを超やりたくないとするよ(笑)。で、ドキドキする(笑)。「こっちに来ませんように、来ませんように……」(笑)。これで「Mさん、やってください」と言われたら、「えーっ! マジですか?」と(笑)。逆に他の人に当たったら、「ラッキー!」となるよね(笑)。これは駄目なんです。つまりもうこの段階で、「さあ、誰にしようかな」っていう段階で、「どちらでもよい」と(笑)。
 だから心の中でシュミレーションするといい。仮にわたしが、この嫌な仕事に当てられたとしても、わたしは全く関係ないと。構わないと。嫌でもなんでもないと。逆にわたしにならなかったとしても、それはそれで全く心は動かないと。そういうことをシュミレーションする。
 つまりこれは、まだわれわれは悟ってないわけです。悟ってないから、そういうことから始めるしかないんだね。そういういろんなシュミレーションをして、心の中から、こうなったらいい、こうなったら嫌だっていうのをなくしていく練習をする。

◎日常における訓練

 そういう意味でいうと、このわれわれの日常のいろんな生活っていうのはね、いい修行になるんだね。いろんなことが日々起きるじゃないですか。いろんなことが起きて、われわれはもう本当にちっちゃなことから大きなことまで、日々希望と恐怖にさいなまれ、で、落胆したり、あるいは喜んだり、あるいは終わったことに対して後悔したり、そんなことばっかり繰り返してる。それを意識的に断ち切ってくんだね。一つ一つ。
 それを、もう一回言うけども、時間のあるときは懺悔したり瞑想したりしながら、心の中でそれをまず固める。そして日常生活においては、実際にリアルにいろんな場面においてそれをやってみる。
 大体ね、そういうことを日々繰り返そうとしてると、神の愛によって、そのようないろんな試練みたいなのがやってきます。つまり、心を動かされるような場面がぱーっとやってくるんだね。
 例えばある段階の、それについてはわたしはもう心動かなくなった――じゃあ、これはどうだ!っていう感じで(笑)、こう来るんだね。さあ、これが来たら本当にに嬉しいよと(笑)。でもそうじゃなかったら落胆するよっていう場面がいろいろ設定される。でも心を動かさないと。
 でね、ちょっと話が飛ぶけど、修行者にとって最高の修行者はどういう修行者かっていうと、そういう意味ではね、器の広い修行者。
 この器の広い修行者とはどういうことかっていうと――今言った、この苦楽に揺さぶられる――ここから脱出するには、一番いいのはね、世の中から消えればいいんです。つまり、人と接するからそのような期待と落胆が生じる。よって、できるだけ山とかに籠って、内側に籠るっていうことをやればいい。もしくはそこまで行かなくても、自分の苦楽の原因となるものをできるだけ押しのける、これは一番楽だね。
 じゃなくて、修行を進めると、これはいつも言うように、ヨーガの修行を進めると、さまざまな幸福がやってきます。幸福ね。つまりチャクラが浄化されるにしたがって、いきなりいろんな人にモテるようになったり、あるいはいきなり物質的にも豊かになったり、あるいは願望が叶っていろんなものが手に入るようになったり、あるいは多くの人から尊敬されるようになったり称賛されるようになったり、いろいろするわけだね。
 ここで、二つ道があります。まあ三つだね、正確に言うと。三つ道があります。一つ目の道は、これは堕落の道です。つまりその罠にはまってしまう。その一時的な、例えばモテるようになった、そこではまっちゃって、わーって性欲の世界で溺れて堕落していく。あるいは、いろんなものがこう集まってくるようになった。そこではまってしまって、物質世界に没入してしまう。これは最悪なわけだけど、じゃなくて乗り越える道にも二つあるんだね。
 一つ目は遮断。遮断っていうのはつまり、苦しいから最初から関わらない、そこには。その道ね。ああ、なんか喜びが増してきた。でもこの喜びに手を触れると、絶対その後苦しいから、もうわたしはいいです。関わりません。静かにしてますと(笑)。そういう道ね。
 もう一つの道は、勇気を持って任せる。任せるっていうのはつまり、一番目の道ははまっちゃうんだけども、はまりはしないが任せる。つまり喜びが来たんだったら、それはそれでOKと。任せる。その後、苦がくるのは分かっている。でも、さっき言った平等の修行をするんだね。つまりはっきり言って、喜びが大きければ大きいほど、その後の苦を平等に見るっていうのはとても辛いんです。ちっちゃなやつだったらできるでしょ?
 またMさんで言うと、Mさんがちょっとだけ好きな、超好きなんじゃなくてちょっとだけ好きなお菓子だったら、持って来られても、まあ嬉しいかな。で、それが持って来られなくても、まあ別にそんな苦でもないと。これは苦楽平等って見やすいんだけど(笑)、超楽しいこととか、超期待したことを外されたときの落胆っていうのは、それだけギャップが大きい。でもそれを勇気を持ってそこに没入する。没入っていうか、ありのままにそれをお任せして経験する。そうするとその人は器が非常に大きくなります。
 だから巨大な苦楽が来ても――じゃあ、ものすごい極端な話をするとね、これは極端だけども、地獄も天も平等に見れるくらいじゃなきゃいけない。今日天界に連れていかれて、もう絶妙なエクスタシーを経験したと。でも次の日地獄に落とされて、体中を切り刻まれると。これは極端な話だけどね。これくらいのものがあっても平等に見れるぐらいまで、自分を鍛えていく。これが最高なんだね。

◎二つのものの見方の訓練

 はい、ちょっと話が広がっちゃったけど、今言ったのは極端な話だけど、そうじゃなくて日常生活の中でいろんなことがやってくる。それをすべて苦楽平等に見る。あるいは好き嫌い平等に見る。神からの試験なんだと、試練なんだと考えて、心を動かさない訓練をする。これがわれわれの一つの修行ですね。
 で、もう一つの修行は、さっき言った、それと同時にね、すべてを神の遊戯、あるいはブッダの曼荼羅と観る。起こることはすべて神のお遊びだと。もちろんここでいうお遊びっていうのは、ただ遊んでるんじゃなくて、われわれを幸福に導くためのさまざまな神のお遊びだと。それを多様性の方に心合わせちゃいけない。多様性に心を合わせると、例えばT君が変なことを言ってきたときに、「なんだTは!」と(笑)、ね。「Tはこうでこうでこうで……」となるわけだけど、T君っていうふうに見ちゃいけないんだね。わたしの世界というこの曼荼羅の中での神のお遊びが、今T君っていう形で、こういう表現をわたしにしてきたと。こういう一元論的な見方をするんだね。
 ここに書いてあることを現実的にみなさんがやるとしたら、この二つを日々やるといいと思います。
 もう一回最後に簡単にまとめるよ。一つ目は、恐怖と期待、苦しみと楽、ね、こういったものを日々平等に見る訓練をする。そして現実生活においても平等に見る訓練をする、これが一つ目ね。
 もう一つは、すべては神やブッダの曼荼羅であると、遊戯であるっていうふうに見る見方を日々練習する。この二つが現実的な、まずわれわれがやるべき幻身のヨーガの修行になります。

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